代替わりに見る天皇の短歌と歌人たち―平成期を中心に(1)昭和天皇の死去報道において、天皇の短歌が果たした役割

 これまでも、オンラインでの会議や研究会に参加したことはあったが、自分が報告するのは初めてであった。トラブルが起こらなければいいがと、かなり心配したが、先週の土曜日、7月10日は、スムーズに入れた。
「新・フェミニズム批評の会」という研究会の例会で、久しぶりの報告だった。 今回は、2月23日のWAM(女たちの戦争と平和資料館)での「<歌会始>と天皇制」という報告が縁となり、お勧めいただき、急に決まったことだった。新・フェミの会にはしばらく欠席が続いているので、ためらわれたが、せっかくの機会なので、準備を始めた。

(参考)
2月23日、「<歌会始>と天皇制」について報告しました(1)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/02/post-39aa28.html

2月23日、「<歌会始>と天皇制」について報告しました(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/02/post-4455ac.html
2月23日、「<歌会始>と天皇制」について報告しました(3)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/02/post-156790.html
2月23日、「<歌会始>と天皇制」について報告しました(4)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/02/post-319669.html
「歌会始」が強化する天皇制―序列化される文芸・文化(要約版)
file:///C:/Users/Owner/Desktop/WAM%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/p10-11-%E5%86%8D.pdf
『WAMだより』47号(2021年3月)

内容的には、WAMでの話とほとんど重なるのであるが、一時間という枠で、質疑も長くとっていただけるようなので、前の反省から、「天皇制」への国民の認識が大きく変わったと思われる平成期に焦点を当てることにした。そして、歌人たちにもいえることなのだが、リベラル派、護憲派といわれる論者たちの「天皇制」への傾斜の表明が顕著になったことをどう考えるのか、今後の自身の課題をも探りたかった。事前に、1頁のレジメと20頁ほどの資料を配信していただいた。
平成期を中心にといっても、その前段として、昭和天皇の短歌に触れないわけにはいかなかった。主にその追悼報道において、どのように語られ、鑑賞され、どんな役割を果たしたかを簡単にたどってみたかった。
以下が前段に、話した内容の概略である。手短にと思いながら20分近くになったしまったか。

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1.昭和天皇の死去報道において、天皇の短歌が果たした役割
1)病状・死去報道の実態
 病状・死去報道の実態については、1988年9月26日『毎日新聞』の「秋雨の列島「ご回復を」の列」の記事と1989年1月8日、死去の翌日の『読売新聞』のテレビ欄とを写真で紹介し、ほとんどのメデイアが、歌舞音曲の自粛、さまざまな業種の営業自粛、試合自粛、天皇制批判自粛・・・を事々しく報道する一方で、いわゆる「下血報道」へとエスカレートしていった。天皇の体温・血圧・脈拍とともに下血何ミリといったことまで、繰り返し報道されるのだった。
1989年1月7日の死去を境に、今度は追悼報道において、昭和天皇の短歌が、いきなりクローズアップされ、短歌によって昭和天皇の生涯を振り返り、昭和史をたどろうとする記事が氾濫、量産されるのであった。もっともその予兆としては、昭和末期に、つぎのような天皇の短歌関係の書物が出ていたことは確かであった。

1986年3月 坊城俊民『おほみうた』桜楓社
1986年5月 <天皇在位60年記念号>『短歌』(角川書店)
1986年12月『ともしび』(皇太子夫妻歌集)婦人画報社
1986年12月「皇太子殿下美智子妃殿下の御歌」『アサヒグラフ・昭和短歌の世界』臨時増刊号
1987年4月 徳川義寛ほか『昭和の御製集成』毎日新聞社

死去の翌日から、昭和天皇の短歌にかかわるところの追悼記事、追悼文、追悼歌が新聞・雑誌に氾濫した状況を、資料、2枚の文献リスト「昭和天皇病状死去報道に現れた短歌」(拙著『現代短歌と天皇制』2001年、からのコピー)と上記の1月8日の「テレビ欄」とで示した。とくに、文献リストでは、 多くの歌人たちが動員され、追悼文や追悼歌が競うように発表されたことがわかる。こうした文献で、もっとも多く引用されたのがつぎの三首ではなかったか。

・峰つづきおほふ むら雲ふく風の はやくはらへと ただいのるなり(1942年歌会始「連峰雲」)
・爆撃にたふれゆく民の上おもひ いくさとめけり身はいかならむとも(1945年 木下道雄『宮中見聞録』1968年で公開)

