代替わりに見る天皇の短歌と歌人たち―平成期を中心に(2)平成期における明仁天皇・皇后の短歌の果たした役割

天皇夫妻の短歌と国民とのパイプ役をなすとされる歌会始はじめ、新聞・テレビなどへの登場、夫妻の歌集・鑑賞の書物の出版などが盛んになり、皇室行事、被災地訪問、慰霊の旅などを通して短歌の登場頻度が高くなり、歌碑などの形での接点も多くなった。

<天皇・皇后の短歌と国民との接点>
a 1月1日の新聞:1年を振り返っての短歌、天皇(5首)、皇后(3首)の公表(天皇家の写真とのセットで)
b 1月中旬の歌会始:天皇・皇后はじめ皇族、選者、召人、入選者10人の歌とともに披講。NHKテレビの中継/当日の新聞夕刊と翌日の朝刊での発表/宮内庁HPでの登載
c 歌会始の詠進(応募)の勧め、入門書・鑑賞書などへ収録、出版
d 天皇の歌集、皇后との合同歌集での出版および鑑賞書の出版など
e 在位〇年、死去、代替わりの節目の図書の出版、新聞・雑誌など記事、特集、展示など
f 歌碑など

平成期の天皇夫妻の短歌の特色として以下の三点があげられる。まず、短歌一覧をご覧ください。

資料 明仁天皇・美智子皇后の短歌一覧 (↓コピーを貼り付け検索してください)
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1)平和祈念・慰霊のメッセージ

「平和祈念・慰霊」のための短歌を多く詠んでいるが、その一部⑮~㉔を資料に収めた。 天皇の短歌は、おおらかで、大局的、儀礼的だが、皇后の短歌は、人間や自然観察が細やかで、情緒的であると言われている。天皇の短歌には、明治天皇や昭和天皇の作かと思われるような⑮⑯のような短歌もある。

⑮ 波立たぬ世を願ひつつ新しき年の始めを迎へ祝はむ(天皇)(1994年 歌会始 「波」)
⑯ 国のため尽くさむとして戦ひに傷つきし人のうへを忘れず(天皇)(1998年 日本傷痍軍人会創立四十五周年にあたり)

慰霊の旅で詠まれた、夫妻の短歌を見てみよう。

⑰ 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき(天皇)(1994 硫黄島)(終戦50年)
⑱ 慰霊地は今安らかに 水をたたふ如何ばかり 君ら水を欲りけむ(皇后)(1994 硫黄島)

⑱について、大岡信は、「立場上の儀礼的な歌ではない。・・・気品のある詠風だが、抑制された端正な歌から、情愛深く、また哀愁にうるおう歌の数々まで、往古の宮廷女流の誰彼を思わせる(「折々のうた」(『朝日新聞』1997年7月23日)と記す。
⑲ 原爆のまがを患ふ人々の五十年の日々いかにありけむ(天皇)(1995年 原子爆弾投下されてより五十年経ちて)
⑳ 被爆五十年 広島の地に静かにも雨降り注ぐ雨の香のして(皇后)(1995年 広島)
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2005年、サイパン、バンザイクリフにて

㉑ サイパンに戦ひし人 その様を浜辺に伏して我らに語りき(天皇)(2005年 サイパン島訪問)
㉒ いまはとて 島果ての崖踏みけりし をみなの足裏思へばかなし(皇后)(2005年 サイパン島)

㉒は、歌人たちの間でも評判になった歌で、たとえば、歌会始の選者である永田さんは、つぎのように話す。「日本女性が崖から飛び降りた景を思い出して、詠まれたものと思われます。崖を踏み蹴って、海へ身を投げた女性の「足裏」を思っておられるところに、繊細な感性を感じとることができます。悲しく、しみじみと身に沁みる歌であります。このような国内外の慰霊の旅が、平和を希求される両陛下の強い思いから出ていることは言うまでもありません。平成という時代は、近代日本の歴史のなかで、唯一戦争のなかった幸せな時代でした。その大切さを誰よりも強く感じて来られたのが両陛下であったのかもしれません。」(「両陛下の歌に見る『象徴』の意味」『視点・論点』2019年03月06日 NHK放送)

