今こそ思い起こそう「声なき声」の小林トミさんを - 注目したいその運動の持続性 -

 「やっと、一部のメディアが彼女を思い出してくれたか」。このところ、私は、そんな感慨に浸っている。「彼女」とは、今から55年前にごく普通の市民の1人として反戦平和のために立ち上がり、病没するまで43年間にわたって運動を続けた小林トミさんである。安倍政権がしゃにむに成立を図った安保関連法案に反対する市民的な運動が高揚するのを見て、そうした運動の先駆者である小林トミさんがもっとクローブアップされていいのでは、と思っていただけに、一部メディアにおける彼女の登場は、私にとってうれしいニュースだ。

 1960年6月、東京都心は騒然たる雰囲気に包まれていた。自民党の岸信介内閣が米国政府との間で結んだ新安保条約案(日米安保条約を改定したもの)の承認を国会に上程。これに対し、社会党(社民党の前身)、共産党、総評(労働組合の全国組織。1989年に解散)、平和団体などが「新安保条約案では、日本が相互防衛義務を負うことになり、自衛隊は米軍に対しより一層協力しなければならなくなる」「そうなると、日本が戦争に巻き込まれる危険性が増す」などとして、安保改定阻止運動を起こしたからだった。5月20日には自民党が衆院本会議で新安保条約案を強行採決したことから、国会周辺には連日、これに抗議する人たちがつめかけた。抗議デモの中心は労組員や学生だった。

 そんな中、6月4日、東京・虎ノ門の街頭に一片の横幕がひるがえった。そこには「総選挙をやれ!! U2機かえれ!! 誰デモ入れる声なき声の会 皆さんおはいりください」と書かれていた。安保改定阻止のデモ参加を呼びかける横幕で、掲げていたのは画家の小林トミさんと、映画助監督の不破三雄さんだった、 
 小林さんは当時、30歳。千葉県柏市の自宅から都内に通い、子どもたちに絵を教えるかたわら、評論家・鶴見俊輔らが始めた思想の科学研究会の会員として活動していた。

 小林さんも政府のやり方にじっとしていられなくなり、抗議デモに加わろうと思った。が、労組員でないからデモのやり方も知らない。そこで、「じゃあ、普通のおばさんも気軽に歩けるようなデモをやってみよう」と、デモで掲げる横幕を研究会仲間の手を借りてつくり、それを持って他団体のデモが出発する虎ノ門にやってきたのだった。そこには、研究会仲間の不破さんが来ていて、2人はデモの最後尾について歩き出した。

 横幕に「声なき声の会」と書き入れたのは、岸首相の発言を意識したからだった。首相が安保改定阻止のデモについて「私は『声なき声』にも耳を傾けなければならないと思う。いまあるのは『声ある声』だけだ」と述べ、「声なき声」、すなわち国民世論は政府の政策を支持しているのだ、と言明したのに対し、小林さんらは「声なき声」も抗議の声をあげていることを態度で示そう、と思ったわけである。

 歩き始めると、沿道の歩道にいた一般市民が次々とデモの隊列に入ってきた。国会近くを通り、新橋で解散したが、その時、デモ参加者は300人以上にふくれあがっていた。さまざまな職業の人たちだった。「またこのようなデモがあったら教えてほしい」との声があがり、小林さんが紙切れを回すと、200人もの名簿が出来上がった。会の名は「声なき声の会」と決まった。
 声なき声の会のデモはその後、7月まで5回にわたって行われた。参加者は毎回、500~600人にのぼった。デモの中にはいつも小林さんの姿があった。会員の意見交換の場として創刊した冊子『声なき声のたより』は、3500部に達した。
 
 安保改定阻止運動は国民各層に広がり、6月15日には、全国で労組による抗議ストが行われ、580万人が参加。その後、11万人が国会周辺につめかけた。その夜、全学連主流派の学生が国会構内に突入して警官隊と衝突、その混乱の中で、東大生樺美智子さんが死亡。この事件(6・15事件)は内外に衝撃を与え、岸内閣はアイゼンハワー米大統領の訪日中止を決めた。が、新安保条約は6月19日に自然承認となり、同月23日には日米両国政府によって批准書交換が行われ、発効した。条約は1970年に10年の固定期限切れを迎えたが、日米両政府から破棄通告はなく、その後毎年、自動延長され、現在に至っている。

