今こそ教訓を胸に刻みたい -3月1日はビキニ被災事件から60年-

 3月1日は「ビキニ・デー」である。いまでは「ビキニ・デー」といっても、何のことか分からない人が多いだろうが、1954年3月1日に太平洋のビキニ環礁で米国がおこなった水爆実験で、静岡県焼津港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」乗組員とマーシャル諸島の住民が被災したのにちなみ平和運動団体によって設けられた記念日だ。今年はそれから60年。関係団体によって、このビキニ被災事件を回顧するさまざまな催しが予定されているが、私たち日本人は、この事件がもたらした教訓をいま一度心に深く刻むべきではないか。

 もう一度、事件の概要を振り返ってみよう。
 1954年3月1日未明、ビキニ環礁で米国による水爆ブラボーの爆発実験が行われた。爆発力は広島・長崎級原爆の1000倍以上とされる。この時、第五福竜丸(乗組員は23人)はビキニ環礁から東160キロ、米海軍指定の「航行禁止区域」の外側から東へ30キロの海上で操業中であったが、船上に白い灰が降り注いだ。その後、「死の灰」と呼ばれるようになったこの白い灰は、核爆発によって大気中に吹き上げられた、大量の放射能を含んだサンゴ礁の細かい破片だった。これを浴びた乗組員たちは火傷、頭痛、吐き気、目の痛み、歯ぐきからの出血、脱毛などの症状に見舞われた。
 焼津に帰港した乗組員たちは急性放射能症と診断され、1年余の入院生活を余儀なくされる。その間、無線長の久保山愛吉さんが同年9月23日に亡くなった。水爆による世界最初の犠牲者だった。
 その他、やはり航行禁止区域の外、ビキニ環礁から東へ200~300キロの島々にいた住民239人、米国の観測隊員28人も「死の灰」を被って被曝した。
 さらに、日本政府の公表でも、同年12月末までに船体や乗組員、漁具、漁獲物などに放射能汚染が認められた被災船は856隻に及んだ。とくに太平洋で獲れた魚類の放射能汚染は深刻で、廃棄されたマグロは約500トンにのぼった。
 
 この事件は、全世界に衝撃を与え、さまざまな激動をもたらした。その一つが世界的規模の原水爆禁止運動である。
 広島、長崎では核爆弾が初めて戦争の武器として使われ、それによって生じた爆風・熱線・放射線が多数の人間を殺傷し、街を破壊した。これに対し、「ビキニ」は平時の、しかも開発途上の核爆弾の実験だったにもかかわらず、放射線が多くの人間を殺傷したばかりか、海を汚染して水産資源に打撃を与えた。
 このことは、とりわけ日本人を恐怖のどん底に陥れた。このため、自然発生的に東京・杉並区の主婦たちの間から「水爆禁止」を求める署名が巻き起こり、またたく間に全国に波及。署名はその後「原水爆禁止署名」と名前を変えるが、署名数はわずか1年余の間に3000万人を超えた。こうした国民的規模の盛り上がりを背景に、1955年8月には広島市で海外代表を迎えて第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。

 さらに、この事件をめぐって1955年7月には、イギリスの哲学者バートランド・ラッセル、物理学者アルバート・アインシュタイン、日本の湯川秀樹ら世界的に著名な科学者11人が署名した「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表された。それは「核兵器が人類の存続をおびやかしている事実に立って、世界中の政府は平和的な手段により紛争を解決するよう求める」と呼びかけていた。
これを受けて、1957年には、世界の著名な科学者が参加するパグウォッシュ会議がカナダで開かれ、原水爆実験の中止を求める声明を発表した。
 
 以後、日本の原水爆禁止運動は急速な高揚をみせ、1960年代から80年代にかけては世界の反核運動をリードするまでになる。が、80年代後半以降、運動は衰退気味で、かつてのような勢いはない。これには、米ソ両超大国による東西冷戦が終息し、日本国民の間で核戦争への危機感が薄らいだことが影響しているが、長期にわたる運動の分裂も大きな要因だ。むしろ、80年代後半以降、世界の反核運動をリードしているのは、国際反核法律家協会(IALANA)や核戦争防止国際医師会議(IPPNW)、平和市長会議などの国際NGOである。
 

