倉塚平先生を偲ぶ1 倉塚平氏の思い出――明治大學政経学部での出会いなど

著者: 戸塚秀夫 とつかひでお : 東京大学名誉教授
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はじめに 

倉塚さんの訃報を友人たちに伝えたとき、「偲ぶ会」をもてないか、という声を届けてくださったのが松沢弘陽氏であり、それに直ちに賛同してくださったのが和田春樹氏であった。このお二人に登場していただければ、倉塚さんの学問と実践の全貌が浮かび上がるに違いない、というのが私のアイディアであったが、ともにペーパーが準備された立派なご報告であった。それに較べれば、私の話は即席の雑談程度のもので、ここに収録するのも気恥ずかしいのだが、倉塚さんが生きた時代、ベースとした職場の雰囲気をつたえるつもりで、少し手を入れて投稿することにした。学者の道を歩み始めた彼の初心に接した当時のことが、私の倉塚論の前提になっているように思うからである。なお、「偲ぶ会」で刺激されて調べたこと、宿題として意識したことについては、補遺としてメモすることにする。

明大政経学部での出会い

1959年4月、倉塚さんと私は明治大學政経学部で顔を合わせることになった。倉塚さんは助手として、私は専任講師として採用されたのである。東京大学への入学年次では一年先輩、大學の卒業年次では二年先輩であり、すでに学術誌などに業績を出し始めていた彼が、同じ学部の助手であることには、当初、多少の違和感があった。それだけでなく、後に述べるような蟠りもあった。だが、やがてそれも打ち解けて、深い付き合いができるようになった。その経緯を率直に記しておきたいのである。

まず、私たち二人の出会いを可能にしてくれた、当時の政経学部の先生たちのことに触れておきたい。当時は全国的に新制大学・大学院の整備・拡充が教育行政の課題になっていた。明治大學の古参教授の間でも、新しいカリキュラムの整備とそれを担うべきスタッフ募集の必要性が意識され始めていた。政経学部内でも、大教授の招聘だけでなく、他大学での徒弟修業を終えた若い研究者からの採用をしてみてはどうか、という声が強まったのであろう。倉塚さんを助手として採用したのは、政治学科の主任教授、秋永肇先生であったが、秋永先生ご自身の明治大學への着任は1954年であった。秋永先生はその2年後1956年に、東大法学部の助手であった田口富久治氏を専任講師として迎えている。その3年後に、同学部の旧制大学院に籍を置いていた倉塚さんを迎えたわけである。

私が政経学部に採用された当時、「秋永人事」という言葉を度々耳にした。政経学部を強化するためには、教授が自分の弟子を養成するシステム、――当時は“inbreeding”と呼ばれていたが、それに頼るだけではだめで、外から新しい革新的な血を入れることが必要だ、という考え方を意味しているように思われた。具体的には、適当な候補者がいれば、履歴・業績などをみたうえで語学と面接の試験をおこなって決定する、そういう手続きですすめる人事。私が東大の大河内一男教授のもとで新制大学院を修了する人間だということで、全く面識もなかった明治大学の元学長、小島憲教授の「弟子」になれたのも、倉塚さんが秋永研究室に入ったのも、「秋永人事」の線に沿っていたのかもしれない。田口さんははっきり記憶していないというのだが、田口さんが秋永先生と相談しながら倉塚さんの人事を進めたのではないか、というのが私の推測である。

倉塚さんの場合は、自分より一年後に同じ学部を卒業した者が専任講師になっている職場に助手となって就職する、という話である。自由に勉強できるところであれば文句は無い、という気持ちだったのであろう。彼は給与その他待遇上の不利を承知のうえで、あえて学者への道を選んだのである。並々ならぬ決意が秘められていたに相違ない。

明らかに、彼の選択は正しかった。「秋永人事」は研究者としての資質と研鑽の意欲、業績の可能性を最重視していたのだから。私自身、「若いうちは教育よりも研究を大事にするつもりで勉強して欲しい」という秋永先生の言葉を直接うかがったことがある。助手身分につきものの煩わしさはあったに違いないが、倉塚さんは自分の学問研究の道を開拓することに専念していた。彼も私も、丁度自分のマスターピースの構想をかためようとしている時期であった。二人はいわば徒弟修業の仕上げ期間をともに過ごす親友になったわけである。

松沢報告は、倉塚さんには重要な古典的な作品から学んでいくという、極めてオーソドックスな戦略があった、と指摘していたが、私もその恩恵を受けた。私たちが採用された年の翌年、唯物論哲学者、大井正氏が政経学部に着任されたが、倉塚さんは大井先生の胸を借りてカントやヘーゲルの古典を輪読する研究会を始めようと、私を誘ってくれた。結局、その研究会への常連は倉塚さんと私だけになって、随分贅沢な個人教授の場になったのであるが、私にとっても貴重な学習体験となった。必要な語学の習得という点でも、倉塚さんは助手時代を存分に「戦略的」に生かしていたように思う。