1首目は、真珠湾攻撃直後の歌会始で発表され、天皇は太平洋戦争「開戦」には「慎重」であったことがよくわかる歌として、繰り返し紹介された。同時に、2首目をもって「終戦」という「英断」に至ったということが強調され、昭和天皇は「平和主義者」だったとのイメージが増幅された。
1首目についてその典型的な解説といえば、
岡野弘彦(1924~)(長い間、歌会始の選者と御用掛を務めた歌人):「<連峰雲>の御製では、戦争が早く終わって平和になるようにとお望みになっていた」「しかし時勢は陛下のお気持ちとは逆の方向に進み、陛下も開戦 となさった」(昭和天皇歌集『おほうなばら』解題 1990)
下馬郁郎(=半藤一利、1930~2021)(昭和史研究、1989年当時の『文芸春秋』編集長):「沈痛きわまりない感情の表白というべきか。そして陛下が、あの激越な戦争中、ただ祈りつづけてこられたことに気付かせられる。陛下にとっての<昭和史>とは、ことごとに志に反し、ひたすら祈念の時代であったということなのだろうか」(「御製にみる陛下の“平和への祈り”」『文芸春秋』1989年3月号)

・思はざる病となりぬ沖縄を たづね果たむつとめありしを(1987年)
 この歌も、昭和天皇晩年の歌として、よく引用された一首。1987年10月、沖縄での国民体育大会に病気のため出かけられなくなったことを歌い、皇太子夫妻が代わりに参加している。この歌を、保阪正康(1939~)は、「昭和天皇は、沖縄訪問の責任が果たせなかったという特別の思いを持ち、沖縄の人々への思いやり」を示した歌としている(『よみがえる昭和天皇 御製で読み解く87年』2012年 文芸春秋)。昭和史の第一人者と言われる半藤、保阪の二人が短歌により昭和史を読み解こうとしているのに、いささか驚いている。天皇の短歌をもって、歴史的検証もなく、情緒的に、物語性を伴って、歴史が語られることは、歴史を歪めてしまわないか、その危険性は大きいと言わざるを得ない。

)「昭和天皇は平和主義者だった」のか
 先の短歌をもって、太平洋戦争開戦には慎重で、英断をもって終戦至ったという二つの「聖断」を強調し、短歌にこそ本心が吐露されたとし、天皇は常に平和を祈り、平和を願ったということが拡散された。
しかし、少なくとも、沖縄に関して、昭和天皇は、つぎのような、決定的な、重大な行動をとっていたことは周知の通りで、「平和主義者」のうらの顔というより、真の姿であったと言えよう。

・1945年3月末の上陸から6月23日にわたり、本土決戦の引き延ばしたい作戦として、沖縄地上戦の続行を固守し、20万人の犠牲者を出したこと
・1947年9月19日、GHQへ沖縄の長期占領を願い出た文書(沖縄メッセージ、天皇メッセージとも)を送っていたこと(進藤栄一「分割された領土」『世界』1979年4月号で明らかに)

3)昭和天皇の「戦争責任」の行方
 また、一方で、憲法制定のさなか、東京裁判が進むなか、天皇に戦争責任ないのかという問題も、当時、全国紙の社説、雑誌などでは、学者たちの「天皇退位論」が盛んに交わされていた。しかし、天皇は、東京裁判では責任は問われず、退位もしなかった。それはGHQのスムーズな占領政策遂行と日本政府の天皇制維持の思惑が一致した結果であった。
1946年1月1日の年頭詔書、いわゆる「人間宣言」と言われているが、この詔書の主旨は「五か条御誓文」を民主主義の根本とするもので、「神の国」、「天皇の神格」を明確に否定したものでもなく、自分が現人神ではないことを述べるにとどまるものだった。この年頭に発表されたのがつぎの短歌だった。 

・海の外の 陸に小島にのこる民の うへ安かれとただいのるなり(1946年1月1日、新聞発表)
・ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ(1946年1月22日 歌会始「松上雪」)

2月には、はや、地方巡幸が始まり、巡幸の先々で、立ち直る姿と歓迎ぶりを目にしたというが、受け入れの地元の負担は大きく、その準備ぶりを「天皇は箒である」とも揶揄されていた。

たのもしく夜はあけそめぬ水戸の町うつ槌の音も高くきこえて(1947年歌会始「あけぼの」)
ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ たちなほる見えてうれしかりけり(1947年12月広島・中国地方視察)
これらの短歌が詠まれたころ、1946年5月には食糧メーデーが起き、「朕はたらふく食っているぞ、汝臣民は飢えて死ね」というプラカードが目を引いていたし、47年二・一ゼネストが急遽中止となったりする不穏な時期でもあった。2首目は、広島訪問の折の歌だが、被爆の実態を知らないわけではないのに、まるで明るく、軽快な「流行歌」のようにも思える。1975年10月訪米後の記者会見で「原爆投下はやむを得なかった」と述べた認識にも通じようか。 

