経済的弱者の命綱を奪う米国の新薬特許延長の要求
今朝の「読売新聞」面に、「新薬特許、米が延長要求」という見出しの記事が載っている。それによると、今月日までマレーシアで開かれた参加国交渉会合の「交渉の中で、世界的な製薬会社を抱える米国が新薬の特許期間を延長するよう要求していることが現地の交渉関係筋の話で分かった」という。こうした米国の要求に対しては、「マレーシアなどの新興国が強く反発しているほか、医療費を抑制するため、安価な後発薬の普及を進めている日本も慎重な立場で、今後の交渉の焦点の一つになりそうだ」という。
記事によると、「日本は、新薬(先発薬)の特許期間を最長25年に設定しているが、関係筋によると、米国はTPP参加に先立つ日米事前協議で特許期間を数年程度、延ばすよう求めていたが、同様の要求を日本以外の参加国にもすでに行っている」という。
こうした「米国の要求の背景には、米製薬業界の『特許期間が短いと企業の新薬開発意欲がなくなり、結果的に悪影響が出る』との主張があるとみられる。これに対し、後発薬に頼っているマレーシアなどは、後発薬の発売が遅れると自国の低所得者層を中心に影響が出るとして警戒感を強めている。」
以上のような新薬への開発投資の保護を大義名分にした米国の新薬特許期間の延長要求は今に始まったことではない。これについては、筆者も『文化連情報』2013年1月号に寄稿した論稿で取り上げた。同誌の編集部の許可を得たのでその全文を以下、ここに転載することにした。
日本の医療財政の改善策を阻む先発薬の保護強化要求
これをお読みいただければ、新薬の特許期間延長など医薬品への投資の保護を強化すべきという米国の要求は、安価なジェネリック薬を命綱とする途上国の貧民の健康と生命を犠牲にしてでも販路の拡大と薬価の高値維持を求める多国籍製薬資本の強欲を代弁するものであることが理解いただけると思う。
また、そうした日本国内外の製薬資本の強欲に屈して割高な先発薬の特許権保護を強化することは、開発費を要しない分だけ新薬より安価な後発医薬品を普及させることによって薬剤費、ひいては窮迫する医療保険財政の立て直しを図ろうとしている厚労省のロードマップの達成を阻む重大な障害となることを理解いただけると思う。
(補足)
厚労省は2007年に、2012年度末までにジェリック医薬品の数量ベースの普及率を30%以上とする目標を掲げたが、実際には26.3%にとどまった。そこで、本年4月に、普及率の算定方法を変更した上で、2017年度末までにジェリック医薬品(数量ベース)の普及率を60%以上とする目標に改めた。
ちなみに、日本製薬工業会/医療産業政策研究所がまとめたリサーチ・ペーパー(「後発医薬品の使用促進と市場への影響」2012年6月)によると、2009年現在の各国のジェネリック医薬品の数量シェアは次のとおりだった。
アメリカ 72.0% カ ナ ダ 66.0%
イギリス 65.0% ド イ ツ 63.0%
フランス 44.0% スペイン 37.0%
日 本 21.0% イタリア 6.0%
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(以下は『文化連情報』№418、2013年1月号に寄稿した拙稿を同誌編集部の許可を得て転載するものである。)全文のPDF版は次のとおり。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/tpp_yakka_bunkaren.pdf
TPPは薬価制度をどう変えるか
~医薬品業界の経営動向~
醍醐 聰
TPPは単なる貿易自由化協定ではない
自民党は先の総選挙において、「聖域なき関税撤廃」を前提にする限り、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)交渉参加に反対する、という公約を掲げた。また、早く交渉に参加してわが国の立場を主張し、国益が守られそうにない場合は参加を見合わせる、と主張した政党もあった。これだけを聞くと、TPP交渉参加に慎重な姿勢のように思えるが、実際はそうとはいえない。
農業も含め、文字通り聖域なき関税撤廃が条件なら、そうした協定交渉に日本が参加するのは論外である。しかし、TPPは関税だけがテーマではなく、アメリカ流の「自由貿易」にとっての障壁とみなされる加盟各国内の諸々の制度――農業・自動車・サービス・金融保険・投資・特許・知的財産権・医療といった広範囲な制度――の撤廃を目指す国際協定づくりである。
また、日本とのTPP交渉に関してアメリカ政府が国内で行った意見募集の結果(2012年2月、外務省公表)をみると、産業界、労働界などから提出された115件の意見の大半は日本の交渉参加に肯定的だった。しかし、それは無条件でなく、「米国と同レベルの市場アクセスの確保を求める」(全米商工会議所)、「アプリオリの除外をすることのない包括的な合意へのコミット、合意済みの事項についてリオープンしないこと」(全米製造業協会)といった厳しい条件を付ける意見が見受けられた。また、玄葉外務大臣はTPPについて交渉に参加した後に離脱することはあり得るのかという質問に対し、それは論理的にはあり得るが、日本政府が離脱を決めるとなれば、それによって失われる国益、信頼も考えなければならないと答弁し、途中での離脱は容易でないとの認識を示唆している(2011年10月25日、衆議院安全保障委員会)。