また、皇后の次のような短歌には、海外の戦争や内乱における加害・被害の認識について、やや屈折した思いを詠んだものある。

㉓ 慰霊碑は白夜に立てり君が花 抗議者の花 ともに置かれて(皇后)(2000年 オランダ訪問の折りに)
㉔ 知らずしてわれも撃ちしや春闌くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず(皇后)(2001年 野)

㉔について、安野光雅さんは「文化の違うところに立つ自分自身をかえりみて、何もできなかった自分もまた、「知らずして」「(相対的に)弾を撃つ立場にいたのではないか、かなしまれるおもいは、痛切である」(『皇后美智子さまのうた』朝日文庫 2016年10月)とやさしいスケッチとともに語っている。

こうして、天皇夫妻が発するメッセージは、国民にどう届いているのか。少なくとも、ジャーナリストや史家、歌人たちの鑑賞や解説では、一様にというか、判で押したように「国民に寄り添い、平和を願い、護憲を貫く」メッセージとして、高く評価されています。さらに、2015年、戦後七〇年の「安倍談話」と8月15日全国戦没者追悼式における天皇の「おことば」とを比較し、天皇の言葉には「反省」の思いがあり、当時の安倍政権への抵抗さえ感じさせるという声も少なくなかった。
このようにして、平和や慰霊をテーマにした短歌に限らず、災害や福祉、環境などをテーマにした短歌を詠み続け、国民に発信することによって、ときどきの政治・経済政策の欠陥を厚く補完し、国民の視点をそらす役割すら担ってしまう事実を無視できないと思っている。

2)沖縄へのこだわり  

昭和天皇の負の遺産―本土決戦の防波堤として沖縄地上戦の強行、米軍による占領・基地化の長期・固定化という「後ろめたさ」を挽回するために、11回の訪問、おことば、短歌による慰霊・慰撫のみが続けられた。天皇は、5・7・5・7・7の短歌ではなく、8・8・8・6という沖縄に伝わる「琉歌」まで作っている。上記、短歌一覧の㉕から㊾までご覧ください。天皇夫妻の個人的な思いはともかく、日本政府のアメリカ追従策に対して、何の解決にも寄与していなかった。

資料 明仁天皇・美智子皇后沖縄訪問一覧(ダウンロード済↓)e5b9b3e68890e5a4a9e79a87e383bbe7be8ee699bae5ad90e79a87e5908ee6b296e7b884e8a8aae5958fe4b880e8a6a7.pdf

