公正さの確認が検証の核心

朝日新聞が5月に報じたいわゆる「吉田調書」の記事に誤りがあったとして、記事を取り消し謝罪した。併せて8月来各方面から批判を浴びている慰安婦報道についても謝罪した。朝日にとってはこの上ない不名誉な事態だが、これは同時に日本のジャーナリズム全体にとっても教訓を突きつけている。

吉田調書は福島原発事故当時、原発の所長だった吉田昌郎氏(故人)が政府の事故調査委に対して行った証言をまとめたもので、朝日が5月20日付紙面で特報した。この時朝日は、原発職員の大半が「所長の命令に反して撤退した」と報じていた。

他のメディアは後追いをせず(できず)、約3か月後の8月になって、産経、読売、共同通信などが調書を入手、「命令に反して撤退」との朝日の報道は「誤報」と主張するニュースを流した。折から朝日が8月初めに公表した慰安婦報道に関する検証をめぐって朝日に批判が集中していたために、吉田調書の「誤報」問題にも注目が集まった。

9月11日に記者会見した朝日の木村伊量社長は、吉田調書報道と慰安婦報道について、あらためて第三者機関による検証をすることを約束した。一見、互いに関連性のない二つの報道だが、検証しなければならない問題の核心は、報道における公正さをどう担保するかという点で共通している。一連の問題の根っこを手繰っていくと、これらの報道にあたって正確な事実を伝えるためのジャーナリズムの基本原則である「公正さ」がおろそかにされてはいなかったか、というところにたどり着く。そしてこの問題は、朝日だけの問題ではなく、日本のメディア全体が共有する問題であることにも気づかされる。

 

未解明のたくさんの「なぜ」

木村社長は会見で吉田調書の報道について「現時点では、思い込みや記事のチェック不足などが重なったことが(誤報の)原因と考えている」と述べていた。ただ、これだけ重大なニュースの特報にあたって単なる思い込みやチェック不足に足をすくわれるほど朝日の報道体制が甘いとは思えない。取材班はおそらく調書の内容を吟味し見出しの立て方まで議論して報道に踏み切ったはずだが、12日の朝日の紙面からはそうした報道の過程をどのように検証したのか、読み取れない。

慰安婦問題報道については8月の検証で一連の報道のうち、虚偽と認めた証言に基づく一部の記事を取り消した。しかし、80年代初め、虚偽の証言を基に慰安婦問題を報道し始めたとき、現場の記者がなぜ虚偽を安易に信じたのか、その後90年代にはいって、証言が虚偽と伝えられた後もなぜ徹底した検証が行われなかったのか、などは未解明のままになっている。それが朝日に対する批判を一段と強める原因にもなった。

吉田調書、慰安婦問題の二つの報道の検証で決定的に欠けていると思われるのが、一連の報道でジャーナリズムの基本的規範である「公正」の原則が実践されていたかどうかの視点である。

ニュース報道の公正は、取材、編集、発信という報道のすべての過程で貫かれねばならない。具体的には、予断や偏見、思い込みを排し、可能な限り事実を正確に伝えることを記者は求められる。情報の確認と検証を怠らず、間違いがあれば速やかに訂正する。自社に不都合な問題があっても説明責任を果たす。そうした基本が守られたかどうか、といった視点からの検証なしには、二つの事例が遺した教訓はくみ取れない。

報道の公正は左右の間をとる公平や中立ではない。平たく言えば、人から後ろ指を指されない振る舞い、人に恥じることのない仕事を意味している。報道が人間の営みである以上、誤りはつきものだ。しかし作業の過程で右のような意味での公正を心がけて最大限の努力をしたときは、仮に結果が間違っていても公正は貫けたと考えていい。

朝日に限らず、日本の報道現場でも「公正」の原則が重要であることは十分理解されているに違いない。しかしそれが日々の仕事のなかで忠実に実践されているとは限らない。時間の制約や他社との厳しい競争環境のためにともすれば確認作業や検証作業がおろそかになる。記事をより魅力的に見せるために実体以上に飾り立てたい誘惑もある。公正な報道を妨げるそうした要因を排除するための仕事の仕組みを構築しておくことも、報道機関として留意しなければならない点だろう。

