韓国民主化運動とは、1972年10月、朴正煕の維新クーデターにより韓国の民主的な制度の根幹である大統領直接選挙制が廃止されたことに対して闘って、民主主義の回復をめざした運動、民主革命運動のことである。1987年6月の革命勝利までつづいた。
韓国民主化運動と連帯する日本の知識人政治家ジャーナリスト市民労働者の運動を日韓連帯運動という。これがはじまるについては、いくつかの経路があった。
まず直前の選挙で野党の大統領候補であって、朴正煕と善戦した金大中は、維新クーデターのさい、日本に滞在中であったが、ただちに維新クーデターを認めず、亡命して、闘うと宣言した。彼は在日韓国人の急進派と結びつき、いわゆる韓民統運動をすすめることになるが、日本の政治家、言論人とも交流しており、自らの反維新独裁闘争への支持を積極的に求めた。その中でもっとも重要な存在は、岩波書店の総合雑誌『世界』の編集長安江良介であった。彼はすでに金大中に雑誌の誌面を提供していた。金大中の『世界』への最初の寄稿は維新クーデターの前の1972年3月号の「統制されない権力は悪である」であった。第二の寄稿は1973年1月号の「憤りをもって韓国の現状を訴える」であった。しかし、金大中の闘争宣言も、『世界』への2回の寄稿もほとんど日本の中に反響をよばなかった。第三の寄稿は1973年9月号の安江とのインタヴュー「韓国民主化への道」となるのである。
他方で、韓国のキリスト教会も朴政権に対して批判を強めており、72年の秋の終わりに東京に駐在していたアジア・キリスト教協議会幹事呉在植は韓国の民主化運動の情報ネットワークをつくることを構想した。これには日本のキリスト教協議会(幹事東海林勤)、日本キリスト教団(総幹事中嶋正昭)らが協力するようになった。他方で呉は在日韓国人の教会の牧師李仁夏らを誘い、さらに東京に留学していた元『思想界』編集幹事池明観をも仲間に誘った。そして、呉のグループはワシントン、シンガポール、ジュネーヴを結ぶ「民主同志会」と称する秘密グループとなったのである。
池は物書きであり、文章家であった。彼は旧友の鮮ウヒの紹介で安江良介に会い、『世界』に寄稿するようになった。池は金淳一(のちには李太善)というペンネームで寄稿した。最初の寄稿は1973年3月号の「ベトナム戦争と韓国」であり、第二回が5月号のインタヴュー「軍政からファシズムへーー朴政権12年の軌跡を語る」になる。この安江と池の結びつきから、呉在植のネットワークの成果をT・K生「韓国からの通信」として、『世界』に連載することがはじまった。その第一回は1973年5月号に、第二回は7月号に載った。
池のこの動き、そしてT・K生の通信も、さしあたりほとんど日本の知識人から反応がなかった。池は思想史に関心が強く、日本人の学者としては、隅谷三喜男(東京大学)や小川圭治(東京女子大学)らとつきあいがあり、助けられていた。小川のキリスト教思想史の研究の仲間であったのが倉塚平(明治大学)であった。倉塚は池と早い段階で知り合うことになったと考えられる。
1973年8月8日金大中は東京のホテルから白昼韓国中央情報部の要員に拉致された。この事件が日本の知識人に与えた印象は強烈であった。日本ではベトナム戦争に反対する市民運動が5年以上真剣につづいていた。べ平連がその中心だが、その周りにも注目すべき運動があった。運動に参加してきた者たちはこの金大中氏拉致事件から特に大きに突き動かされる影響をうけた。8月23日に78人の知識人の声明が出された。これが新しい日韓連帯運動の出発点となった。署名者の筆頭は青地晨で、大江健三郎、小田実、小中陽太郎、鶴見俊輔、中野好夫、藤島宇内、吉川勇一らがいて、和田春樹が最後であった。ここには教会関係者も、安江も、隅谷も、倉塚も入っていない。
1974年になると、日韓連帯運動の組織がうまれる。最初にうまれたのは、韓国問題キリスト者緊急会議である。1974年1月にスタートした。呉在植のグループと密接な関係がある。代表が中嶋正昭で、東海林勤が事務局長格であった。次に生まれたのが日韓連帯連絡会議である。青地晨が代表で、和田春樹が事務局長、旧ベ平連の青年たちが活動家であった。ベ平連の事務所でスタートしている。そこに倉塚平、清水知久(日本女子大)、高崎宗司らが加わった。この組織ができたのが1974年4月18日の全電通会館での集会においてである。日韓連は、正しくは日本の対韓政策をただし、韓国民主化闘争に連帯する日本連絡会議という。名称に思想が表現されている。日本人が自分たちのあり方をただすために努力してこそ、韓国人の運動と連帯できるという思想はこの組織を準備する過程でうまれたものである。