また、私たちが就職した直後に「安保騒動」が起こり、その嵐が明治大學に押し寄せたことも幸運であった。当時の明治大学では、教職員組合や専任教授連合会などのアソシエーシヨンが大學の自治や民主化、教職員の待遇改善などを掲げて動いていたが、「安保騒動」は否応無く私たちをより広い空間、街頭にまで連れ出したのである。倉塚さんも私も度々街頭のデモに参加して交流をひろげた。安保反対運動のピーク時には、当時の学長小出廉二先生が国会に向けての全学デモの先頭に立つ、というような感動的な一幕もあった。進歩的な教職員の声が尊重されるいい大學に就職できた、というのが当時倉塚さんと共有した実感であった。現状を快く思っていない教授たちもいる、解放感あふれるこの状態への「テルミドール反動」が起こらなければいいが、というのが彼の口から度々洩れる懸念ではあったが。

出会い当時の問題意識

実は、明治大學での倉塚さんとの出会いは再会であった。東大の学生時代、私たちは日本共産党東大細胞のメンバーとして学生運動に関与していたのである。大学管理法、レッドパージ、朝鮮戦争など、運動のテーマには不足のない時代であった。倉塚さんは法学部、私は経済学部で、日常的に顔を合わせていたわけではない。彼は派手な演説などは苦手だが、必要なときには自分の意見をはっきりと述べる、地味な裏方の仕事も着実にこなす。そういうタイプの「同志」だと思っていた。

だが、私たちの同志的な連帯感は、1951年の2月に起こった東大学生細胞(国際派)内部でのスパイ摘発・査問事件によって、ほぼ完全に失われていた。私がその細胞のキャップであり、スパイの頭目とみなされて除名されるという事件だったので、後に「戸塚事件」ともよばれることになったが、それについては査問者たちの悲痛な体験を伝える文章がでているので、ここでは立ち入らない。*(1)ただ、倉塚さんが私を除名する細胞総会にでて反対意見を表明したという話はきかなかった。その2ヵ月後、細胞内の緊迫した論争をへて、私への除名処分は取り消され「名誉回復」となったのであるが、その「朗報」を届けてくれたのも倉塚さんではなかった。一体、彼はこの事件の過程でどうしていたのか。釈然としないままでの思いがけない再会だったのである。

いま一つ、私たちが明治大學で再会したときに、二人はまた、日本共産党の明治大學教職員細胞のメンバーであった、ということも告白しておきたい。西でも東でも、公務員や教職員の政党所属経歴などに目を光らせる自治体の首長が肩で風を切っているようなので、慎重を期さなければならないが、倉塚さんは許してくれる筈である。私の場合は、「名誉回復」後も細胞活動に復帰する意欲を失っていたが、1955年の春、それまでの「極左冒険主義」や「セクト主義」を自己批判するという日本共産党の方向が伝えられたときに、元同志たちの説得に応じて復党していた。倉塚さんの場合は、弾圧犠牲者の救援会活動や歴史学研究会の事務局の仕事など、地味な仕事を続けていた筈だから、党籍は持続していたのかもしれない。

当然ながら、数年まえのあの屈辱的な事件をどう考えているのか、という深刻な話から私たちの会話は始まった。あの事件のころは、全学連のオルグ仕事で地方を回っていた、細胞総会のこともはっきりした記憶にない、というのが倉塚さんの最初の答えだった記憶する。もちろん、それで許せる話ではない。また、「処分の取り消し」「名誉回復」がなされたからといって、納得できる問題でもない。当時、「戸塚事件」で暴力的査問を強行していた武井昭夫氏が、あの事件についての自己批判を表明することなしに共産党の東京都組織の役員になっていた。一体、そういうことを許せるのか、ということも話題にした筈である。

倉塚さんは、私の言い分に耳をかたむけて、同情してくれた。しかし、当時私が考えていた「対策」については、直ちに賛成だとは応じなかった。前衛党の内部で起こる人権侵害の再発を防止する仕組み、それを具体化することが不可欠ではないか、というのが、あの「戸塚事件」以降の私の強い問題意識になっていたが、倉塚さんのくり返した返事は、気持ちは分かるが、そんなに簡単に解決できるとは思わない、ということであった。

丁度、あの衝撃的なスターリン批判が伝えられた直後で、共産主義者たちの間での深刻な議論が進んでいる時期であった。ポーランド、ハンガリーなど、社会主義圏での反乱が注目され、その評価をめぐって中ソ共産党間の対立も伝わってくる時期に当たっていた。あの頃は、倉塚さんと顔を合わせるたびに、国際共産主義運動の動向全体について、さまざまな情報を交換しながら感想を述べ合っていた。大井先生も私たちの話に加わってくださった。「戸塚事件」をいかに考えるか、という倉塚さんとの対話は、このような大きな流れの中で進んでいった。*(2)

