《誰がやっても同じか》
2009年9月に「政権交代」があった。2年が経過したいま、民主党政権―正確には民主党主導政権―は、完全に官僚に取り込まれた。「官僚主導から政治主導へ」のスローガンはどこへ消えたのか。これが大方の評価である。2011年9月末、野田佳彦首相が予算委員会で答弁するテレビ中継を見ながら、私も首相の言葉は官僚以上に官僚的だと感ずる。マスメディアは、「実務型」内閣に一定の評価を与える一方、首相のリーダーシップ不足に不満の声を挙げている。私の周りからも、「官僚主導は打破できない」、「誰がやっても同じだ」、「野党になった自民党もダメだ」、「このままでは日本沈没」という諦念と失望が入り交じった声が聞こえてくる。閉塞感は深まるばかりである。
この時に『官僚制批判の論理と心理―デモクラシーの友と敵』というタイトルは魅力的である。著者の野口雅弘(のぐち・まさひろ、1969年生、立命館大法学部准教授)は早大政経の大学院を経て独ボン大学哲学部で博士号を得た新鋭である。マックス・ウェーバーの官僚制論に軸を置きつつ、「思想史」の立場から現代の官僚制の問題に切り込む。政治学や行政学からの研究が多い官僚制を思想史の視点から分析する視点は新鮮である。
《提示された5つのテーゼ》
御用とお急ぎの多い読者のために本書の要約を掲げる。
「結語」において著者は「これまでの内容をテーゼのかたちにで要約すれば、以下のようになる」として五項目を挙げる。
・「テーゼ1」 官僚制に対する批判的な情念は普遍的
・「テーゼ2」 官僚制はデモクラシーの条件でもある
・「テーゼ3」 正当性への問いは新自由主義によって絡め取られやすい
・「テーゼ4」 ポスト「鉄の檻」において強いリーダーシップへの要求には注意が必要
・「テーゼ5」 ウェーバーの官僚制論は新自由主義への防波堤として読むことが可能
この要約を見て読者は本書を読もうという意欲をかきたてられると思う。
《官僚制の起源とその思想史》
著者は、西洋における政治の知的伝統には「ポリス」(都市国家)と「オイコス」(家政)の二元論があるという。古代ギリシャでは、「ポリス」は市民の直接民主主義的政治であり、家長が家族や奴隷を命令や暴力で支配する「オイコス」は政治の外側にあった。そのために官僚制は長い間、政治学のテーマになり難かった。
「官僚制」は18世紀に生まれた言葉である。絶対王政と共に生まれた官僚制はその後の歴史的現実に即応しながら現在に至った。その学問的系譜にはビッグネームの思想家や知識人が次々と登場する。一部を挙げれば、モンテスキューの『ペルシャ人の手紙』、ノヴァーリスの「信仰と愛」、ヘーゲルの『法の哲学』、カフカの『城』などを引いた叙述を私は興味深く読んだ。イタリア中世のアッシジの聖フランチェスコを例にした「デモクラシーと官僚制」のジレンマ解説にも説得力がある。
川島武宜による日本官僚制の前近代性への批判に対して著者は、チャーマーズ・ジョンソンやエズラ・ヴォーゲルを対置する。米人研究者のとらえた戦後成長と官僚制の相互関係も真実の一面である。後期資本主義時代に入ると「大きな政府」が生まれ「官僚制の正当化」が必要になる。しかしその理論付けは容易ではない。そのために新自由主義(「小さな政府」)が歓迎されるのだと著者は述べる。反官僚制論と新自由主義が親和するのだ。
《ウェーバーの「鉄の鎖」論は古くなったか》
ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で官僚制の「鉄の檻」化傾向が近代の宿命であると説いた。これに対して著者はジークムント・バウマンの『リキッド・モダニティ―液状化する社会』を引きつつ次のように述べている。
▼グローバル化のなかで、雇用の流動化が進み、非正規の労働形態が「フレキシビリティ」の名のもとにますます広がり、組織に閉じ込められるというよりは、組織からの「退出」、あるいはそれからの排除が常態化している状況においては、たしかに「鉄の檻」のメタファーはもはや説得的でない。
著者は、官僚制に対決する強いリーダーシップへの希求を警戒する文脈の中でこういう。この物言いは大いに論議を呼ぶところだろう。「官僚制を両義性のもとにとらえる」のが著者の立場のようである。
上記「テーゼ5」の説明にこう書く。
▼読み手の位置によって、ウェーバーの理論は見え方が異なってくる。それは彼が相互に対立的な緊張関係にある二つの類型のジレンマに注目するため、そのジレンマをどこから眺めるかによって、浮かび上がるものが変貌するからである。
かつてウェーバーは、「鉄の檻」的な管理社会の予言者であり批判者とされてきた。これに対して、いまの状況では、彼は新自由主義に対抗する公行政をデモクラシーの理念の代弁者として読み直されつつある。
《官僚社会の実態に迫れ》
絶対王政とともに生まれた官僚制の、日本における在りようは、従来から社会科学、人文科学の大きなテーマであった。日本資本主義は前近代的な大きな遺物を抱きかかえて発展してきた。講座派の見方を乱暴に要約すればこうなる。この国が経済大国になってその見方は古くなり有効性を失ったことにされている。しかし日本近代を支えてきた「絶対王政」的官僚制が、いつ、どのように「近代的」官僚制に変貌したのか。変貌していないのか。「変貌していない」という見方はもう通用しないだろうが、同時に「近代的」官僚制に全面改装したとも考えられない。私と同世代のビジスネスマンは、日本企業に対する官僚の介入の強さをよく知っている。それは「近代的」と呼べるものではなかった。
本書の官僚制の分析視角には敬意を表したい。研究者のテーマが細分化している今、官僚制に正面から取り組む姿勢は頼もしい。参考文献と人名索引も親切だ。しかし「思想史家としての分析」視点から一歩でも二歩でも抜け出て欲しい。日本の官僚社会の実態にもっと接近して欲しい。これが私の読後感である。
■野口雅弘著『官僚制批判の論理と心理―デモクラシーの友と敵』(中央公論新社、中公新書、2011年9月刊)、740円+税
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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