空が澄み切って風が冷たかった日曜日の1月27日、東京都府中市の多磨葬祭場で告別式があった。亡くなったのは元生活協同組合首都圏コープ事業連合(パルシステム生活協同組合連合会の前身)理事長の中澤満正さん。享年68歳。すい臓がんだった。生協のあるべき姿をひたすら追い続けた生協運動家の早逝を惜しんで多数の生協関係者が式場を埋めた。
「これから生協はどうなる」の出版記念会であいさつする中澤満正さん(2011年12月1日、東京・市ヶ谷の私学会館で)
中澤さんは、1944年、旧満州国(現中国東北部)に生まれた。63年、明治大学法学部へ入学。学生自治会活動に参加し、学生会(昼間部自治会)中央執行委員会委員長に就任する。新左翼の一翼、共産主義者同盟(ブント)の活動家だった。
67年、学費値上げ反対闘争で退学処分を受ける。その後、鉄骨塗装工、業界誌記者、書店経営を経て、父親が創設した北多摩生協(本部・東京都小金井市)に入る。その後は生協運動一筋で、77年には、首都圏の小さな生協が結集した「首都圏生活協同組合事業連絡会議」の創立に加わり、常務となる。90年に連絡会議が法人格をとって「生活協同組合首都圏コープ事業連合」に衣替えすると、中澤さんは専務理事に就任。96年には、その理事長とコープやまなしの理事長に就任する。98年にはそれらを退任し、2003年、コンサルタント業を開業した。
その後、首都圏コープ事業連合は2005年、「パルシステム生活協同組合連合会」と改称する。
中澤さんは2011年、腹痛に襲われ、9月、「すい臓がんの末期で余命3カ月」と診断された。抗がん剤治療を続ける一方で、「残された時間を自分らしく生きよう」と、講演と著作の執筆に余力を注いだ。講演のタイトルは「次世代の生協人たちへ」。それまでの自らの生協活動を顧みて、これからの生協はこうあって欲しいと呼びかける“最後の訴え”であった。著作は緊急出版として『これから生協はどうなる――私にとってのパルシステム――』のタイトルで同年暮れ、社会評論社から出版されたが、文字通り、生協はこうあるべきだと説いた「遺言」だった。がん告知から14カ月の今年1月21日、力尽きた。
すでに紹介したように、中澤さんは学生時代、新左翼の活動家だった。中澤さんが属していた組織は、社会変革を求めた若者たちの集団だった。だから、その後中澤さんが生涯をかけることになった生協運動も、いわば学生時代の活動の延長線上にあったとみていいようだ。つまり、中澤さんにとっては、生協運動は社会変革のための運動だったのだ。
そう思わせる記述が、『これから生協はどうなる――私にとってのパルシステム――』にある。
「生活者が自らの生活のために少ないお金をもちよって、努力しあいながら、自分たちの生活を豊かにする。生活協同組合は、もともとそういう運動です。
ということは、生協はたんに食品だけを扱うものではない。大阪では、共同で使用できる銭湯を運営していた生協もありました。終戦後の生協も食品を扱っていましたが、それは食の安全のためではなかった。当時、配給される食糧だけでは、みんな栄養失調で死んでしまう。違法であっても、みんなでお金を出し合って、警官の取り締まりをかいくぐって、農村から闇物資を調達したい。まさにそういう命がけの運動でした。
だから、生活協同組合のテーマは時代や社会環境の変遷とともに変わります。むしろ、何だっていい。その時その時の生活者にとって、いちばん切実でリアリティがあるもの、多くの人の共感をうむ課題に取り組めばよい」
「協同組合とは、何らかの生活の課題を、自分たちの意思で、協同の力で社会的に実現するための組織です。たとえば社会運動であれば、社会の課題に対して、意思ある人が結集し、社会に対して行動し、メッセージを発信する。協同組合は、その事業を通して、暮らしの中に何らかの理想を実現するということを内包している。それが基本的違いだと私は思っております。協同で出資し、協同で労働し、協同に分配する。特にわたくしたちは『組合員と一緒に働く』ということを明確にしました。『組合員はお客様ではない』。明確にそのような意思をもって生活協同組合運動をやってきました」
告別式に参列した生協関係者の1人は弔辞で「気むずかしい人でした。お会いした時はいつも仕事をしていた。1日3時間ぐらいしか眠らないとのことでした。そのひたむきな姿に感動した」と述べた。
