今こそ思い起こしたい「大田電報」 -米軍基地移設に反対する沖縄県民の運動に思う-

 沖縄で、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に反対する運動が勢いを増している。それは、翁長雄志知事を先頭する島ぐるみの様相を呈してきた。が、本土では今のところ、これに呼応する大衆的な運動は見られず、全般的に見てこの問題への国民の関心は極めて低いと言わざるをえない。そんな折り、一通の投書が私の心をとらえた。4月5日付の朝日新聞声欄に載った「大田中将に顔向けできるのか」と題する投書だ。大田中将とは沖縄戦末期に自決した大田実海軍中将のことだが、投書の内容に私は心動かされ、「今こそ、本土の国民と政治家は大田中将の最期の訴えに耳を傾けるべきだ」と思った。

 投書したのは東京都の会社役員、河原啓太さん(35歳)。投書によると、沖縄に行き、仕事を終えて時間が余ったので、タクシーの運転手に近くで見るところがないかと尋ねると、那覇空港からそう遠くない丘の上の公園に連れて行ってくれた。そこに、旧海軍司令部壕があった。かまぼこ形に掘り抜いた横穴が300メートルほど続く。

 1945年4月から始まった沖縄戦について書かれた書籍によると、上陸してきた米軍と戦うために、この海軍司令部壕周辺で海軍の兵士約1万人が守備についた。しかし、圧倒的な米軍の前についえ去った。もはやこれまでと、司令官の大田実少将(当時。没後、中将に昇進)は同年6月13日、この司令部壕で自決した。それに先立つ6月6日、大田少将は海軍次官にあてて次のような電文を打った。日本軍の壊滅によって沖縄戦が終結するのは6月23日のことである。

左ノ電文ヲ次官ニ御通報方取計得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルヘキモ 県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非サレトモ現状ヲ看過スルニ忍ヒス 之ニ代ツテ緊急御通知申上ク 沖縄島ニ敵攻略ノ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ殆ト顧ミル暇ナカリキ 然レトモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ケ 老幼婦女子ノミカ相ツク砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 砲爆撃下…… 風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンシアリタリ 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ 看護炊事婦ハモトヨリ 砲弾運ヒ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ 所詮敵来リナハ老人子供ハ殺サルヘク 婦女子ハ後方ニ運ヒ去ラレテ毒牙ニ供セラルヘシトテ 親子別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ……真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノト思ハレス 更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ指定セラレ 輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレテ御奉公ノ……ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ……コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島実情形……一木一草焦土ト化セシ 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配賜ラレンコトヲ(榊原昭二著『沖縄・八十四日の戦い』<新潮社刊、1983年>から引用。……の部分は不詳)

 ここには、沖縄戦に巻き込まれた沖縄県民の悲惨極まる様子が子細につづられている。戦争が沖縄にもたらした惨憺たる結末は、沖縄戦の死亡者数からも読み取れる。『沖縄・八十四日の戦い』には「戦没者は米軍一万二千五百二十人に対し、日本軍九万四千百三十六人(沖縄県出身者二万八千二百二十八人、その他六万五千九百八人)、ほかに一般県民約九万四千人。さらに九州、台湾への疎開途上の犠牲者、集団自決を強いられた人びと、沖縄本島北部や西表島に強制疎開させられて餓死またはマラリアなどで病死した人びとを合わせると、沖縄県民の犠牲は当時の県民の約三分の一に当たる十五万人を上回るといわれる」とある。
 だからこそ、沖縄駐在の海軍司令官も、悲惨な状況の中にあっても軍に協力を惜しまなかった沖縄県民の心情を思いやり「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配賜ラレンコトヲ」と打電せざるをえなかったのだろう。
 沖縄県民の三分の一に当たる人びとの生命を奪った戦争。沖縄の人たちが、いまだにそのことを忘れられず、戦争に連なる軍事基地の新たな建設に拒否感を募らせるのもごく自然の感情というものだ。

 大田中将が自決した旧海軍司令部壕を見学した河原さんは、投書の中で書く。
 「時代を経た今はどうだろう。名護市辺野古への米軍飛行場移設問題をみていると、安倍晋三首相や菅義偉官房長官らは、沖縄に寄り添っているようには見えない。大田中将は、日本の捨て石となった沖縄県民の気持ちが分かっていないと思っているのではないか。後世を託された現在の指導者は、大田中将に顔向けできるのだろうか」
 私もかつて沖縄の戦跡を取材した折りに、この旧海軍司令部壕を訪れたことがある。それだけに、この投書の言わんとするところに共感できた。 

 ところで、沖縄県民による米軍普天間飛行場の辺野古移設反対運動に対し本土でなぜ大規模な連帯行動が起きないのか、なぜこんなに静かなのか、私には不思議でならない。というのは、これまで沖縄で島ぐるみの運動が燃えさかった時は、いつも本土側でもこれに呼応する大規模が運動が展開されたからだ。
 例えば、沖縄の日本復帰問題。対日講和条約で日本から切り離され、米国の施政権下に置かれた沖縄で日本復帰運動が一段と熱を帯びるのは1967年以降だが、この時期、本土でも沖縄の動きに呼応して沖縄返還運動が高揚した。運動の中心は社会党(社民党の前身)、共産党などの革新政党、労働運動の全国センターであった総評(日本労働組合総評議会、1989年解散)、それに学生たちだった。これらの勢力が主催する、沖縄の日本復帰を要求する大会が全国各地で開かれた。そればかりでない。おびただしい労組員、市民、学生らが沖縄に渡り、沖縄の人たちと交流し、沖縄の実情を本土に伝えた。こうした本土側の運動が、「沖縄を返せ」という世論形成に大きな役割を果たした。

 1969年秋からは、沖縄現地の日本復帰運動、それに連動した本土の沖縄返還運動が一段と激しさを増した。このころ、沖縄の施政権の日本返還のありようをめぐって沖縄現地と日米両国政府の間で対立が生じたからだった。沖縄側が求めたのは「即時無条件全面返還」。つまり、施政権の返還にあたっては何ら条件をつけることなく、全面的かつ直ちに返還すべきだ、というものだった。具体的には、沖縄の米軍基地をすべて撤去し、核兵器も引き揚げよ、という要求だった。これに対し、日米両国政府間の合意は「核抜き・本土並なみ返還」。つまり、沖縄に配備されている核兵器は撤去するが、返還後の沖縄に日米安保条約を適用する、という内容で、要するに復帰後の沖縄に引き続き米軍基地を残す、というものだった。
 
 政権与党の自民党は沖縄の人たちの反対を押し切って、「核抜き・本土並なみ返還」を基本とする沖縄返還協定を同年11月17日の衆院特別委で強行採決。これに対し、社会党、共産党、総評を中心とする勢力は連日、国会周辺で抗議デモを展開。とくに同月19日には全国で統一行動が行われ、総評系を中心とする労組組合員約200万人が早朝ストを行ったのに続いて、夕方から夜にかけて、全国各地で集会とデモを行った。警察庁の集計によると、46都道府県930カ所に53万2000人が集まった。これは、戦後最大の大衆闘争といわれる60年反安保闘争のピーク時の50万5000人を上回るものだった。

 これらのことでも分かるように、戦後日本の大衆運動で最大規模のものは沖縄県民への連帯行動だったのである。それらを目撃してきた者としては、昨今の沖縄問題における本土国民の「静けさ」は信じがたいほどだ。どうしてこうなってしまったのか。日本人の意識が変わったのか、それとも……。納得できる理由を、私は知りたい。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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