人情の至り、すなわち道なり
―仁斎倫理学の人間学的基底
『論語』子路篇の第一八章は、葉公と孔子との間で交わされた次のような問答からなるものである。いま伊藤仁斎が『論語古義』でしている訓み方にしたがって書き下し、同時に仁斎の理解にしたがって現代語訳をもしてみた。
「葉公、孔子に語りて曰く、吾が党に躬を直くするものあり。その父羊を攘みて、子これを証す。孔子の曰く、吾が党の直きものは是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り。」
[訳]葉公が孔子に語っていった。わが郷党には正直者がいる。父が羊を盗んだことを、その子が正直に証言した。孔子はこれを聞いていわれた。われわれの間で正直というのはそれとは違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。正直とはむしろ父子が隠し合うことの中にあります。
この章の大意を仁斎は『古義』でこう語っている。
[大意]隠すことは正直ではない。しかしながら父子が隠し合うのは人情の至極というべきである。人情の至り、即ち道なり(人情の至極は、すなわち道である)。それゆえ夫子は「直(正直)」という徳は父子隠し合うそのことの中にあるといわれたのである。もし人情が道に合することであるならば、人情による行いが道にはずれることは決してない。
さらに仁斎は「人情の至り、則ち道なり」という、仁斎によって初めていわれた「人情」概念に基づく倫理学的テーゼをめぐって、朱子の「天理人情」論を批判しながらこう論じている。『古義』におけるこの[論注]は、仁斎の人間学的倫理学の成立にかかわる重要な論説である。
[論注]旧注(朱子集注)に「父子相隠すは、天理人情の至りなり」とあるが、これは間違いである。朱子は「人情天理」を分けて二つにしている。だが人情とは天下古今の人びとが同じくするものであり、五常百行という人間の行為規範も行為様式も人の同じくするこの人情によって成立する。人びとに普遍的なこの人情を別にして天理なるものがどうしてあろうか。もし人情に合することなく、天下の難事を仕遂げた人がいたとしても、その心は実に豺狼(山犬や狼)の心であり、そのような人と私はともに行うことはできない。学者のなすことは、人情による行いを礼でもってほどよく整え、義をもって適正にするだけである。だが後世の学者はいたずらに「公」字をめぐって説くことを喜ぶ。その弊害は道を傷なうにいたっている。なんとなれば親疎貴賤の区別なく、是を是とし、非を非とするのが公であると彼らは説くが、それにしたがえば、父が子の為に隠し、子が父の為に隠すのは直(正直)ではなく、それを公とすることはできないことになるからである。しかしながら夫子がこれを直(正直)とするのは、父子相隠すのは人情の至極というべく、礼も義もこの所において成立するからである。それゆえ聖人孔子は礼をいって理をいうことはないし、義をいっても公をいわれることはない。人情を外にして、恩愛を離れて求めたりする道とは、異端者の尚ぶところであり、決して天下の人びとが同じく往くところの道、天下の達道ではない。
「人情」ー仁斎倫理学の人間学的基底
[私の評釈]仁斎は孔子とともに父子という人倫的関係性の情的表現というべき「父子相隠す」という行為に「直(正直)」を見ようとしている。彼らは「羊を攘む」という父の犯罪の子による告発的証言よりも、「父子相隠す」という父子関係に立った人情的行為を人倫的世界の成立にとってより重要なものとして取ったことを意味している。「父子相隠す」ことの方が「道」に近いとしたのである。
仁斎はこの立場を、「父子相隠すは人情の至りなり。人情の至りは、即ち道なり」という言葉をもっていった。これは仁斎倫理学の基本的テーゼといっていい。ともに喜び、ともに悲しみ、ともに憂え、ともに楽しむ「人情」は、「人の道」の普遍性を基底的に支える概念になるのである。仁斎はそれを、「人情とは天下古今の同じく然るところのもの、五常百行、みな是れによりて出ず」というのである。
朱子学において「人の道」の普遍性を支えるのは「天道」であり、究極的には「天理」であった。「天理」は超越的であるとともに、人に内在する。「性(道徳的本性)」とは人に内在する「天理」である。人は普遍的であり、道徳的でありうる根拠をすでに備えているのである。
だがこの「天理」とその形而上学を否定する仁斎にあって、人とその行為はいかにして普遍的であり、道徳的でありうるのか。人はただ生生的存在であるならば、その行為の普遍性・道徳性を可能にするのは、人の生存がそなえる「知」と「情」とによるしかない。「知」は人間的体験の古今にわたる広く、深い学習によって「法」を獲得する働きである。「情」は同情・同苦という対他的心情の涵養によって人倫の実情的基底を形成する働きである。こうして「人情」が仁斎倫理学において道徳の普遍性を基底的に支える概念として構成されることになる。この「人情」概念の構成に仁斎倫理学の日本的性格を読み取るよりは、むしろ生生的存在としての、まさしく「生活する存在」というべき「人間」の学としての倫理学の本当の成立を見るべきではないか。
[これは9月26日の論語塾の「仁斎とともに『論語』を読む講座」でのべたものである。]
初出:「子安宣邦–思想史の仕事場からのメッセージ-」2015.9.27より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/44074620.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study657:150929〕