1「宣長問題」
私はかつて「宣長問題」とは何かを論じたことがある。それは加藤周一が「ハイデガー問題」に擬して「宣長問題」をいったことへの批判としてであった[1]。加藤がいう「宣長問題」とは次のような「宣長における謎」を指している。「今さらいうまでえもなく、宣長の古代日本語研究が、その緻密な実証性において画期的であるのに対し、その同じ学者が、上田秋成も指摘したように、粗雑で狂信的な排外的国家主義を唱えたのは、何故かということである。」
加藤は宣長の「二面性」をいう。すなわち宣長の主著『古事記伝』に見るような「緻密な実証性」をもった合理的な注釈学者としての宣長と、『馭戎慨言(からおさめのうれたみごと)』といった露骨な書名をもった著書だけではなく、『直毘霊(なおびのみたま)』や『玉くしげ』などの宣長の国学的論説書に見る「皇国」の優越性を激しい排外主義的な言説とともに主張する非合理的なイデオローグ宣長との間に、加藤は解き難い「謎」としの宣長の「二面性」をいうのである。これを「宣長問題」というのである。
『存在と時間』の深甚な存在論的哲学者が同時にナチス党員であったところに、解き難い「謎」としての「ハイデガー問題」を見る加藤は、それになぞらえて宣長の上のような「二面性」に解き難い「謎」を見て「宣長問題」をいうのである。だがこのように加藤にしたがって「宣長問題」を見てきた私は、宣長における「謎」も「問題」も近代主義者加藤による言説的な構成物だと思わざるをえない。宣長における「謎」も「問題」も加藤のものであって、宣長のものではない。宣長の『古事記伝』をただ緻密な実証主義的注釈学の成果とすることが、宣長に「二面性」を作り出し、その「二面性」が「謎」とされ、「宣長問題」とされるのである。
だが「宣長問題」とは『古事記伝』の言語学的実証性を評価する加藤が宣長に見出す「謎」ではない。むしろ『古事記伝』が宣長によって書かれたそのこと自体が一つの大きな「問題」なのである。『古事記伝』が存在することは近代日本の国家的な存立に決定的ともいえる意味をもっている。『古事記伝』の宣長における存立自体が「問題」だというのは、そういう意味においてである。宣長における『古事記伝』の成立とは、『古事記』が宣長によって絶対的に選択されたことを意味している。『古事記』は、『日本書紀』や『旧事紀』『風土記』などの古記録の中から相対的にましなテキストとして選ばれたのではない。『古事記』は「日本の神」とともに、「日本という国」が、そして「日本語」が、それを話す「日本人」が唯一読み出される神話テキストとして選択されたのである。宣長が『古事記』を絶対的に選択したということは、彼にとって「日本(やまと)」がすでに自己同一的な原基(ファンダメンタール)として絶対的であったことを意味している。一八世紀の徳川日本は「日本」が己れにとって絶対的であるような青年学者を伊勢国松坂に生み出したのである。この宣長によって『古事記』は「日本」を読み出しうる絶対的な神話テキストとして選択されたのだ。
宣長における『古事記』のこの絶対的な選択から『古事記伝』は成立する。『古事記伝』とは『古事記』という漢字テキストからいかに「日本」が読み出しうるか、その注釈学的方法と徴証とを、思想方法論的マニフェスト『直毘霊』とともに示した四十四巻からなる大著である。この『古事記伝』の宣長における成立を「宣長問題」というならば、それは「日本」という民族的国家(ネーション・ステート)の成立にかかわる「問題」だということである。これを「宣長問題」というのは、「日本」の成立もまた宣長とともに読み直し、問い直しうる「問題」としてあるということである。
「宣長問題」をこのようにいってくれば、「問題」という概念がすでに変容していることを明かにする。加藤のいう「宣長問題」とは、宣長という思想的言説主体に投げ入れられる〈疑い〉である。すなわち宣長という思想主体における同一性をめぐる〈疑い〉である。それに対して私がいう「宣長問題」とは、宣長に『古事記伝』が成立することが、近代日本という民族国家の原基的な成立にかかわるとしながら、これを宣長とともに問い直すべき問題として構成することを意味する。「問題」は「疑い」から「論点」あるいは「問題群」へと変容しているのである。この変容は「思想史」の方法論的転換をも意味している[2]。「思想史」の方法論的転換については私の書に譲って、すでに転換された思想史的言説としての本稿の先を進めよう。
ところで私はここで「仁斎という問題」を課題として掲げながら、なぜ「宣長問題」から語り始めているのか。
2 「仁斎という問題」
