元号 ― ああ、この不便・不合理にして有害なるもの

2018年5月1日。第89回メーデーである。「働く者の団結万歳!  世界の労働者万歳!」。今年は、「安倍9条改憲反対 戦争法廃止! 市民と野党の共闘で安倍政権退陣を」「過労死合法化、雇用破壊の安倍『働き方改革』反対」「8時間働いて普通に暮らせる賃金・働くルールの確立」「なくせ貧困と格差 大幅賃上げ・底上げで景気回復、地域活性化」「めざせ最賃1500円、全国一律最賃制の実現」などを統一スローガンに、天候に恵まれた全国各地で諸行事が行われた。

ところで元号で表記すれば、第89回メーデーの今日の良き日は、平成30年5月1日である。では、来年第90回メーデーの日を元号で表そうとすると、…できない。平成は31年4月30日で終わる。その次の日、2019年5月1日は平成ではないことは確実で、しかも新元号は未定なのだ。2019年5月1日以後の平成表記はできない。元号とは、なんと不完全で不便・不合理な年代表記方法だろうか。原理的に現天皇在位終了後の将来を表記できないのだ。

本日5月1日は休日ではない。裁判所は開いている。全国の裁判所で多数の民事事件の和解が成立していることだろう。将来の給付を約束する和解条項についての合意の調書も作成されているはずだ。たとえば、次のような和解条項。

「被告は原告に対して金1000万を100回に分割して、2019年5月から2028年8月まで、毎月末日限り各10万円を原告指定の銀行口座に送金して支払う。」

この条項が元号では書けない。裁判所の文書は元号表記だが、これを無理に「平成」に換算して書くとすればあまりにバカげている。いや、平成31年5月も、平成40年8月も存在しないのだから、平成での表記をすべきではない。和解調書だけではない。判決書の中にも将来の年月日の特定は必要だ。これも、西暦で表示するしかないだろう。

昭和の最末期、天皇の下血報道が始まって昭和が間もなく終焉を迎えることは誰の目にも明らかだったその頃。裁判所は平然と「昭和70年」、「昭和80年」と表記した。不自然ではあっても、昭和存続の可能性が絶対にないとは言えない。だから、「表記が間違いとは言えない」。「元号が変われば、事後に換算すればよい」。それが、裁判所の姿勢だった。

今度はそうはいかない。「平成31年5月以後」は存在しないことが確定しているからだ。各裁判官が独立して判断することにはなろうが、西暦表示を使うしかあるまい。

私は、裁判所に提出する書類は、訴状・準備書面をはじめ、すべて西暦表示で統一している。だから、元号変更の際の煩わしさとは一切関わりがない。これまでは、判決文を西暦表示で書いてもらえなかったが、この際、判決文も西暦表示でお願いしたいものと思っている。そして、日本の社会から、不便・不合理極まりない元号を一掃すべきではないか。

元号の使用や、西暦との併用の不便・不合理は既に明らかである。元号は平成を最後になくすべきが、事務の効率化と国際化を重視する時代の要請である。にもかかわらず、時代の区分を一人の自然人の死という偶然性によって画する不合理を承知で、元号を維持しようというのか。天皇制の存続にこだわるからである。なぜ天皇制の存続にこだわるのか。統治の道具として、現在なおそれが有用で有効だからだ。どのように統治に有効か。日本国民の主権者意識の鈍麻のために、である。換言すれば、国民の自立した主権者意識ではなく、臣民根性の涵養に有益なのだ。

日本国憲法の第1章は「天皇」であって、「(主権者としての)国民」となっていない。1条から8条までが、大日本帝国憲法の残滓たる天皇条項なのだ。市民革命を経ての憲法でないことの限界と指摘されるとおりである。以来、70年余。日本国民は良くこの憲法を「守って」はきたが、十分な主権者意識を育てあげたとはいいがたい。

天皇制と一体となっている諸制度をなくすること。とりあえずは元号を捨て去ること、叙勲の制度をなくすこと、「日の丸・君が代」の強制を一掃すること、などが憲法に手を触れることなく主権者意識を確立するための制度改革となるだろう。
(2018年5月1日)

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2018.5.1より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=10295

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