 

置き去りにされた本質の問題

慰安婦報道に加えて吉田調書報道が不祥事として浮かび上がってきたために、朝日に対する批判はいやがうえにも高まりを見せている。朝日を国賊、売国奴呼ばわりする罵詈雑言の類は論外としても、新聞に対する攻撃としては前例のない異様な空気を帯びている。しかし、批判が朝日の報道の失態に集中するあまり、二つの報道に関わる本質的な問題がほとんど議論の外に置き去りにされている。

慰安婦報道に関わる朝日批判は、慰安婦を強制連行したとする虚偽の証言に基づいて長期間、報道を続けたことと、最終的にその報道の誤りを認め取り消すまでに30年もの時間を要したこと―の二点に集約される。これらの点については、朝日は批判を甘受せざるを得まい。しかし強制連行の証言が虚偽とされても、日本軍が戦地で慰安所を管理、運営し、多数の慰安婦を働かせていた事実が消えるわけではない。日本政府が慰安婦問題に向き合い続けねばならない状況は変わらない。その事実が朝日批判の喧騒のなかでかき消されそうになっている。

吉田調書報道ではひたすら朝日の「誤報」が強調され、朝日による報道で調書の存在が明るみに出るまで政府がそれをひた隠しにしてきた事実、ひた隠すことによって歴史的原発事故の原因究明や将来の再発防止に向けての教訓を学ぶ機会を政府当局が妨げてきたことの責任などはほとんど論じられていない。原発再稼動の是非が目前の政治課題になっているいま、調書の公開に消極的だった政府の姿勢はもっと厳しく問われてもいいのではないか。

いま一つ、これらの報道についての朝日批判は、朝日による一連の報道が日本の国際的評価を下げ、(慰安婦報道では)日韓関係の悪化を招いたと主張している。安倍首相をはじめ閣僚や有力政治家も、朝日の報道が「日本人を貶め、日本の名誉を傷つけた」などの非難を繰り返している。

しかし少し冷静に考えれば、国際世論や外交関係に与える影響力は、新聞の報道より政府の持続的な外交政策、政府首脳の言動の方がはるかに大きいことは自明だろう。新聞の報道の影響力が皆無ではないにしても、政府や要人の振る舞いの持つ潜在的影響力には遠く及ばない。

安倍首相は朝日の吉田調書報道が「日本の名誉を損なった」と批判した。それと前後して、安倍改造内閣の女性閣僚二人が、日本のネオナチ組織の代表とのインタビューに応じ写真に納まっていたことが海外メディアに報じられた。閣僚と極右政党のつながりを海外で指摘されるのと原発職員の「撤退」が報じられるのと、いずれが日本のイメージに大きな打撃を与えるか、あらためて言うまでもあるまい。

 

報道の萎縮が心配だ

それにしても、吉田調書報道についての謝罪と記事取り消しは「羹に懲りてなますを吹く」の感を免れない。初報の見出しが不適切であったことは認めるにしても、虚偽証言に基づいて長期間報道を続けた慰安婦報道の罪と同等に扱うことはできない。慰安婦報道への対応の遅れに対する厳しい批判に過剰に反応した結果ではないかと思われるのである。

朝日がとった措置は、吉田調書の報道に関わった現場の記者たちへの影響はもとより、調査報道を含む朝日の報道全般のあり方にも影を落とすことになりかねない。「調査報道の死」を予言する声もある。それ以上に、朝日の報道現場全体が萎縮し、論議を呼びそうな取材、報道を避ける空気が広がる心配もある。朝日の紙面が当たり障りのない発表ものばかりで埋まるようになれば、新聞の総与党化につながりかねず、それこそ「ジャーナリズムの死」を意味することになるだろう。朝日たたきに精出してわが事成れりとしたり顔の他紙、他メディアも、気が付けばいつの間にか政府の掌のうえで踊っている状況がやってこないとも限らない。

 

(「メディア談話室」2014年10月号 許可を得て掲載)

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