 国際政治の舞台では、マレーシア、コスタリカなど非同盟諸国が、核兵器廃絶を実現するための核兵器禁止条約の締結を提唱し、そのための活動を続けている。が、被爆国の政府でありながら、日本政府はこの条約に消極的。自国の安全保障を米国の「核の傘」に頼っているから、というのがその理由だ。「核兵器完全禁止」を60年間叫び続けてきた日本の運動は、いまだにこうした日本政府の方針を変えさせることができないでいる。
 運動の始まりはビキニ被災事件がきっかけだった。それから60年。これを機に、日本の運動が原点に立ち返り、再び創生期ころの熱気を取り戻してほしいと願わずにはいられない。
 
 ところで、ビキニ被災事件が人類にもたらした難題の一つに核による海洋汚染があった。すでに述べたように、事件後、日本の港に水揚げされたマグロは、放射能に汚染されているとして廃棄処分になった。魚屋の店頭や寿司屋からマグロが消え、「水爆マグロ」に日本中がパニック状態に陥った。だから、「水爆禁止」署名に最初に立ち上がったのも家庭の食卓を預かる主婦だったわけである。

 魚類摂取による放射能禍におののく世論を背景に、政府はビキニ環礁周辺の海域の放射能汚染を調査するための科学調査船「俊鶻丸(しゅんこつまる)」を実験直後の1954年5月に現地に派遣した。世界最初の核実験による環境影響調査だった。乗船者は科学者、船員、漁業関係者、報道関係者ら総勢72人。
 俊鶻丸は魚類その他の生物および海水、大気、海水の放射能の測定、海流、気象などの観測を行い、帰国したが、調査の結果、太平洋の海水の放射能汚染が予想以上に進んでいることが明らかになった。魚は大、小の別なく放射能に汚染され、筋肉に比べて内臓の汚染がけたちがいに大きく、肝臓、腎臓、脾臓などの順で放射性物質の濃縮がみられた。大型の動物プランクトンのなかには強い放射能をもつものがあった。

 俊鶻丸調査顧問団の1人だった三宅泰雄・気象研究所室長(その後、東京教育大教授)が、こう書き残している。
 「海洋に廃棄物をすてても、水がたくさんあるから、すぐうすめられてしまう、と人々はかんがえがちだ。しかし、その考えはまちがいである。海洋では、水平の方向にも、密度のちがう異質の水が、たがいにモザイクのようにならんでいる。その境は不連続面でしきられていて、水は交換できない。そのモザイクのなかを、海流がまるで大河の水のようにながれているところもある。海洋では水は、水平の方向にも、かんたんにはまじりあわないのである」(『死の灰と闘う科学者』、岩波新書、1972年刊) 
 つまり、ビキニ被災事件こそ、核による海洋汚染の危険性を世界に知らしめた事件だったのだ。さらに、海水の放射能汚染は希釈されることなく、海流によって広範囲に拡散することを明らかにした事件だったのである。

 しかるに、俊鶻丸による調査結果はその後、この国で忘れ去られてゆく。「原子力の平和利用」をうたい文句に原子力発電所の建設が進むにつれて、忘却のテンポは一層増して行った。そこに、2011年3月11日の東日本大震災にともなう東京電力福島第1原子力発電所の事故。それから、まもなく3年。事故はいまだに収束せず、この間、事故現場における放射能汚染水の海への流出がたびたび伝えられ、報道によれば、政府は海に流出している汚染水が1日約300トンにのぼると試算している。
 今こそ、電力会社、政府、原子力関係学会、メディアの関係者は、かつて三宅泰雄氏が発した警告に耳を傾けるべきではないか。改めてそう思う。

 ビキニ被災事件の「証人」である第五福竜丸は、東京・夢の島の都立第五福竜丸展示館に展示されている。東京都の委嘱でここを管理・運営している公益財団法人第五福竜丸平和協会は3月1日午後2時から、新宿区の日本青年館中ホールで「ビキニ・第五福竜丸60記念のつどい」を開く。ピアニスト・三宅榛名さんのコンサート、天体物理学者・池内了氏の講演「宇宙的視点から考える―ヒトと地球と空と核」がある。入場料2000円。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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