元号変更から1年。あらためて、「令和」の不使用を再宣言する。

昨年(2019年)5月1日に天皇が交替して本日がちょうど1年目。天皇の交替にさしたる意味はない。念のために申し添えれば、誰が天皇でも天皇の個性に意味をもたせてはならないとするのが憲法の立場である。国民生活への問題として意味があるのは、天皇の交替ではなく、それにともなう元号の変更である。天皇の交替の度に変更される元号というものの厄介さが、誰の目にも明らかとなったこの1年であった。そして、この厄介さがなお続くことになるのだ。

元号の変わり目を元日にするとか、年度変わりの初日である4月1日にするとか、あるいはせめて、1年を半分に分けた後半の初日である7月1日とするなどの、国民生活の支障を減ずる配慮があって然るべきだった。しかし、全ては上から目線での密室の決定、民の思いへの気遣いを望むべくもなかった。なんとも中途半端に5月1日からの元号の変更。

昨年裁判所が取り扱った各種事件に付される事件番号は、4月30日までは「平成」の連番で付され、5月1日以後は「令和」の連番となった。何の合理性もなく連続性が失われ事務整理に繁雑この上ない。

もっぱら元号を使う人に問うてみたい。
 「本日から3年前の日付は?」「5年前の日付は?」「10年前は?」

民法上の時効制度において、3年、5年、10年の経過の有無は重要な意味をもっている。西暦であれば、2010年5月1日からの3年前、5年前、10年前の日付はいとも容易に答がでる。しかし「令和2年5月1日の3年前」、「5年前」、「10年前」は、いったい平成何年にあたるのか、すぐに分かるだろうか。天皇交替にともなう元号の変更は、かくも面倒である。これだけでも国民生活に大きな不便をもたらしている。

いま、コロナ禍の外出自粛要請の中で、これまでのビジネスや事務のありかたの合理化を求める動きが急速化している。中でも、印鑑を必要とする制度が時代遅れとして非難の的だ。印鑑登録や実印を求める諸制度、印鑑押捺の文書真正の推定力など、これまではそれなりの合理性はありながらも、批判され続けてきた。そして今、ビジネスは印鑑の使用という制度の維持に耐えがたいと悲鳴を上げつつある。

実は、元号使用の強制も同じことなのだ。ビジネスの世界が、これまで非合理で煩瑣な西暦化に徹しきれないのは官公署の頑固な抵抗に逢着しいるからである。

事務の合理化で税金の使用を最小限化することは官公署の責務である。いつまでも、不効率で繁雑な元号を使い続けることは、事務の効率を低下させ、余計な事務費用を漫然と支出している点で、官公署の責務懈怠というべきである。

ましてや、官公署が事実上民間に元号使用を強制することで、煩瑣な手続を国民全体に強要することは許されない。官公署が作成する一切の書式から元号を排除せよ。少なくも、国民が官公署に提出する書式の雛形において元号使用を誘導することは、ただちに辞めてもらいたい。

私は、昨年の4月1日に「令和」不使用を宣言をした。元号は非効率で不便だから、という理由だけではない。天皇制を支える小道具の一つとして有害な存在なのだ。当ブログの「令和不使用宣言」部分を抜粋する。

  私は、けっして「令和」を使わない。令和不使用を宣言する。
http://article9.jp/wordpress/?p=12341

 本日(2019年4月1日)、内閣が天皇の交替に伴う新元号(予定)を「令和」と公表した。私はこの内閣の公表に対抗して「令和不使用宣言」を公表する。主権者の一人として、厳粛にこの元号を徹底して無視し、使用しないことの決意を明確にする。

 本日は、天皇制と元号の結び付きを国民に可視化する、大仰でもったいぶったパフォーマンスの一日だった。官邸とメディアによるバカ騒ぎ協奏曲。何という空疎で愚かな儀式。何という浅薄な愚民観に基づいての天皇制宣伝。

「平成」発表の際にも、ばかばかしさは感じたがそれだけのことだった。今回の「令和」には、強い嫌悪感を禁じえない。どうせ、アベ政治のやることだからというだけではない、「いやーな感じ」を拭えないのだ。

安倍は、「令和には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている」などとする談話を発表したが、これも牽強付会。
通常の言語感覚からは、「令」といえば、命令・法令・勅令・訓令の令だろう。説文解字では、ひざまづく人の象形と、人が集まるの意の要素からなる会意文字だという。原義は、「人がひざまづいて神意を聴く様から、言いつけるの意を表す」(大漢語林)とのこと。要するに、拳拳服膺を一文字にするとこうなる。権力者から民衆に、上から下への命令と、これをひざまずいて受け容れる民衆の様を表すイヤーな漢字。

この字の熟語にろくなものはない。威令・禁令・軍令・指令・家令・号令…。
もっとも、「令」には、令名・令嬢のごとき意味もあるが、通常の言語からは、「令」とは、勅令・軍令・号令・法令の連想がまず来るのだ。これがイヤーな漢字という所以。

さらに「和」だ。この文字がら連想されるイメージは、本来なら、平和・親和・調和・柔和の和として悪かろうはずはない。ところが、天皇やら政権やら自民党やらが、この字のイメージをいたく傷つけている。「十七条憲法」にいう「和」とは、「下が、上に従順に従っている秩序」を意味する。これは、近代憲法の国民主権原理とはまったく無縁。明らかに、近代立憲主義に反逆ないしは違逆するものなのだ。あなたもぜひ、「令和」不使用を。

(2020年5月1日)

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2020.5.1より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=14785

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

〔opinion9709:200502〕