私が「仁斎という問題」を課題として掲げながら、ここで「宣長問題」から語り始めているのは、宣長における『古事記伝』の成立そのものが、「宣長問題」という大きな思想問題をわれわれに構成していくそのあり方を。私は仁斎における『論語古義』の成立に見ようとしたからである。ではなぜ私は端的に「仁斎問題」といわずに「仁斎という問題」といったいい方をしているのか。恐らくこのいい方には、私における「宣長問題」の既存性が留意されているのだろう。私は『古事記伝』と「宣長問題」にしたがって、仁斎における『論語』の絶対的な選択がわれわれに突きつけてくる問題を「仁斎の問題」として見ようとしているのである。私におけるこの試みの感覚があの課題の修辞をもたらしているのであろう。すなわち仁斎は『論語』を絶対的に選択した「仁斎という問題」として論ずべきだということである。
だが時間系列的〈思想史〉の立場からすれば、ここでのべていることは転倒だといわれるだろう。この〈思想史〉の立場からすれば、『論語』を絶対的に選択した仁斎古学がまずあって、これを古学的先蹤とすることで『古事記』を絶対的に選択する宣長古学があるというべきではないか。たしかに私もまた仁斎・徂徠・宣長という近世古学の系譜をたえずいってきた。だが宣長における『古事記』の絶対的な選択の古学的先蹤として仁斎における『論語』の絶対的な選択があることを誰れかがいっただろうか。少なくとも私は『古事記』の絶対的な選択にかかわって「宣長問題」をいっても、『論語』の絶対的な選択にかかわって「仁斎問題」をいうことはなかった。
宣長と『古事記伝』とを己れにおける内的体験として読んでいった小林秀雄は、仁斎が『論語古義』の各巻巻頭に記していった「最上至極宇宙第一」[3]という八文字に深い注意をはらっている。だが小林はこの八文字が仁斎における『論語』の絶対的な選択を意味するものとはとっていない[4]。宣長とその『古事記伝』とを内的な体験として読んでいった小林には、『古事記』が宣長によって絶対的に選択されたという事件性をもってこれを見るような外部的視点はない。その小林が「最上至極宇宙第一」の八文字に仁斎における『論語』の絶対的な選択という事件性を見ることのないのは蓋し当然といえよう。
だが小林について外部的な視点の欠落をいいながら、仁斎を読む私の視点に外部性はほとんどなかった。「宣長問題」をいい、「事件としての徂徠学」をいいながら、私は「仁斎問題」をいうことはなく、「事件としての仁斎学」を書くこともしなかった。私は仁斎については内在的に読み続けていた。私のこの仁斎の読み方に転機をもたらしたのは『論語』を市民講座の主題として読むようになってからである。
3 『論語』を読むこと
『論語』とは東アジア、すなわち中国文化圏における思想史を考えるものにとっての究極的なテキストだと私は考えていた。これを読むことが東アジアにおける思想史家の究極的な課題でもあると思っていた。だが古代中国の経書についての文献学的知識も方法ももたない私が『論語』を専門家以上に読むことができるとは思わなかった。それゆえ私はたとえば「伊藤仁斎が『論語』をどう読んだのか」という問題意識にしたがって、『論語』を読もうとしてきた。それが日本思想史家としての私の『論語』の読み方だと思っていた。私は『論語』の読み方を、日本思想史家としての読み方に自己限定していたのである。だがやがて後世のものが『論語』を読むことは、先人の読み方の痕跡を辿ることなくしてありうるのかという疑いをもつようになってきた。すなわち仁斎によって『論語』を読むというのは、日本思想史家だからそうするのではなくして、そもそも後世のものが『論語』を読むというのはそういうことではないかと思われてきたのである。すなわち古代中国に『論語』という一個的なテキストがあって、それを後世の一己的な文献学的読解者が解読するというのは文献学者がみずから作り出していった学術的神話ではないかのかと思われてきたのである。
私が思想史家としての『論語』の読み方に自己限定したときに、自分の読み方の向こうに見ていたのは、中国古典学者による専門的な『論語』の注釈学的読解のあり方であった。彼らにとって先ず『論語』とは原典としてのオリジナリティーを備えてテキストであった。そして『論語』テキストの始原性に相応しい始原の注釈を探り求めながら、あるいは諸注に精通した読解者の卓越性において、専門的読解者は『論語』の最終的な読みを完成させていくのである。私はこの専門的権威の世界を外部からは踏み込みえない神聖な領域と見ながら、自分の『論語』の読みをあえて思想史的に自己限定していったのである。たとえば伊藤仁斎は朱子に対立しながら『論語』をどう読んだのか、さらに荻生徂徠は朱子とともに仁斎を批判しながら『論語』をどう読もうとしたのかと、思想史的視点からの『論語』理解の立場に自己限定していったのである。しかしそのような視点からの読みを重ねていくうちに、『論語』を読むことは、先人の読みの迹を辿ることなくして、あるいは辿り直すこと、すなわち読み直すことなくしてはないと考えるようになった。