結局のところ、倉塚さんは、「戸塚事件」は特殊な個別ケースではない、という立場をかためていった。そして、ユートピア的な理想を追求する革命運動に起こりがちな悲劇なのだ、それを学問的なテーマとして深く検討していくことを自分の課題としていきたい、と主張するようになった。

当時彼がくり返した荒削りの仮設と問題意識は次のようなものであった。即ち、1)この社会の根本的な変革のためには革命的独裁が必要になる、2)それが暴走して基本的人権の侵害がひろがる危険も生じる、3)それをチェックするためにはどうしたらよいのか、を研究する必要がある、と。

そして自分としては、歴史上注目すべき独裁を拾い上げ、それを実証的に検討していきたい、というのであり、誰もが取り上げるスターリン独裁、毛沢東独裁、ファシスト独裁などだけでなく、16世紀の宗教改革のなかでの神政独裁もとりあげる。独裁の類型的な研究を一生の仕事にするつもりだ、というのであった。

それは、実に雄大な研究プランであった。まずは宗教改革からはじめる。当面、これに全力を投入するというのが、彼の構想であった。実際、1960年代に、倉塚さんが明治大學政経学部の紀要に発表しはじめた連載論文は、それが決して大言壮語の類ではなく、着実な実証研究として進められていることを示していた。*(3)

倉塚さんとの日常的な対話は、1967年に中断した。69年にかけて、彼はドイツ、ミュンスター大学に留学して宗教改革史の研究に従事した。彼が帰国したときには、私はすでに明治大學を退職していた。当時の大學は「全共闘運動」の後遺症に苦しんでいたが、倉塚さんが帰国後に出版した『異端と殉教』(筑摩書房、1972年)には、それに応えるかのごとく、心情的ラディカリズムへの警告が明記されていた。彼の助手時代の仮説がより明確に、戒律として語られていることに感銘を受けたことを覚えている。*(4)

突如襲った病魔によって、当初の倉塚さんの雄大な研究プラン、独裁の類型的研究が未完のままに終わったことは事実である。だがそれは、彼のような実証の密度で一人の研究者が仕上げることは不可能だったのではないか。倉塚さんが築き上げた高い峰を一つの目安として、意欲的な共同研究が始まることをひそかに期待している。

*   (1)木村勝造「東大細胞の終わり――「戸塚事件」の記憶」(『一・九会文集』第二集、1997年)、安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』(現代の理論社、1976年)など。

*   (2)同時に、私たちの実践的な関心は、アメリカのヴェトナム侵略、それに対抗するヴェトナム人民解放戦線の闘いの進展に注がれていた。戦況を伝える新聞報道などに一喜一憂している日々であった。

*   (3)倉塚平「ジュネーブ神政独裁の理念と形態」Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ,Ⅳ(『政経論叢』1960.12,1961.10,1962.11,1965.3)

*   ( Ⅳ)『異端と殉教』の「結び」には次のように記されていた。

  「歴史の中になんらかの意義を認め、それを主体的に追求せんとするものは、二つの相反する魂をもたなければならない。大義のためには、あらゆる目的合理的手段を用いて目的を遂行する鋼鉄のような意志と、そしてかく闘争に血道をあげている自分をひそかに心の片隅で相対化しうるユーモアと理性とを。すなわち、改革者カルヴァンの魂とフマニスト・カステリオンの精神である。もしこの至難の業、両極的緊張に、耐え得ないものは、静かに己の「心の聖域」に閉じ篭るのが、「最も安全な道」(フランク)であろう。」

(250-251頁)

補遺

松沢さんの報告は、倉塚さんの著作を読み直す必要を自覚させてくれた。決して読みやすい文章ではなかったが、宗教改革期のさまざまなセクトの理念、その思考様式、それが広がる社会的根拠、生み出した慣行や制度、そこに内在する矛盾、諸セクト間の対立・抗争・悲劇などについて、これほど精密に実証的に追求した仕事は、他にあったのだろうか。改めて彼の仕事の大きさと鋭さに脱帽した。

同時に、彼の仕事からうけた刺激、学んだことなどを思い起こして、感謝の念を新たにした。倉塚さんの『異端と殉教』が出た頃、私は同じ職場の友人たちを誘って「日本の新左翼諸党派」の調査を始めていたのであるが、党派の機関誌・紙類の収集と解析におわれていた当時の私に、倉塚さんの仕事は、より深みのある考察にすすむためには何が必要かという問題を自覚させてくれた。私が担当した事例調査で、党派活動家の思想形成・変化のプロセスをおいかけ、党派の「社会的共鳴版」の形成、活動家による党派の選択などの認識装置を使おうとしたのは、倉塚さんとの交流によるところが大きかったと思う。