じつはこの4月のはじめ、『世界』5月号は特集「韓国の現状と日本の民主主義」を組み、その巻頭に倉塚平の論文「民主主義のための連帯――韓国民主化運動のアピールに応えて」をのせた。それは日本の一人の知識人がはじめて韓国の運動に呼応して書いた綱領的論文だった。
倉塚はまず日本人が韓国の民主勢力の「血の滲むような連帯の訴えに応える声のあまりにも寥々たる」ことを憂え、だから自分のような「四百年前の教会氏史の資料を齧って暮らしている」者も黙っていられなくなったのだと書いている。倉塚はT・K生を引用し、韓国問題キリスト者緊急会議が発表した文書を紹介する。
倉塚は韓国からのよびかけにかくも弱い反応しか示していいないところが日本の民主主義の弱さの表れであるととらえ、韓国の運動に連帯することによって、自分たちは変わることができると主張したのである。
「この連帯の訴えを援助を求める弱者の声として、あるいはその連帯行動を自分には得にならない無償の行為のごとく見なしては断じてならない。大仰に聞こえるかもしれないが、日本民主主義再生のため天が与えた好機としてこそ、これを把握すべきである。」
さらに倉塚は日本の企業、日本資本主義が朴政権と癒着していることの危険性を指摘している。
倉塚の面目躍如たるは結びの部分である。倉塚は日本のあらゆる方面に批判を向けている。まずマスコミの批判である。日本の新聞テレビは朴政権をおそれている。マスコミに韓国関係記事をどんどん出すように働きかけよう。ついで、野党の批判である。『赤旗』や『社会新報』も韓国記事は減少している。野党は韓国問題をとりあげて、韓国民主勢力支援の大カンパニアを組織すべきだ。さらに労組の批判である。進出企業の労働者実態、公害輸出などを内部告発すべきだ。最後に学生知識人の批判である。われわれはべ平連の経験をもっている。「韓国問題キリスト者緊急会議」に集まる人々がイニシャチヴをとり、「学生・知識人の韓国民主勢力との連帯委員会」を早急に組織してほしい。
この論文の主張は日韓連帯連絡会議をつくろうとしている人々の考えとまさに合致していた。
倉塚は青地晨の追悼文(『日韓連帯』第10号、1984年10月)の中で、全電通会館での集会のとき、青地に始めて会ったと回想している。
「和田さんに、いっしょにやりませんかといわれて、一も二もなく承知すると、青地先生に引き合わされて、日韓連をつくろうではないかということになったのである」と書いている。
日韓連帯連絡会議の創立集会が開かれる直前、民青学連事件で多数の学生が逮捕され、さらに背後操縦者として、詩人の金芝河が逮捕された。学生の指導者と金芝河らに死刑の求刑、判決がでたため、「金芝河らを殺すな」というスローガンのもと、運動は一挙に大衆運動化した。その中で小田実が中心となって「金芝河らを助ける会」が生まれ、日韓連帯連絡会議と密接に結びついて運動していくことになった。
その中で倉塚の次の重要な仕事は、T・K生の『韓国からの通信』の解説である。これが1974年8月に岩波新書になったとき、安江の求めに応じて倉塚が解説を書いたのである。
「ここには、極限状況におかれてもなお屈しない魂がある。人間の尊厳性を求めてやまない魂がある。しかもそれは激情に流されることのないさめた理性に導かれているのである。この魂に直面するとき、われわれの心は激しく揺さぶられ、われわれの生き方自体が厳しく問いつめられる。・・・この書を前にして、私は思う。彼らの死は、われわれの魂の死でもあるのだと。」
この新書はベストセラーとなったので、多くの読者が倉塚のこの言葉を読んだのである。T・K生は池明観のペンネームであった。倉塚は池との交流からそのことを察していたのだろう。私たちの間でもっとも早くそのことを語ったのは彼だった。
倉塚がもっとも積極的にとりくんだ具体的な運動は、1974年10月からはじまった東亜日報の闘いを助ける「東亜日報を支援する会」である。倉塚は飯沼次郎(京都大学)とともに、事務局を引き受けた。彼は『世界』1975年5月号に「連帯を求める草の根の声」という文章を書いて、日韓の市民の声を紹介した。ここでも倉塚は運動の目標を明確に指摘した。
「『東亜日報を支援する会』の発起人たちは、われわれ自身とわが国を徹底的に民主化し、対韓政策の変更を通じておぞましき日韓癒着を打破すること、これこそが受難の韓国民衆と真に連帯する道であると考えている。」
倉塚は、権力の威嚇で広告スポンサーが去って白紙となった広告欄を埋めた市民の意見広告を紹介し、それを読んで感動した日本の市民のカンパに添えられた言葉を紹介した。
倉塚は心底感動していた。東亜日報購読運動の中に「将来の日韓両国民の真の友好のためのささやかではあるが一つの礎石」を置くことを見ていたのである。