・戦果ててみそとせ近きになほうらむ人あるをわれはおもひかなしむ(1971年イギリス)
さはあれど多くの人はあたたかくむかへくれしをうれしと思ふ(1971年イギリス)
戦にいたでをうけし諸人のうらむをおもひ深くつつしむ(1971年オランダ)

1971年訪欧したとき イギリスでは、かつての日本軍の捕虜やその遺族からの抗議行動に遭い、植樹した木を抜かれ、オランダでも、インドネシアで日本の捕虜になって、送られた強制収容所で犠牲となったオランダ兵士やオランダ系市民たち、その遺族たちの抗議行動に遭い、卵を投げつけられたとも報道されていた。「おもひかなしむ」「深くかなしむ」という先から、「さははあれど」とすぐ立ち直ってしまい、反省や責任を感じている気配はない。1975年の訪米後の記者会見で、戦争責任を問われ「文学上のアヤの問題」とかわした発言にも通じる。
しかし、天皇の短歌を恣意的に拾い上げ、短歌でこそ「本心が吐露」されたとする言説が流布されるのと同時に、さまざまなエピソードや側近たちの日記などにより平和主義者であったとか、戦争への反省をにじませていたとかの記述により、上記のような短歌と補い合う関係になることも見逃せない。

『木戸幸一日記』上下巻(東大出版会 1966年)(1937年近衛内閣時代の閣僚、敗戦時は内大臣だった、天皇の側近中の側近)
『芦田均日記』(岩波書店 1986年)(外交官から政治家となり、リベラルと称せられ、敗戦後片山哲内閣の後を継いで首相となった)
木下道雄『側近日誌』(文芸春秋 1990年6月)(後の独白録と重なる部分もある)
『入江相政日記』全6巻(朝日新聞社 1990~91)(歌人、歌会始関係の記事も多い)
『昭和天皇独白録―寺崎英成御用掛日記』文芸春秋 1991年3月(『文芸春秋』1990年12月初出)(1946年3月~4月、松平慶民宮内大臣・松平康昌宗秩寮総裁・木下道雄侍従次長・稲田周内記部長・寺崎英成御用掛による天皇の回想録聞き書き記録。目的が不明ながら時期的に東京裁判対策のため開始か。GHQの天皇無答責の情報の前後かが問われている。戦争指導・人事介入の実績にもかかわらず、立憲君主主義を貫いたとして、政府に責任転嫁の場面も)
『昭和初期の天皇と宮中 侍従次長河井弥八日記』全6巻(岩波書店 1993~94)、『河井弥八日記・戦後編』全5巻(信山社 2015~20年)
マッカーサーと昭和天皇との会談通訳松井明の日記(朝日新聞2002年8月5日)
(GHQの東京裁判対応に謝意の伝達)
『昭和天皇最後の側近―卜部亮吾侍従日記』全5巻(朝日新聞社 2007年5~9月)
『昭和天皇 最後の侍従日記』(小林忍・共同通信社 文春新書 2019年4月)
初代宮内庁長官田島道治の「拝謁記」(毎日新聞 2019年8月19日ほか)

4)昭和天皇死去時の歌人、歌壇の対応
 過剰な病状・死去報道と自粛の中、現代、とくに歌会始の選者たちを中心に、昭和天皇の短歌の賛美の記事、追悼歌があふれ出たが、歌人からの表だった批判はほとんどなかった。

資料「昭和天皇病状・死去報道にあらわれた短歌」(関連記事・文献一覧)
(拙著『現代短歌と天皇制』風媒社2001年、所収)

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少しだけ話題になったのは、天皇より一日遅れの1月8日に亡くなった上田三四二の追悼歌と追悼文で、天皇死去前の予定原稿であったことが歴然であったことだった。

・「昭和天皇のお歌」『東京新聞(夕)』1月9日
・現人神人間天皇ふたつながら生きて歴史のなかに入りましぬ
(「天皇陛下と昭和」『短歌』臨時増刊1989年1月12日発売)

一方、このフィーバー後には、網羅的ではないものの、つぎの資料に見るように、当時は、多くの反省と批判もなされていたことは、忘れてはならない。

資料「天皇・皇室報道検証と批判(1986~1992)」
file:///C:/Users/Owner/Desktop/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%83%BB%E7%9A%87%E5%AE%A4%E5%A0%B1%E9%81%93%E6%A4%9C%E8%A8%BC%E3%83%BB%E6%89%B9%E5%88%A4.pdf

初出:「内野光子のブログ」2021.7.13より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/07/post-3711a1.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion11103:210714〕