このシリーズ記事の小休止として、思い出話に少々のめり込んでしまった。敗戦直後の池袋の小さな薬屋で育った子どもとして、なんとか記憶を呼び起こし、ネットの力も借りながら、記録にとどめておこうと思ったからだ。調べていくと、なかなか興味深い事実も知ることになり、なんだか楽しみが増えたような気持だった。
ところが、8月23日の『東京』『毎日』新聞を見て、この時期に、「またか」と唖然とした思いに駆られたのである。というのは、「共同通信」が入手したという「小林忍侍従日記」の一部が公表されたのだった。共同通信が入手したということもあって、『東京新聞』が張り切っているのだが・・・。
2018年8月23日『東京新聞』
『東京新聞』(8月23日):一面トップ/「昭和天皇85歳、大戦苦悩」「長く生きても戦争責任いわれる」
三面トップ「昭和天皇 戦争への思い、深く」「訪米後、世評に涙」
二八面「昭和天皇 生身の姿赤裸々に」「沖縄訪問 終生望む」
『東京新聞』(8月24日):三面「平成即位礼政府対応を批判」
六面 共同通信社内での昭和史に詳しい二人の対談を、ほぼ全面に掲載
半藤一利(作家)「宮中の日常 リアルに記録」
保坂正康(ノンフィクション作家)「人前で涙 帝王学からの解放」
『毎日新聞』(8月23日):一面「戦争責任言われつらい」「侍従日記 晩年の昭和天皇吐露」
二八面「昭和天皇の苦悩克明に」「侍従日記『細く長く生きても』」保坂・半藤二人のコメント
ちなみに『朝日新聞』夕刊(8月23日)が一面「昭和天皇『戦争責任をいわれる』」の見出しで、古川隆久日大教授の「昭和史の研究に貴重な資料」というコメントが付せられている。
『東京』23日の一面の「解説(共同・三井潔)」は、「心奥触れる<昭和後半史>」という見出しで「昭和天皇の侍従だった日記には、晩年まで戦争の影を引きずる天皇の苦悩を克明につづられている」と、その意義を語っていて、多くの記事の論調は、ほぼこれに沿うものだった。
私も、これらの新聞報道やコメントに接して思うのは、「何をいまさら」という思いでしかない。天皇の晩年の繰り言のようなつぶやきが記されていたと言って、驚くことなのだろうか。昭和天皇が、身近な人間に何を語ったとか、胸の内を明かしていたとか、こんな短歌を残していたとかの情報は、幾度となく読み、聞いてきた。しかし、私のつたない体験から、歴史として、その人について、まず、残されるべきは、そのとき、その時期の発言や行動、「何を語り」「何を書き」「何をしたか」だと思うようになった。後年、当事者が自ら語ったこと、身内や身近な人が語ったことなどは、どこまでが事実なのかについての検証が、重要な作業として付いて回るはずである。一般論として、私は、自伝や評伝、「実録」「日記」と称されるものは、参考にはするが、できる限り、その信ぴょう性を検証しなければと思っている。昭和天皇の場合にしても、30代後半から40代前半に、周辺の人物からの進言や密接な組織からの圧力によって、時には利用されているという認識のもとに、それが軍部であったり、GHQであったりしたこともあるのだろうが、自らの判断の結果としてなされた言動が、史実として残るのではないか。密室での言動の検証はかなり難しいと言わねばならない。
冒頭にあるように、いま自分のブログでの敗戦直後の思い出の裏付けをと思って、たまたま手元にあった『元旦号で見る朝日新聞80年1879-1958』(朝日新聞社 1958年)を開いていたら、1946年1月1日の広告欄が目に入った。ほとんどが薬品や化粧品メーカーのもので、なつかしい商品名がずらりと並んでいるのに目を奪われた。しかし、この年の元旦には、天皇の「人間宣言」が掲載されていたのだが、活字がつぶれていて、慣れない漢文調で読みにくい。見出しだけは読むことができるだろう。「官報」から引用してみると、以下のようで「人間」「宣言」の文字はなく、太字の部分がこれにあたるが、冒頭には「五箇条ノ御誓文」が登場していたのである。さらに、昭和天皇自身がのちの記者会見で、この「詔書」の一番の目的は「五箇条ノ御誓文」を引用することで、「神格とかいうことは二の問題であって、民主主義は輸入のものではないこと」を強調するためだったと語っている(1977年8月23日)。
記事中に「人間宣言」の文字はない。この「詔書」の一部分を「天皇、現御神にあらず 君民信頼と敬愛に結ぶ」との見出しで紹介。「現御神」は「あきつみかみ」と読む。「現人神(あらひとがみ)」ではなかった
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官報 号外 昭和二十一年一月一日
詔書
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
(中略)
然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
(後略)
御名 御璽
昭和二十一年一月一日
(以下内閣総理大臣ほか大臣名)
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1946年1月1日『朝日新聞』
そして、なんと、この同じ元旦の『朝日新聞』には、高松宮のインタビュー記事も掲載されていて、その見出し「御兄君天皇陛下―高松宮殿下のお話し」「曲がった事がお嫌い 御食慾にも響く御心勞」を見て、「?」となったのである。今回の「小林侍従日記」紹介の記事と見まがうようなトーンであったからだ。インタビューで高松宮は天皇が「曲がった事が嫌い、慈悲深い」という性格であること、趣味は「野草お手植え」であり、食糧問題については心配していることなどを語っている。「人間性」を強調することで「天皇制の維持を図ろう」とし、さらに、「天皇に近い皇族の肉声によって、これまで遠い存在であった天皇の姿が明確化されるという効果を有し」、「人間宣言」と同じ日に掲載されることによって「人間宣言」を補完する役目を担っていた、との指摘もある(河西秀哉「戦後皇族論―象徴天皇の補完者としての弟宮」『戦後史の中の象徴天皇制』 吉田書店 2013年)。高松宮のインタビュー記事では、天皇の「平和」への思いにも言及している。となると、今回の一連の「小林侍従日記」紹介記事が、横並びで「昭和天皇が自らの戦争責任について苦悩していた」ことを強調すること、メディアが一斉に、この代替わりが一年足らずに迫った、この時期に発信することの意味は大きいと言える。
「昭和天皇は、晩年まで戦争責任を気にかけて、悩んでいたのだ。平成も終わるこの時期に、もう問い続けるのをやめてはどうか」のメッセージのような気がしてならないのである。ということは、2015年8月15日の「安倍談話」にも通ずることになりはしまいか、の思いがつのる。<1946―2018>この間、いったい何が変わった、と言えるのだろうか
初出:「内野光子のブログ」2018.08.25
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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