韓国の運動は前進かとみえれば、たちまち後退させられるということのくりかえしであった。1976年1月は厳しい状況で、韓国をおわれたシノット神父が日本に来られて、集会がもたれた。その集会で、倉塚は「韓国キリスト者から学ぶべきこと」という題で話し、それは『福音と世界』76年3月号に掲載された。彼は、韓国の解放の神学には、欧米のそれのような「全共闘的なうわつきが微塵もない」と述べている。宗教改革運動の中で権力化した運動が解放ではなく、抑圧の体制に転化する歴史を研究してきた倉塚は、韓国の運動の中に新しい運動の可能性を見いだしていたようである。
「われわれは韓国民主回復運動を、イエスの後に従って歩む長い行列に譬えることはできないでしょうか。ボロをまとったこの行列は、富み傲れる軍勢によって、いたるところで断ち切られ、歓喜に満ちた行進というよりは、悲しみにうちひしがれた無言の行進であるかもしれません。・・・だが歴史をふり返ってみるならば、信仰は弾圧によって、かえって強化され、光り輝き、より広く深く民衆の中に根を下ろすものなのであります。私たちは彼らの勝利に深い確信を抱こうではありませんか。」
しかし、勝利までの道筋は長かった。日韓連帯連絡会議は1978年に改組縮小して、日韓連帯委員会と変わった。青地と私、清水、倉塚、高崎が中心メンバーだったが、青地も練馬区石神井に住んでおり、清水もそうであり、私は大泉学園で、倉塚は東久留米に住んでいた。だから私たち3人は結束がかたかった。私たちはやりきれなくなると、ときどき東京女子大教授となっていた池明観に会って、そのゆるがない確信にふれ、元気をえていた。私たちは小川圭治の家で会った。倉塚は私たちと池明観との会合が池がT・K生だということを明るみにだすことになってはならないといつも心配していた。
1984年7月倉塚の妻が急死した。私たちは東久留米のお宅も何度も訪ねていたので、民俗学者である彼の妻とも知り合いだったから、ショックをうけた。葬儀は日韓連帯運動の同志であった中嶋正昭牧師の司式で行われたと記憶している。そして、その10月に代表の青地も死んだ。倉塚は、死の前に青地が、亡くなった倉塚の妻の本、『巫女の文化』を読みたい、送って欲しいといわれて、送ったことを書いている。「私のことを案じ、もはやもつ力もない手で妻の書をなんとかひもとこうとされた先生のおやさしい心に涙ぐむばかりである。」
韓国民主化闘争は10年をへて、先がみえず、つらい時期であった。私たち三人は『日韓連帯』というミニコミをだしていたが、青地の死後は、倉塚、清水、和田の三人の座談会をなんどものせた。ラングーン事件も、韓国の情勢も、日本の選択も論じたのである。
そうして私たちは1987年6月を迎えた。デモが韓国全土に高まり、ついに全斗煥政権が屈服した。大統領直接選挙制が勝ち取られた。韓国民主革命が勝利したのである。私たち3人は感謝をもって1988年4月に日韓連帯委員会の解散を宣言した。
この勝利のあと、1988年倉塚は韓国の神学者安炳茂と対談をし、『世界』に載せている。88年の11月号に載った「民衆神学と韓国現代史」である。倉塚は二つの点で、率直に批判している。第一は、民主革命勝利のあとの最初の大統領選で金大中、金泳三が争い、民主派候補一本化ができず、盧泰愚将軍の勝利におわったことについてである。「政治をやる場合、ベストを常に達成できるものではないと思うのです。少しでも民衆のためにやって行こうと思ったら、より小さなる悪を選んでいく必要があるのじゃないでしょうか。」この意見は日本側の関係者の一致した意見であった。
第二点は民衆の神学の行く末である。倉塚は民主化ののちは、「政治独自の論理に従わなければならない時代」に入ってきた、民衆神学もそちらに照準を合わせていくことが必要になるのではないかと述べている。
韓国の運動も問題があったであろう。しかし、倉塚は韓国の運動が危険な逸脱をみせることなく、勝利にこぎつけたことを喜んでいた。その上で、これからは新しい状況に合わせて、運動が成熟飛躍することを望んだのである。
日韓連帯委員会が解散してからは、私たちはあまり会うことがなくなった。とくに倉塚さんが再婚して、横浜の方へ去られてからは、会うことは全くなくなった。それから20年近くの歳月が流れ、昨年訃報をきくことになった。あの時代は忘れることのできない「われらの日々」である。生き残った同志として、あらためて倉塚さんの献身をたたえたいと思う。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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