六・一五という記号―その夕刻何があったか

ちきゅう座に掲載された「樺美智子さんの〈死の真相〉(60年安保の裏側で)―60年安保闘争50周年 御庄博実」を読んで大きな刺激を受けた。樺美智子さんの司法解剖時の所見を読むのは初めてだ。そして、検察の「人なだれによる死」という裁定に疑問をもって今も真相が追及されていることも初めて知った。しかも御庄の文章は解剖の所見だけでなく、その日樺美智子がどの位置で死んだかという関心と共に、彼女の死因に関連するかもしれないこととして、一九六〇年六月一五日の夕刻、国会議事堂南通用門で何があったか、当時現場にいた数人の聞き取りも書かれている。

私自身樺美智子の死因について特別な、直接的な証言をする材料はなく、この問題では傍観者的な位置にいたが、当時現場にいた者の何らかの証言が彼女の死因の解明に役立つかも知れないことが、司法解剖の所見によってわかるので、当日その場にいた者の一人として、記憶をたどりながら書いておくこととした。司法解剖の所見では「警棒様の固い鈍器で上腹部を激しく突かれて、脊柱と間にはさまれて挫傷して出血した」のが死の原因と考えられている。尚、これ以上の詳しい司法解剖時の所見と、記号としての「六・一五」が何を意味するかは御庄などの文章を読んでもらいたい。

一九六〇年六月一五日の夕刻、まだ明るかったが、国会議事堂南通用門の門扉を開けるため、硬く厳重に閉ざされたそれに最初に鎖を掛けたのは私だった。私は当日明治大学のデモ隊の旗手だったが、門扉に体当たりし、前夜の打ち合わせ通り担当した者が門扉に鎖をかけようとするのだったが、ことがうまく進まないのを見て、私は隣にいた明大生に旗を渡して鎖を取り、横から見えた隙間に押し込んで輪にしたのである。その輪に太くて長い縄を通して後ろに送り、多くの学生が取り付いて綱引きのように「ワッショイワッショイ」と曳いた。小雨が降っていた。門扉を引きちぎるにはかなり時間がかかった。三十分とか、小一時間かかったのではないか。

やがて片方の門扉が外れて歓声が起こった。もう片方はすでに閂を失っていて簡単に外れた。

門扉の中に装甲車が二台並んでいて、これを引き出しにかかった。御庄の文章では後ろ向きの装甲車となっているが、間違っているだろう。なぜなら、その直後私は目の前の装甲車の運転席に入ったのだ。

装甲車のバンパーともう何箇所かに縄を通して曳くのだったが、なかなか動かなかった。私は思いついて装甲車の運転席に入り、サイドブレーキを外しにかかった。しかしその構造をよく知らなかったので手間取った。その時だった。ホロを張った荷台には人影が無く、その向こうに機動隊の隊列が見えていたが、突然一人の機動隊員が荷台に現れ拳銃に手を掛けた。すると続いて荷台に現れたもう一人の機動隊員が先の隊員に後ろから抱きつき拳銃を抜こうとする腕を押さえた。その様子に気をとられ、サイドブレーキを引くつもりの私の手は止まっていた。すると反対側のドアが開き、一人の学生が飛び込んできてサイドブレーキを外した。

装甲車は簡単に引き出され、群衆の中で虜のように見えた。しかも誰かが運転台でハンドルを操作しているのだろう、二台目も含め、カーブを切って群集の中をゆっくり進む。

最初、隊列を組んで南通用門に体当たりしたのは午後四時前後だったと思うが、前夜からの打ち合わせどおり、最前列が明治と東大の隊列だった。私の記憶はそうだったが、後で中央大学のデモ隊も最前列にいたのを知った。

通用門に体当たりする直前だった。明治大学の隊列の左側にあった東大の隊列に女性がいるのを見て、「危ないから中に入った方がいいよ」と私は声を掛けた。すると女性が私を怒った。言葉をはっきり覚えていないが、「そんなの関係ないでしょう」といったと思う。「自立した女」といったような印象が脳裏に残った。後で思うのだったが、その女性が樺美智子ではなかったのか?しばしばそんなことを考えた。しかし、御庄博実の文章では、その日東大から参加した女性は三人だったようで、樺美智子一人にしぼることは出来ない。その上で今思うのは、生存する他の二人の女性に、六・一五当日南通用門を前にして「危ないから中に入った方がいいよ」と声を掛けられた人がいるかどうか、尋ねてみたい気がする。とはいえ、御庄の文章にすでに「女性はデモ隊の中に入ってもらった」という証言もあるし、中央大学の隊列もあるので、私が声を掛けた女性は中央大学の学生だったのか、とも思われる。

このような隊列ではあったが、綱引きの段階から、学校別の隊列の見分けはつかなかった。そして装甲車が引き出されたとたん、最前列は混沌としたまま学生たちが通用門を入った。ある程度隊列を残していたのは後列だったのではないか。

