きのう、8月15日、日本武道館において「全国戦没者追悼式」が行われた。安倍首相の式辞、天皇の「おことば」の中では「平成最後の」という表現は登場しなかったが、中継やニュースのテロップでは「平成最後の」を冠するものがほとんどだった。
たしかに、現憲法上、「象徴」とされる天皇の在位が、昭和天皇は死去により終り、平成の天皇は、自らの意思表示に端を発し、生前退位の特例法で、来年、平成30年余で終わることになる。
今年に入って、天皇として、皇后として、あるいは夫妻としての“最後の仕事”は続き、そのたびに、メディアによって回顧され、語られる機会も多くなり、「平成最後の」を冠した新聞記事や番組が氾濫するようになった。
追悼式の中継を見ていて感じたいくつかの中で、気になったのは、まず、参列者の高齢化を言うならば、安倍首相はじめ、衆参議長、最高裁判所長官、三権の長の挨拶が長かったことと、いずれも「天皇のご臨席を賜り」といった言葉で始まったことであり、天皇夫妻のみが祭壇と同じ壇上に座し、その他の参列者は客席である。見慣れた光景ではあるが、よく考えると、追悼式にしてはおかしくないだろうかと。
そもそも、この戦没者追悼式は、1952年、独立後直後、政府主催の式典として開催されたが、開催日は年々異なり、8月15日に定着したのは、1963年、10年も経ってからだった。そして日本武道館が会場になったのも、開館翌年の1965年からで、その前は、新宿御苑や日比谷公会堂、靖国神社であったこともある。天皇の参列は、もちろん憲法上の国事行為ではないし、法律上の規定に基づくものではない。宮内庁のホームページでは、「ご公務など」の項目に、「宮中のご公務など」「行幸啓など(国内のお出まし)」「国際親善」の三つをあげて、戦没者慰霊は、国会開会式、被災地お見舞い、全国植樹祭、国民体育大会、全国豊かな海づくり大会などと並んだ「行幸啓など(国内のお出まし)」の一つという位置づけである。
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/gokomu.html
また、同じく宮内庁ホームページの「皇室のご活動」の中に、「天皇皇后両陛下のご活動」として、国事行為などのご公務、 行幸啓、 外国ご訪問、 ご即位10年関連行事、 ご即位20年関連行事、 伝統文化の継承、 宮中祭祀、 御所でのご生活、の項目が挙げられ、「行幸啓」の中の「両陛下の東京都内でのお出ましは,毎年のものだけでも,全国戦没者追悼式,日本学士院授賞式,日本芸術院授賞式,日本国際賞授賞式,国際生物学賞授賞式などがあります」と説明されている。
http://www.kunaicho.go.jp/activity/activity/01/activity01.html
1952年 5月2日、新宿御苑にて
全国戦没者追悼式は、当初、1952年4月8日の閣議決定「全国戦没者追悼式の実施に関する件」によれば、「(同年4月28日の)平和条約の発効による独立(主権回復)に際し、国をあげて戦没者を追悼するため」に実施するとされた。 1982年4月13日の閣議決定「『戦没者を追悼し平和を祈念する日』について」によれば「先の大戦において亡くなられた方々を追悼し平和を祈念するため、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』を設け」て、その期日を8月15日とする、とされている。
そういえば、毎年、気にも留めていなかったのだが、きょうの天皇の「おことば」の冒頭でも「本日、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。」とあり、閣議決定の通り「平和を祈念する日」の文言がきちんと入っていたのである。首相の式辞では、この文言が語られたことはない。
これまでも、首相の式辞と天皇の「おことば」を比較した記事や論評はよく目にした。私自身も2015年に試みたこともある(「戦後70年―ふたつの言説は何を語るのか」『女性展望』 677号 2015年11・12月号)。首相と天皇の言説を比較し、歴史認識の相違などを検証してみた。首相にはない、天皇の「さきの戦争への深い反省」や「平和への国民の努力」などに言及し、天皇を称賛する人々も多い。しかし、そんなことを繰り返してみても、いったい何が変わったのだろうかと思うと、あまり生産的ではない論議に思える。
武道館での追悼式が、仰々しく、お金もかかりそうな祭壇、遺族の代表者選び、招待などにかかる諸費用・労力を思い、最早、形骸化してしまっているのを見るにつけ、もっと素朴な形での追悼ができないものかと思ってしまう。そして、それよりも、政府として、遺骨収集、空襲犠牲者への補償、原爆症認定、慰安婦への謝罪・補償、沖縄の基地問題など、いまだに戦後処理が放置されたたり、解決を見ないまま、日米安全保障強化、防衛費増強、憲法9条改正などを進めているのだから、「追悼」の意思は、微塵も感じられない。いや、そのうち、未来志向とやらで、追悼式自体が無くなる日が来るかもしれない、そんな思いすらしたのだった。
初出:「内野光子のブログ」2018.08.16
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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