 小林さんは6・15事件から1年後の61年6月15日、樺美智子さんが亡くなった国会南通用門を訪れた。事件直後、そこは樺さんの死を悼むおびただしい人々と花で埋まっていたのに、1年後はわずか20人ばかり。小林さんが受けたショックは大きかった。「日本人はなんと熱しやすく冷めやすいことか」
 小林さんは、決意する。「安保条約に反対する運動をこれからも続けてゆこう。樺美智子さんのことも決して忘れまい」。以来、小林さんは毎年6月15日には声なき声の会会員とともに「6・15集会」を開いた後、国会南通用門を訪れ、献花するようになった。やがて、小林さんは声なき声の会の世話人となり、会の継続に力を注ぐ。
 
 1960年にピークに達した安保反対運動はその後、退潮に向かう。それにともなって6・15集会の参加者も減り続けた。1982年には参加者が7人になり、会を解散しようという声も出た。しかし、小林さんは「のたれ死にするまで、やれる人がやればいい。私はやると」と言って、会をやめなかった。「それで、その後も会が続いてきたんです」と同会会員は言う。
 小林さんは2003年に病気で死去、72歳だった。その後も、6・15集会は彼女の遺志を継ぐ人たちによって毎年続けられている。このところ、集会の参加者は30~40人。小規模な集会だが、こんなに長く続く反戦平和を目指す集いは他にはない。

 小林さんの運動は、それまでの社会運動と比べて3つの点で際だっていたと私は思う。まず、その運動が組織などから命令されたり指示されたものでなく、あくまでも個人の自発性に基づいたものであった点。第2は口舌の徒でなく、必ず行動をともなったものであった点。第3は長く継続する運動であった点だ。
 それに、彼女は「運動では無理をしない」を信条にしていた。それは、自分は運動家としてではなく、普通の一般市民の日常生活の一部として反戦運動をしているのだという自覚に基づいていた。「日常生活の一端としての運動なんだから、無理をしないことが肝要。そうしないと、運動は長く続きませんよ」。ある時、彼女がもらした言葉だ。

 要するに、戦後の反戦市民運動の原型は小林トミさんによってつくられたと言ってよい。市民が主体の反戦運動でこれまで最も規模が大きかったのは、1965年から74年まで活動したベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)である。そのベ平連結成で母胎となったのが声なき声の会だった。ベ平連も「個人原理」に基づく運動であった。そうしたことを考えると、小林さんと声なき声の会が日本の反戦運動で果たした役割の大きさが分かろうというものだ。にもかかわらず、小林さんの死後、彼女の活動がメディアで取り上げられることはなかった。

 さて、その小林さんが久しぶりにメディアに登場したのは、9月18日付の東京新聞朝刊一面のコラム『筆洗』である。コラムは「雨の夜、国会議事堂を取り囲む人の波に揺られながら、一人の女性の歩んだ道に思いをはせた」と書き出し、55年前に新安保条約の強行採決に抗議して友人と2人でデモを始めた小林さんを紹介。そして「抗議の大波が消えても、彼女は日常生活を大切にしながら、声を上げ続けた」「彼女にとって、強行採決は終わりでなく、始まりだった」と、彼女の持続性を讃えていた。
 9月18日といえば、安保関連法が成立した日の前日である。コラムの筆者としては、同法の成立を見越し、同法案の廃案を求めて運動を続けてきた市民に、成立後も運動を継続するよう期待したのだろう。

 さらに、9月25日に岩波書店から刊行された、栗原彬編『ひとびとの精神史第3巻  六〇年安保――1960年前後』に小林さんが登場した。ここには、1960年前後に社会的に注目を集めた日本人13人の評伝が収められているが、その1人に小林さんが選ばれている。筆者は天野正子・お茶の水女子大名誉教授。天野教授は彼女がやってきたことを「生活に根差す運動」と位置づけ、「日常生活のテンポで考え、『ふつうの人』として誰にもできる形を示す――その可能性にかけようとした。いいかえれば生活人として自分の都合を優先する、『弱い個人』の運動であることを前提に、行動を組んでいくのが、小林のスタイルだった」と述べている。

 安保関連法案の廃案を求めてきた市民たちは、今後は安保関連法の廃止を求める運動を続けるとしている。それは、長期にわたる運動となるに違いない。ならば、持続する運動が求められる。だとしたら、小林さんの経験から多くの示唆を得ることができるのではないか。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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