『論語』とは東アジアにおいて歴史的、空間的に最も多くの人びとによって読まれてきたテキストである。だから『論語』のテキストの上には二千年をこえる歴史における東アジアの人びとの読みと読み直し作業とが堆積しているということができる。『論語』のテキストとは二千年にわたる読みの痕跡だということができるのだ。その痕跡はテキストの上にあるだけではない。われわれの知的な遺伝子または言語として、われわれの読み方そのものの上にあるのである。それゆえわれわれは『論語』を読むときに、その痕跡を辿らずに読むということはありえない。あるいは無意識のうちにわれわれはこの痕跡によって、痕跡を辿りながら読んでいるのである。この痕跡の中でもっとも際だったものは朱子が刻したものである。朱子以降、彼の読みの迹を辿ることなくして『論語』を読むことはありえなかったのである。仁斎においても朱子の痕跡を辿り直すことで、はじめて彼の『論語』の古義学的読みがあるのである。『論語』のテキストが先人の読みの痕跡としてあり、その痕跡を辿り直すこととして『論語』の読みがあるとすれば、伊藤仁斎の読みを辿り直しながら『論語』を読もうとした私の読み方は、思想史的な読みへの自己限定などと自ら卑下する必要などのない、むしろ方法論的に正しい、自覚化された『論語』の読み方だとみなされてくるのである。
仁斎がどう読んだのかという関心から『論語』を見ていた私が『論語』を主題とした市民講座を開設したとき、私がしていった方法論的反省とはこのようなものであった[5]。ところで私が『論語』を読むことをめぐってこのように考えてきたことは、私が『論語』の読み方の方法論的転換をしたことを意味している。『論語』というテキストとは二千年にわたる東アジアにおける論語解釈と受容の痕跡だというとき、私はもはや『論語』を聖なる原典としての一個性を具えたテキストとして見ていない。私は『論語』を後世の解釈的言説と分けることのできないものとして、いわば「論語問題」として見ようとしている。『論語』とは二千年にわたって東アジアに「論語問題」を作り続けている希有なテキストであるのだ。われわれはいま21世紀の「論語問題」に直面しているではないか。
私は『論語』を「論語問題」として読むことを通じて仁斎の『論語』のとらえ方の特異性を知ったのである。『論語』の絶対的選択からなる『論語古義』という読み方の特異性を、その意味を私は「論語問題」として『論語』を読むことを通じて知ったのである。
[1] 加藤周一が「ハイデガー問題」との関連で「宣長問題」をいったのは朝日新聞夕刊(1988年3月22日)掲載「夕陽妄語」の「宣長・ハイデガー・ワルトハイム」と題された文章においてである。私はこれを批判して「「宣長問題」とは何か」を『現代思想』臨時増刊・総特集「ファシズム」(1989年4月)に書いた。私はこの論文を巻頭にして『「宣長問題」とは何か』を後に出版した(青土社、1995年11月)。
[2] 思想史の方法論的転換については『「事件」としての徂徠学』(青土社、1990)を参照されたい。
[3] この「最上至極宇宙第一」の八文字は仁斎生前の自筆稿本『論語古義』の各巻の巻頭には記されていたが、嗣子東涯らの手によって仁斎死語刊行された刊本『論語古義』(古義堂蔵版)では削られている。
[4] 小林はこういっている。「「論語」が聖典であるとは当時の通念であった。と言う事は、言うまでもなく、誰も自分でそれを確かめてみる必要を感じていなかったという意味だ。ある人が、自分で確かめてみて驚き、その驚きを「最上至極宇宙第一書」という言葉にしてみると、聖典と聞いて安心している人々の耳には綺語と聞こえるであろう。門生に言われるまでも無く、仁斎が見抜いていたのはその事だ。」(『本居宣長』上・十章、新潮文庫)。
[5] 『論語』を主題とした市民講座における講義は『思想史家が読む論語ー「学び」の復権』(岩波書店、2010)にまとめられ、出版された。私がここに書いた『論語』を読むことの方法論的反省は同書の序にのべたことを敷衍したものである。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/65856853.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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