<明仁天皇・美智子皇后の沖縄を詠んだ短歌> ㉕~㊾  *琉歌
㉕いつの日か訪ひませといふ島の子ら文はニライの海を越え来し(美智子皇太子妃)(1971年 島)
㉖黒潮の低きとよみに新世の島なりと告ぐ霧笛鳴りしと(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉗雨激しくそそぐ摩文仁の岡の辺に傷つきしものあまりに多く(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉘この夜半を子らの眠りも運びつつデイゴ咲きつぐ島還り来ぬ(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉙戦ひに幾多の命を奪ひたる井戸への道に木木生ひ茂る(明仁皇太子)(1975年 沖縄県摩文仁)
㉚ふさ(フサケユル)かいゆる木(キ)草(クサ)めぐる(ミグル)戦跡(イクサアト)くり返し返し(クリカイシガイシ)思(ウムイ)ひかけて(カキテイ)*(皇太子)(1975年 沖縄県摩文仁)
㉛今帰仁(ナキジン)の(ヌ)城門(グスイジョオ)の(ヌ)内(ウチ) 入れば(イレバ)、咲き(サチ)やる(ヤル)桜花(サクラバナ)紅(ビンニ)に染めて(スミテイ) *
(皇太子)(1975年 今帰仁城跡)
㉜みそとせの歴史流れたり摩文仁(まぶに)の坂平らけき世に思ふ命たふとし(皇太子)(1976年 歌会始「坂」)
㉝いたみつつなほ優しくも人ら住むゆうな咲く島の坂のぼりゆく(皇太子妃)(1976年 歌会始「坂」)
㉞広がゆる畑 立ちゅる城山 肝ぬ忍ばらぬ世ぬ事 *(皇太子)(1976年 伊江島の琉歌歌碑)
㉟四年にもはや近づきぬ今帰仁(なきじん)のあかき桜の花を見しより(皇太子)(1980年 歌会始「桜」)
㊱種々(くさぐさ)の生命(いのち)いのち守り来し西表(いりおもて)の島は緑に満ちて立ちたり(皇太子)(1984年 歌会始「緑」)
㊲激しかりし戦場(いくさば)の跡眺むれば平けき海その果てに見ゆ(天皇)(1993年 沖縄平和祈念堂前)
㊳弥勒(ミルク)世(ユ)よ(ユ)願(ニガ)て(ティ)揃(スリ)りたる(タル)人(フィトゥ)た(タ)と(トゥ)戦場(イクサバ)の跡(アトゥ)に(ニ)松(マトゥ)よ(ユ)植(ウイ)ゑたん(タン) *(天皇)(1993年 沖縄県植樹祭)
㊴波なぎしこの平らぎの礎と君らしづもる若夏(うりずん)の島(皇后)(1994年 歌会始「波」)
㊵沖縄のいくさに失せし人の名をあまねく刻み碑は並み立てり(天皇)(1995年 平和の礎)
㊶クファデーサーの苗木添ひ立つ幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負ふ(皇后)(1995年 礎)
㊷疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出だされにけり(天皇)(1997年 対馬丸見出さる)
㊸時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏しさ(皇后)(2004年 南静園に入所者を訪ふ)
㊹弾を避けあだんの陰にかくれしとふ戦(いくさ)の日々思ひ島の道行く(天皇)(2012年 元旦発表、沖縄県訪問)
㊺工場の門の柱も対をなすシーサーを置きてここは沖縄(ウチナー)(皇后)(旅先にて)
㊻万座毛に昔をしのび巡り行けば彼方(あがた)恩納岳さやに立ちたり(天皇)(2013年 歌会始「立」)
㊼我もまた近き齢にありしかば沁みてかなしく対馬丸思ふ(皇后)(2014年 学童疎開船対馬丸)
㊽あまたなる人ら集ひてちやうちんを共にふりあふ沖縄の夜(天皇)(2018年 沖縄県訪問)
㊾与那国の旅し恋ほしも果ての地に巨きかじきも野馬も見たる(皇后)(2018年 与那国島)

3)美智子皇后の短歌の突出していたこと

それでは、平成期に入って、天皇・皇后の短歌は、マス・メディアにどう扱われたかを見ていきたい。下記の文献一覧によれば、美智子皇后の短歌に特化した記事や図書が多数あり、昭和天皇への関心が維持されていることもわかる。美智子皇后には、皇太子妃時代の皇太子との合同歌集『ともしび』(1986)、単独歌集『瀬音』(1997)、NHK出版からの、在位10年、20年、30年記念の3回『道』には、天皇の歌とともに皇后の歌が収録されているが、ほかにも様々な執筆者により、美智子皇后の短歌の解説書や鑑賞の書が出版されていることがわかる。皇后の短歌は、観察・表現の繊細さに加えて、メデイア・世論への目配りが功を奏し、保守層からも、リベラル派からの支持を得、国民への影響力も大きいと言えよう。もっとも、明治天皇の昭憲皇太后、大正天皇の貞明皇后も、賢い皇后として、その足跡、短歌が残されているが、旧憲法下では限界があり、美智子皇后の積極性にはかなわず、歴代天皇の皇后にはなかった現象であった。

資料 天皇の短歌関係文献一覧(2000 ~)(↓コピーして貼り付けて検索して下さい)
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4)「歌会始」と歌人たち、歌壇の反応
選者の変遷の推移は、御歌所 ⇒民間歌人・女性歌人の登用 ⇒戦中派 ⇒「前衛歌人 ⇒戦後生まれ・人気歌人へとたどり、現代短歌との融合と選者任用が他の国家的褒章制度とのリンクが顕著となってきている。歌会始の選者になることが歌人としての一つのステイタスとなり、国家的褒章制度に組み込まれ、その出発点や通過点となったり、到達点になったりしている構図が見える。例外としての、馬場あき子、佐佐木幸綱さんには事情があるようで・・・。
資料 歌会始の推移(↓コピーを貼り付けて検索してください)
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<歌会始選者たちの国家的褒章の受章歴>