葬儀委員長の山本伸司・パルシステム生活協同組合連合会理事長は、弔辞の中で「理念の人、哲学の人だった。生活者と生産者の協同を推進した」と述べた。
現在、パルシステム連合会が供給する商品のうち牛乳、コメ、ハム・ソーセージ、豆腐などは中澤さんが開発したものだ。が、中澤さんの最大の功績は「個配(個別配達)」を創始したことだろう。
日本の生協は、1970年代後半から驚異的な成長を遂げ、世界の注目を浴びた。それを支えたのが「共同購入」だった。これは、5人から10人の組合員で一つの班をつくり、商品を共同で購入する仕組み。班のメンバーから注文のあった品々を生協職員が週1回、車で班の当番宅へまとめて届け、メンバーは当番宅へ注文した品々を取りに行くというシステムだった。世界各国から見学者がやってきた。
しかし、共同購入の伸びが80代半ばから鈍化する。主婦の社会進出が進み、班の構成人員が減り、班が維持できない地域が増えてきたからである。こうした事態に生協の全国組織の日本生活協同組合連合会は店舗重視に転換する。が、大半の店舗は赤字経営から脱却できず、共同購入に代わる業態にはなれなかった。
共同購入に代わるものとして「個配」を考えだしたのは中澤さんである。これは、商品を組合員宅の一軒一軒に個別配達するというシステム。中澤さんによれば、これを思いついたのは1988年で、90年から実施に移したという。中澤さんは言う。「当時のデータを見れば、班の構成人数・実利用人数も利用金額もどんどん縮小しているのは明らかだった。地域の共同性が解体しつつあり、地域の共同性を前提にした共同購入という事業は、間もなく終わる。これはデータから当然導き出される私の結論だったのである」(『これから生協はどうなる――私にとってのパルシステム――』)
これに対し、当時は「個配だけはやってはいけない」というのが生協陣営を支配していた常識で、「個配は共同購入を破壊するもの」との声が強かった。
しかし、この方式は組合員に歓迎され、首都圏コープ事業連合の供給高は年々二けた成長を遂げ、全国の生協から注目されるようになる。個配を始めたころの首都圏コープ事業連合は19生協・組合員3万7550人。それが、いまや1都9県の9つの地域生協が加盟し、傘下の組合員130万人、年総供給高1900億円という生協グループ(パルシステム生活協同組合連合会)に発展している。
他の生協も次々と個配に転換した。日本生協連も90年代末から、個配を購買事業の主要な業態と位置づけ、全国的な拡大を図るようになった。
日本生協連によれば、購買生協の組合員は現在、2324万人(2011年度推計)。日本最大の市民組織だ。地域住民が加入する地域生協(138生協)の供給高は2兆5909億円(2011年度推計)。内訳は宅配による供給が1兆6273億円(63%)店舗による供給が9142億円(35%)。宅配による供給のうち61%が個配である。
中澤さんが発案した個配はいまや全国の生協の主要な供給手段となったのだ。日本の市民の生活に対する中澤さんの貢献は極めて大きいと言える。
「遺言」の中には、生協の現状に対する痛烈な批判もある。その一つが、生協が大型化するにつれて経営一辺倒の「物を売る組織」に、要するに生協もスーパーと同じようになりつつあるのでは、という憂慮である。そのためだろう。『これから生協はどうなる――私にとってのパルシステム――』の中で、こう言っている。
「生協が流通業の主役になることは、今までも、そしてこれからも決してない。行政や民間企業が手を出せない領域に、自分たちの暮らしの生活者の課題を事業化して、自分たちの努力で理想を体現していくこと。生協の社会的意味はそこにこそある」
「資本主義社会の商品経済社会において、流通の主流は結局、量販店を主流とする流通大手企業である。基本的に資本主義社会の商品流通経済というのは、その時代を担う流通業が太陽である。しかし、太陽だけでは、夜は闇になる。太陽が当たるところには日陰が生まれる。自らは太陽ではなくても、太陽の明るい光を反射して、闇に薄明かりを届ける月のような存在。それこそが生協の事業でなければならない」。生協は「月」になれ、というわけである。
告別式の焼香台には、遺影とともに『これから生協はどうなる――私にとってのパルシステム――』と、もう一つの著作『おいしい「日本」を食べる』(KKベストセラーズ刊)が置かれていた。
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