保守心情の感動と涙を誘った菅の弔辞は代筆だった。

(2022年10月14日)
 またまた、安倍国葬ネタが続く。今度は、安っぽい保守派心情に感動を呼んだ「涙の菅弔辞」の化けの皮である。

 香川県の地方紙「四国新聞」に、スシローこと田崎史郎執筆の、コラム「岸田、菅の『話す力』追悼の辞の明暗」が掲載された。10月9日付のこと。このコラムの表題が意味深である。実は、「安倍国葬の追悼の辞をめぐって、岸田文雄、菅義偉両名の『話す力』の格差が話題となっている。その明暗の真相を語ろう」というものなのだ。

 スシローは、「安倍国葬参列者の拍手と感動の涙を誘った友人代表の弔辞」が菅本人のものではなくスピーチライターの筆になるものだったとスッパ抜いている。これまで菅は、いかにも自分で弔辞を書いたかのように振る舞ってきた。スシロー、こんな重要秘密を暴露して、今後の商売に差し支えはないのだろうか。他人事ながら、やや心配せざるをえない。

 コラムの要点は以下のとおりである。
 菅の弔辞には感動の讃辞が送られた一方、岸田の追悼の辞に対する評価は「役人が書いたような文章の棒読み」などさんざんだった。
 「評価はまるで真逆。ところが、である。岸田の追悼の辞も菅のそれも、実はスピーチライターは同一人物だった。」
 「菅は、山縣有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人をしのんで詠んだ歌を引用した。…この歌はライターの原案段階から入っていた。」

 では、「スピーチ原案のライターが同じなのに、評価がなぜ分かれたのか。私は、どれだけ『念』を入れたのかの違いだと思う」

 これ以外に、読むべきところはない。菅の「感動の弔辞」は本人が書いたのではなく、プロ(あるいは官僚)のスピーチライターに代筆を依頼したものだという。残念ながら、そのライターの名前は特定されておらず、電通との関係があるともないとも言ってはいないが、あの「拍手」「感動」「涙」を誘ったのは菅本人の言葉ではなく、他人の文章なのだ。

 「山県の(伊藤を悼む)歌はライターの原案段階から入っていた」ということだから、驚く。プロのライターが、軍国主義の巨魁の歌を引用する無神経さにである。しかも、伊藤は朝鮮植民地化を象徴する人物である。安倍が葛西の葬儀に引用したばかりであることを知らないはずもなかろう。菅は、次からライター替えた方が無難だろう。

 さらに驚くべきは、「岸田と菅の弔辞はどちらも同じスピーチライターが書いたもの」だという事実。どうしてこうなったのか、この辺の裏話は知りたいところ。そして、田崎は、同じライターで評判が真逆に分かれた理由を「どれだけ『念』を入れたのかの違い」だという。田崎の文章は分かりにくい。「念」とは何か、だれの『念」の入れ方がどう違ったのか、さっぱり分からない。

 同じライターの二つの弔辞に対する念の入れ方が違っているというよりは、菅と岸田で、ライターへの依頼の仕方における念の入れ方に差があったという意味であろうか。それにしても、どう違ったのだろうか。

 政治家の形式的な式辞だの弔辞などは官僚が書いた紋切り型の文章を読めば良い。しかし、時には、まるで自分が書いたような上手な文章が求められる。菅にとっては、友人代表の弔辞。そのように起案しなければならないが、自分にそんな能力はない。そこで、代筆のスピーチライターの出番となる。

 ライターは飽くまで黒衣である。聞き手には、あたかも菅本人が書いた文章と思ってもらわねば、拍手も感動も涙も湧いて来ない。そして、いつまでも黒衣は黒衣に徹しなければならず、秘密を破ることは許されない。

 ある日、あれは菅本人の文章ではない。あたかも菅自身が書いたものの如く、念には念を入れて周到につくられたゴーストライターの作文である、と秘密が漏らされたときに、魔法は解ける。拍手も感動も涙も全て、嘘によっていざなわれたこととなって白けるのだ。

 だから疑問に思う。なぜ、政権中枢に取り入ることで、喋るネタを仕入れていたスシローこと田崎が、菅の弔辞の化けの皮を剥がすようなことをしたのだろうか。もう、菅には、次の目はないというシグナルなのだろうか。

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2022.10.14より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=20138

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