木俣修(1906~1983): 歌会始選者1959 → 紫綬褒章1973 → 芸術選奨文部大臣賞1974→ 日本芸術院賞恩賜賞1983
岡野弘彦(1924~): 歌会始選者・芸術選奨文科大臣賞1979 → 御用掛1983~2007→
紫綬褒章1988 → 芸術院賞・芸術院会員・勲三等瑞宝章1998 → 文化功労者2013
岡井隆(1928~2020: 歌会始選者1993 → 紫綬褒章1996 → 御用掛2007~2018→
芸術院会員2009 →  文化功労者2016 → 旭日中綬章追贈2020死去
篠弘(1933 ~):紫綬褒章1999 → 旭日小綬賞2005 → 歌会始選者2006 →御用掛2018~
三枝昂之(1944~):芸術選奨文科大臣賞2006 → 歌会始選者2008 →紫綬褒章2011
永田和宏(1947~):歌会始選者2004 → 紫綬褒章2009 →瑞宝中綬章2019 →?
(参考)
栗木京子(1954~):芸術選奨文科大臣賞2007 → 紫綬褒章2014 → 歌会始召人控2020 →?
現代歌人協会理事長(女性初)2019
馬場あき子(1928~):紫綬褒章1994 →芸術院賞2002 →芸術院会員2003 →文化功労者2019
佐佐木幸綱(1938~):芸術選奨文部大臣賞2000 → 紫綬褒章2002 → 芸術院会員2008

5)明仁天皇の生前退位時前後の天皇制の行方~リベラル派、護憲派の天皇制への傾斜

リベラルな人たちの天皇制への傾斜、たとえば・・・・

矢部宏治(1960~):「初回訪問時の約束通り、長い年月をかけて心を寄せ続けた沖縄は、象徴天皇という時代の「天皇のかたち」を探し求める明仁天皇の原点となっていったのです」(『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』小学館 2015年)。著書に『日本は、なぜ基地や原発を止められないのか』(集英社インターナショナル 2014年)。
金子兜太(1919年~2018年):俳人。 金子兜太選「老陛下平和を願い幾旅路」(伊藤貴代美 七四才 東京都)選評、「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ」(「平和の俳句」『東京新聞』2016年4月29日)。「アベ政治を許さない」のプラカード揮毫者。
金子勝(1952~):マルクス経済学者。「【沖縄に寄り添う】天皇陛下は記者会見で、沖縄のくだりで声を震わせて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と語る。アベは聞いているのか?」(2018年12月23日ツイート✔ @masaru_kaneko)。
白井聡(1977~):「今上天皇はお言葉の中でも強調していたように、「象徴としての役割」を果たすことに全力を尽くしてきたと思います。ここで言う象徴とは、「国民統合の象徴」を意味します。天皇は何度も沖縄を訪問していますが、それは沖縄が国民統合が最も脆弱化している場所であり、永続敗戦レジームによる国民統合の矛盾を押しつけられた場所だからでしょう。天皇はこうした状況全般に対する強い危機感を抱き、この危機を乗り越えるべく闘ってきた。そうした姿に共感と敬意を私は覚えます。天皇が人間として立派なことをやり、考え抜かれた言葉を投げ掛けた。1人の人間がこれだけ頑張っているのに、誰もそれに応えないというのではあまりにも気の毒です。」という主旨のことを述べています。(「天皇のお言葉に秘められた<烈しさ>を読む 東洋経済新報オンライン 2018年8月2日、国分功一郎との対談)。『永続敗戦論―戦後日本の核心』(太田出版 2013年)の著者。
内田樹(1950~):「天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること、天皇は祈ってさえいればよい、という形でその本義を語りました。これは古代から変りません。陛下はその伝統に則った上でさらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。(「私の天皇論」『月刊日本』2019年1月)
永田和宏(1947~):歌人、歌会始選者。「戦争の苛烈な記憶から、初めは天皇家に対して複雑な思いを抱いていた沖縄の人々でしたが、両陛下の沖縄への変わらぬ、そして真摯な思いは、沖縄の人々の心を確実に変えていったように思えます。両陛下のご訪問は、いつまでも自分たちの個々の悲劇を忘れないで、それを国民に示してくださる大きなと希望になっているのではないでしょうか」(『宮中歌会始全歌集』東京書籍 2019年)。安保法制の反対、学術会議の会員任命問題でも異議を唱えている。
望月衣塑子(1975~):東京新聞記者。。コロナの時こそ、天皇や皇后のメッセージが欲しいと天皇・皇后へ賛美と期待を示す(作家の島田雅彦との対談、「皇后陛下が立ち上がる時」(『波』新潮社2020年5月)。
落合恵子(1945~):新天皇の大嘗祭での「おことば」を「お二人に願うことは、お言葉で繰り返された平和を、ずっと希求される<象徴>であって」(「両陛下へ」『沖縄タイムズ』2019年11月12日)