私自身、二台目の装甲車の後姿を見た直後のことを覚えていない。かなり興奮していたのかと思うが、気づくと国会の庭にいた。初めて見るのだったが、庭の植木やその向こうにかすかに見える建物などすべてが、人間の背丈に見合っているのを感じ、感動を覚えた。考えてみるとそれは当然ではあるが、それを知っただけで国会の中庭に突入した価値があった。

なぜかあたりが静かに感じていた。庭に人がいっぱいだった。いつのまにか全学連の情宣車が入っていて、車の屋根で北小路がアジッていた。明治大学のデモ隊がどこにいるのかわからなかった。後でヒヤリと思いだすのであるが、明治大学の旗のことを私は忘れていた。私は庭に座っているらしい学生の群れの外側を歩いていた。あたりは暗くなっていた。右側に学生の群れ。一般人もいただろう。左側、植木をはさんで五六メートル奥に、何かの照明を受けて鈍く光るヘルメットの群れがあった。機動隊だった。機動隊がデモ隊から距離を置いて、ひかえている。しかしこのままでは終わらないのを感じた。

この時点で現代的な思考を加味すると、検察のいう樺美智子の死の原因「人なだれによる死」、つまりデモ隊の中で圧死したとしたら、最初の門扉への体当たりの時か、装甲車を引き出して人々が通用門を通る時しか考えられない。しかも後者は押し合いへし合いといった状況ではなかった。こうしたことを考えて、なお、この二つの可能性を考えると、もしこの時点で樺美智子が倒れ、死んでいたとしたら、誰かが気づくことになるだろう。しかしそのような声は一切なかった。だから樺美智子の死は、この後起こったと考えてよい。

満たされた気持ちで国会議事堂の中庭に立っているとき私は仕事を思い出した。当時新聞配達をしながら学校に通った。その日の夕刊を配らなかった。イケナイと思ったが後のまつり。本当に議事堂の庭に入れるとは思っていなかった自分に気づく。一方で、店を辞めてもいいと腹をくくった。

そんな時だった。「行け」というような声を聞いた気がする。見ると静かだったヘルメットの群れが盛り上がって突進してきた。私は思わず通用門の方に走った。が、そのあたりもヘルメットの群れがあった。私は学生たちの中に入って走った。学生たちも気づいていて、大騒ぎになった。その後のこともあまり記憶にない。気づいた時私は土手を越えて転げ落ちた。今思うと南通用門に向かって右側の土手だと思う。

通用門の前では照明が輝き、シユプレヒコールや怒声が沸き立っていた。土手の中でも悲鳴などが起こり、人が次々と土手を転がった。私は呆然と歩道に立っていた。逮捕者が大勢出ると思った。明大の学生に会いたかったが、しかし何も出来なかった。私はやがて、大目玉をくらうのを覚悟しながら、晩飯を食いたくもあって、泊り込みの新聞配達店に一人帰った。

次の日、包帯を頭に巻いた学生がいっぱい現れた。警棒で頭を割られていた。警棒で腹部を突かれ、息が止まるかと思ったという学生の声もあった。国会の中庭での出来事だ。しかし、それでもそのようにして学校に来る者は軽症で、昨夜病院に担ぎ込まれ、そのまま入院している者も少なくなかった。

六・一五前夜の作戦会議のことも書いておく。

新聞販売店で泊り込みの配達員だったので、私は本格的な活動家ではなかった。日本文学科の学生委員だったので、教室ではデモへの参加を呼びかけ、自分もデモが好きで、ほとんど毎回参加した。だから学生会の中執などはよく出入りした。六・一五前夜頃は、明治大学の活動家の多くがパクられていた。重要な会議があるので是非きてくれといわれたので、夕刊を配った後出かけた。当時の七号館(?)校舎の地下室だった。都学連の幹部がいて、明日は必ず国会突入をするとし、そのため作戦を作り、用意するもの、役割などを決めた。細かい話しは覚えていないが、そのとき私が明大の旗手になった。隊列の最前列もその時決めた。ただ、最初から南通用門と決めていたのかどうか、記憶がない。とはいえ、これまで何回も国会突入を試み、うまくいかなかったので、その反省があって、門扉を破る道具、太く長い縄や、大きなペンチ、鎖や針金などを用意することとし、翌日昼までに秋葉原などに行ってそれらをそろえる役割も決めた。

六・一五のさらに後のことであるが、拘留期間を過ぎて帰ってきた校友の何人かから、「警察がお前の写真を見せて名前を聞いた。気を付けろ」といわれた。気をつけようもなかったのであるが、幸いつかまらなかったのは、その後私が新聞販売店を何軒か変わり、足がつかなかったせいだと思っている。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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*著者より若干の修正がありましたので補足・修正版を再度掲載しました。(編集部)