今、病んでいる人々を全力で救わねばならない。《三世代革命論》(一族・家族・個人)第3楽章 老人問題と人生哲学総決算を問う

昨日の現代史研究会にお集まりのみなさんありがとうございました。

とても有意義な時間を過ごさせていただきました。

2018年は、マルクス生誕200年です。

全力でマルクス論を広報できる記念本を社会問題に興味のある全ての人を対象に編集できる事を夢見ないわけにはいきません。

是非、ちきゅう座、そして、マルクス、社会主義革命を夢見ながらも昭和期、さらに、平成期元年から27年までに倒れた全ての同志同胞、先人の意志をも継ぐものとして、立ち上げて行けたならと、そのご指導を内田先生、的場昭弘先生、伊藤誠先生、岩田昌征先生その他、ちきゅう座事務局、会員の皆さんのお力ご指導から微弱ではありますが、末席にて、僕も力と知恵、提案が出来て行けたならと切に願っていますので、これからも牽引ご教授よろしくお願いできたならと日々精進過ごしています。

 

僕も自身の為には、あまり頑張りたいとは思わない怠惰な方ですが、「別段、それ程、不足はないかな」と人生をのんびり過ごしてきましたが、周囲は、そうではなかったのかなと反省しているところでもあります。

僕的には、ツァラトゥストラの山を下りる気分かな。別段、山を下りなくとも不足もない気持ちでもあったのですが再び、戦いに出ても良いのかなと言う気分でもいますし、降りなくてはならない信義上の理由もないわけではなくなりました。

やはり、これまで生きさせて貰った信義の為にも社会全体へも尽くしたい。

イワン・カラマーゾフも自分のために生きるのは、30歳までだと述べているものにかつてから共感します。

森村誠一作、松田優作の『人間の証明』、高倉健の『野生の証明』角川の商業映画でもありましたが、源流は、やはり、『人間の証明』としての対話的共感そして、人、社会との連帯であったのでしょう。

更に、全ての記憶の源流に戻りながら全身全霊の交響曲の最初のフレーズを取り戻していきたい、最初からもう一度、その意味を噛みしめながら周囲の期待へと応え、対話をしていきたいそんな気持ちにさせられるのは、自身の死期が、迫りつつある事、残り少ないと感じ始めたからでしょうか?

その心細さが、老いると言う事なのでしょうか?

しかし、死の影は、太宰治の「晩年」に触れた幼少期にも既にあり、むしろ、その頃は、投げやりに、死を恐れるでもなく、なるようになれば良いと言う気持ちで、他人事のように捉えてもいました。

今も、決して、死を恐れているわけではないが、投げやりな僕のささやかな充足感の犠牲になっていた言葉もなく苦しんでいた人々がいたことを気遣えずに気付かずにあったことが痛い。

その痛みそのものが人生そのものであるのだろう。

その痛みを受け入れる肯定的生きる事を逆に、投げやりな僕であったが、逆に、「生の意味」として今になって知ったわけです。

太宰治の様に、自殺騒動を起こす気もなかったが、十分投げやりに生きてきて、死を恐れてもいなかったが、積極的に、危険も呼び込まない生き方の中で、肯定的な生の瞬間としてようやく再び産声をあげる生きるため生かせる社会の為に戦い進もうと決意を新たにしているところなのです。

これは、哲学的用語では先験的決意性として普遍的に連帯させられる「人間臨終図巻」的転回、老いても人間である宣言社会を資本主義へと叩きつける運動を開始しなくてはなりません。

これは、その宣言となります。

 

あまり前置きを長くしても進まないので、この辺で本題へ。

 

1.老人問題

 

ピープルズプラン研究所「花崎皋平を語る」

http://www.peoples-plan.org/jp/modules/open/index.php?content_id=20

【10月12日】

https://chikyuza.net/archives/56018

 

僕としては、花崎皋平氏に伝えたいことは、「人が生きる事と老人問題」です。

原発問題の講演からも学びながら、更に、哲学的問題としての総決算としての老人問題そのものに他なりません。

人間いつか死ぬのですが、信義を尽くしたい気持ちは上記の様にあります。

死して、何かを残したいわけではない。

死ぬまでの間の信義、自身として、信じるものに尽くしたいとする気持ちであり、それは、宗教的ではないのだから哲学的心情ではないかと感じています。

山田太一氏が、老人反乱のドラマを以前作ってもいます。

同じ心境であるのでしょう。

またちきゅう座のみなさんももはやお金や名声の為ではなく、自身の信じるものを最期まで試したい、信義を尽くしたいと言う心境の方が多いのではないかと僕は感じています。

人は、最後まで人間なのです。

キューバの様に医療知識が、大衆に解放されている社会であるなら救える命が沢山あったのではないかと思い悔いています。

資本主義の害悪とは何であったのか?

それを問いただしていこうと考えています。

つい先日、病院に行く機会もあり、老婆は、「夢も希望もない」と告げてきました。

どうする事も出来ない。

僕は、そう思いましたが、まさに若者社会としての資本主義の影で、苦しんでいるお年寄りが多数いる事を知りました。

健康な者を廃人として、廃棄していく社会システムこそが、今の日本の社会なのです。

まさに、この場より日本の革命は、開始しなくてはならない事を感じました。

老人たちは、人として扱われることを求めています。

「謎ばかりの人生」(ドミートリー・カラマーゾフのセリフ)老人たちは、人生の総決算としての最期を人として扱われて終わりたいとしているのだと憤りをこの無情な資本主義体制に感じずにはいられない局面へと立ち入っています。

しかし、それは、明日は、わが身でもあるはずです。

死は、恐れないが、信義に劣る生き方はやはり送りたくはない。

心の死は、肉体の死よりも恐れるべきものであるからです。

「楢山節考」から一体、幾日幾年、人は、同じことを繰り返してきているのだろうか?

人の一生、女の一生、または、黒澤明「赤ひげ」「人の死は荘厳なものである」

「大河の一滴」と軽んじてきた人の一人一人の命へと向かわねばならない事に気が付かされる。

 

花崎 皋平氏になんとかちきゅう座に注目していただき、読んで頂けるように伝えたいと考えています。

書簡としてお渡しできたならとも考えていましたが時間の余裕もないので、次の機会にでもと思いつつこの一文から、新しい社会運動の具体的展開の手始めとしていきたいと僕は考えています。

全ての人へ届ける希望革命「どぶ板選挙から政治革命へ」

三世代革命論(一族・家族・個人)その良心革命としての道筋、具体的で、唯物論的なる方法論を今後展開していく予定でいます。

 

人生の全てをかけて、信義を尽くしていきましょう!みなさん。

「人間一度は死ぬもの」(宇宙の戦士)

 

2.政治と経済改革今行うべき連帯とは?

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-e53e.html

 

ビデオ撮りしていたので、どこかに内容が公開されるのではないかと期待しています。

20時に終わったので、21時まで

https://chikyuza.net/archives/56957

行ってみました。1750人との事。二階席までいっぱいでした。

今度は、オールジャパン「平和と共生」と共同共闘できると良いのですが。

 

TPP問題、安保法制、その他、政治問題山積です。

 

それ以上に、人間、人生哲学の具体的連帯と対話からつないでいく日本無責任政治への最終決戦としての連帯をちきゅう座から日本全国へ、アジアへ、先住民会議へと花崎皋平氏へご相談できたならと僕は、今、考えていますが、どうなるでしょうか?

 

みなさん、是非、応援してください。