私たちの調査報告書は倉塚さんにも送った筈だが、残念ながら、どんなコメントをいただいたか、記憶に無い。思想の貧弱な仕事だとして読み通していただけなかったのかもしれない。だが、倉塚さんとの交流は断続的に継続した。社会変革を担うべき労働運動の主体の弱さを掘り下げ、新たな主体形成の可能性を追求しようとしていた私への叱咤と激励は絶えなかった。大きな仕事がまとまるごとに、丁寧な署名入りの著作を献呈してくださった。『ミュンスター千年王国前史』(私家版、1986年)、『ユートピアと性』(中公新書、1990年)、訳業『千年王国の惨劇』(平凡社、2002年)などが、私の寝室の棚に備えられている。

最後に、倉塚さんに謝らなければならないことがある。彼の最後の大著『千年王国の惨劇』が出た直後、彼のご自宅に招かれて、奥様の手料理をいただきながら「出版記念のお祝い」をしたのだが、「もうやれることはやった、疲れきってしまった」という倉塚さんに、「助手時代に口にしていた革命独裁の類型的研究が残っていませんか」というような無遠慮な言葉を吐いてしまった。本当は、「実り豊かな時代間の対話をこそ目指している」と宣言していた彼の胸をかりて、私の周辺にいるフランス革命、ロシア革命、中国革命の研究者たちとのラウンド・テーブルを設定すべきであったと思う。同時に、倉塚さんのこの長期間にわたる実証研究をとおして、彼が当初抱いていた理論や方法がどのように豊富化されたと整理しておられるか、という倉塚さんの研究総括のようなお話をうかがうべきであった、と思う。

いま一つ、「偲ぶ会」での私の発言についても、修正しておきたい。「秋永人事」で採用された私たちは、自分の研究に専念して学生への教育を軽視していたのではないか、というのが私の発言であった。私については全くその通りであって、申し訳なかったと思っているが、倉塚さんの場合はどうであったか。怖い先生であったが、真面目な学生には真剣に向き合う先生でもあった、という「教え子」からの発言もあった。

『ユートピアと性』の「あとがき」には、ユートピアをテーマにした大学院のゼミナールでのある院生の報告がきっかけで、オナイダ・コミュニティへの関心が生じたと書かれている。ぜひそれを修士論文で書くようにとその院生に勧めていたのだが、悲しいことにその院生は間もなくこの世を去ってしまった。「彼の志をなんとか引継いでやりたいという想いから、私もこの研究に入っていくことになったのである。本書がわが国のユートピア研究にいささかでも役立ってくれるならば、あの世から彼も笑みをおくってくれるだろう」という言葉が記されている。教師としての倉塚さんの真面目な学生への気持ちが伝わってくる文章である。

和田さんの報告をうけて、倉塚さんの日韓連帯運動への傾倒と彼の宗教改革史研究との関係について、彼に直接聞いておきたかった、と思った。先に掲げた『異端と殉教』の「結び」の言葉が書かれた直後に、倉塚さんは「心の聖域に閉じこもる」「最も安全な道」からでて、日韓連帯運動の組織者としてのパトスのこもった綱領的アピールを執筆した、ということなのだから。おそらく、改革者の立場にたつ政治思想史の研究者である以上、避けられない試練なのだ、と観念しておられたのであろう。当時助手であった中川雄一郎教授のご記憶によれば、倉塚さんは日韓連帯運動の意義について授業でも熱心に説いていたし、そのためのカンパ集めにも積極的に動いていたという。

実際、平素は控えめでシャイな倉塚さんであったが、歴史を左右する事件については決然と発言することを厭わない研究者であった。今回はじめて目にしたのだが、『明治大學教職員組合の半世紀 1947――1997』(明治大學教職員組合発行)には、1965年4月20日に駿河台91番教室でひらかれた「ベトナム情勢をめぐる研究・講義集会」の演壇中央に座っている若い倉塚さんの写真が載っている。それは彼が専任講師に昇格した直後のことであった。おそらく講義でもヴェトナム問題をとりあげていたのであろう。それは政治思想史を専攻する研究者としての当然な教育実践と意識されていたに相違ない。『異端と殉教』の「結び」に記された戒律は、教育研究者としての彼自身に課した戒律であったのかもしれない。

以上、「偲ぶ会」以降の倉塚さんとの交流について一筆しました。かけがえのない友人に先立たれた寂しさは消えませんが、彼の魂を身近に感じる日々を持つことができました。貴重なご報告をして下さった松沢さん、和田さんに改めて感謝すると同時に、「偲ぶ会」の準備・司会など、一切を引き受けて下さった生方卓さんに、厚くお礼を申し上げます。                       (2012年5月7日脱稿)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study520:120628〕