美智子皇后との交流を重ねて語る石牟礼道子、安保法制に反対を表明した憲法学者の長谷部恭男は天皇制は憲法の「番外地」といい、木村草太は天皇の人権の重要性を説く。政治学者の加藤陽子は、半藤たちとご進講を務める。著書『それでも、日本人は『戦争』を選んだ』(朝日出版社 2009年)、半藤・保阪との共著『太平洋戦争への道1931-1941』NHK出版 2021年)
リベラル、革新政党の天皇制への傾斜と同時に、安保法制反対、学術会議任命問題に異議を表明する歴史家や歌人たちが親天皇制を表明し、天皇夫妻の言動や短歌を高く評価する傾向が顕著になった。中堅、若手の歌人たちも「歌会始」への抵抗感も薄れている。こうした状況の中で、民主主義の根幹である「平等」に相反する天皇制を廃するにはどうしたらよいのか、現在の憲法のもとでできることは何か。
私としては、天皇制廃止への志は忘れずにいたい。現制度の下で、できること、願うことといえば、天皇夫妻はじめ、皇族たちには、ひそかに、しずかに、質素に暮らしてもらうしかないのではないか。なるべく、国民の前に現れないように、そして、メディアも追いかけることはしないでほしい。天皇たちの人権を言うならば、天皇制が、さまざまな差別や格差の助長の根源であったことを思い返してほしい。一人の人間が、国民の「象徴」であること自体、「統合」であるとする「擬制」自体が、基本的人権に反するのではないか、といった趣旨で、締めくくった。下記のような感想や質問が出された。

・反戦主義者と思っていた半藤一利さんが意外であった。
・まず、男女平等の観点から「皇室典範」で女性天皇を認めるべきではないか。
・日本人には、古くから、短歌という文学形式が深く身についているから、短歌による発信が浸透するのではないか。
・宮中祭祀における、いわゆる「秘儀」に皇后たちは、苦悩したに違いない。その実態が明らかになっていないのが問題ではないか。
・黙っていて、というのは、天皇夫妻にも表現の自由があるのだから、酷ではないか。
・退位後、ネット上の美智子皇后へのバッシングがひどいのは、どうしたわけか。
・落合恵子さんは共和制を主張している人だが、天皇制を支持するとは、信じられなにのだが。

短歌が、国民に根付いた文学形式といっても、文学史上、多くの国民が短歌による発信ができるようになるのは、たかだか、近代以降で、それ以前の「和歌」は、一部の国民の発信ツールに過ぎなかったのではないか。美智子皇后へのネット上のバッシングというのは、私は詳しく知らないが、昭和・平成期にも潜在的にあったし、それを煽るようなメディアもあったと思う。「宮中」に入るからには、美智子皇后、雅子皇后にしても、当然覚悟していたことだと思う。いじめやバッシングは、法的な措置も辞さず、それによって、宮中内の実態も明らかになってゆくだろう。
また、いわゆるリベラル派による天皇夫妻への敬意や積極的にも思える天皇制維持の発言は、これからも、噴出、拡大していくのではないか。それは、革新政党の、ウイングを広げようとして「寛大さ」や「柔軟性」を掲げ、民主主義の根幹を忘れるという退廃と、その一方での若年層の、天皇や天皇制への無関心が相俟って、この国の進む方向には、不安は募るばかりである。
質疑も含めて二時間弱、オンラインに慣れない私は、もうぐったりしてしまった。対面での研究会や集会が待たれるのであった。

初出:「内野光子のブログ」2021.7.15より許可を得て転載

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/07/post-6ae792.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

〔opinion11117:210717〕