先日の書評で、私めは「倫理なき資本主義」ということを連発しました。この言葉が現在何よりふさわしいのは、某開発独裁大国でしょう(日本資本主義がこの大国に比べて倫理があると言うのではありません。某開発独裁大国の倫理性の欠落があまりに露骨でわかりやすい―ある意味では正直―という意味です)。そして、その倫理性の欠落は、経済ばかりでなく文化・学問にも及んでいるのです。
先日、私の学生が卒論の先行研究として2つの論文を私に渡してくれました。ともに修士論文でした。さっそく読んでみて驚きました。題名が「日本語の受動文の中国語訳と現れる問題」(A大学2007年)、「日本語受け身文の中国語訳についての考察」(B大学2010年)とほぼ同じで、分析例はともに漱石の『こころ』と康成の『雪国』であり、全く同じなのです。そして、目次を見ると順番も含めて90%同じでした。そして、本論部分の第1頁を見ると、
本稿では日本語の受動文を中国語に訳すことについて検討する。日本語の受動表現は「V未然形+れる/られる」であるが、中国語の受動表現は有標の受動文と無標の受動文に分けられている(A大学論文)
本稿では日本語の受動文を中国語に訳すことについて検討する。日本語の受動表現は「V未然形+れる/られる」であるが、中国語の受動表現は有標の受動文と無標の受動文に分けられている(B大学論文)
100%同じ文章です。B論文は、以下この調子で、すなわちA論文と全く同一の言葉・表現でずっと続くのです。パクリと断言してよいでしょう。
研究のプロの卵となるための第1ステップ、修士論文がこの体たらくなのです。私めはこの国の学問の行く末を絶望的な気持ちで見るほかはありませんでした。