以下では、この連載のテーマに従って、TPPが公的医療制度にどのように改変を迫るものかを、これまでにアメリカが豪州・韓国と締結した自由貿易協定(FTA)ならびにEUとインドのFTA交渉の過程で生じた問題を先行例として、検討しておきたい。
薬価制度を脅かすTPP
2005年1月に成立した米豪FTAについて、オーストリアのマーク・ベイル貿易大臣はオーストリア国内の高品質で求めやすい医薬品へのアクセスを国民に保証する医療給付制度(PBS)、特に医薬品の価格・リスト設定は従来のまま維持されたと語ったが、この言葉を信じる同国民は多くない。ホ-カ-・ブリトン社の世論調査では米豪FTAに対する支持率は交渉が開始された2003年はじめは65%だったのが、交渉が妥結した2004年2月には35%に低下した。
オーストラリアでは政府の医薬品給付制度の下で、医薬品の価格は政府からの補助金によって米国の3分の1 から10 分の1 の水準に抑えられてきた。また、新薬の価格が代替療法よりも高価な場合は、それが代替療法を上回る有効性を証明されない限り、新薬として収載しない参照価格制度が採用されてきた(ジェーン・ケルシー編著/環太平洋経済問題研究会他訳『異常な契約――TPPの仮面を剥ぐ――』2011年、農山漁村文化協会、181ページ)。また、製薬会社が、特許切れ間近の医薬品の成分等を部分的に改善して特許期間の延長と価格の引き上げを図るエバーグリーニングは法律で禁止されていた。しかし、アメリカは、国際的にももっともすぐれていると自負していたオーストラリアの薬価制度を、自国の製薬業界(PhRMA:米国研究製薬工業部会)の販路・権益拡大のため、2つの面から切りやり玉に挙げた。
一つは、参照価格制に対する攻撃である。USTR(米国通商代表部)は、この制度にもとづく「不当に低い」薬価によって、企業が知的財産権の恩恵を十分に受けることを妨げられていると非難し、参照価格制度を骨抜きにしてしまった。すなわち医薬品を新たに代替性のない革新的な医薬品からなる「F1」と、ほとんどがジェネリック薬である「F2」に分類した上で、従来の価格規制はF2にのみ有効とし、F1は価格規制の対象外としたのである。
その上で、米豪FTAにもとづいて設置されることになった医薬品作業部会は、厳格な知的財産権の保護を通じて革新的医薬品の価値を尊重する必要性を優先するという原則を採用した。その結果、参照価格制度は存続はしたものの、その機能は大きく毀損され、薬価を押し上げることになった。
もう一つは、反エバーグリーニングの事実上の放任である。それまで、オーストラリアでは効能に無関係な、わずかな成分の変換だけで特許の保護・延長を図ることを認めない反エバーグリーニング法があった。これによって、特許薬の高止まりを阻止し、公的な薬価規制を実効あるものにしてきたのである。しかし、アメリカは特許付与の原則となる新規性、革新性の解釈を各国の判断に委ねる方式に異議を唱えた。そして、薬効の新規性がなくても、既存品に新たな利用方法を付与するだけでも特許の対象とする原則を標準化するように迫り、これに反する制度を特許権侵害とみなした。目下、オーストラリアでは反エバーグリーニング法は活きているが、アメリカの製薬企業はこうした原則が特許権侵害に当たるとみなせば、「投資家対国家間の紛争解決条項」(通称:ISD条項)を使って、協定締約国政府を相手取って訴訟を起こすこともできる仕組みになっている。これがTPPにも持ち込まれると、TPPは安価なジェネリック医薬品の普及を抑止し、先発薬の薬価の高止まりを誘導して医薬品市場を製薬資本のリゾート地にしてしまうだろう。
ジェネリック医薬品の普及に逆行する知財保護要求
ジェネリック医薬品の普及に対するFTA-TPPの脅威は可能性の問題ではなく、現実の問題となって現れている。この点をジェネリック医薬品の世界的供給源であるインドの例を挙げて確かめておきたい。
世界の紛争地や、感染症がまん延する地域、自然災害の被災地などで緊急医療援助活動を行っている「国境なき医師団」によると、現在、途上国に供給されるHIV治療薬の約80%、小児患者の治療に用いられている薬の約92%がジェネリック薬である。なぜ、これほどジェネリック薬が普及したかというと、HIV治療薬の1人当りの年間費用は2000年には1万ドル(約84万円)だったのが、2011年には約60ドル(約5000円)まで下がった。そして、このジェネリック薬、例えばHIV治療用のジェネリック薬の約50%、抗生薬、抗がん薬、糖尿薬など世界の複製薬の20%を供給しているのがインドである。
こうして世界各地の貧しい患者の命綱ともなっている「世界の薬局」インドのジェネリック薬を守れという運動が起こっている。それは、インドのジェネリック薬が、一方ではEUとのFTA交渉を通じて、もう一方では多国籍製薬資本・ノバルティスによる特許権訴訟によって脅威にさらされているからである。
まず、EUはインドとのFTAに含まれる「海外投資に関する条項」を盾に、欧州企業が自社の利益や投資がインドの安価なジェネリック薬普及政策によって損害を被る恐れがあると判断した場合は、インド政府を提訴することが可能になっている。現に、インドでは2006年にノバルティス社が同社製の抗がん剤メシル酸イマチニブ(商品名:グリベック。この連載の第1回で取り上げた分子標的薬の一種)の特許申請が模倣薬だと判定され、申請を却下されたのを不服としてインド政府を相手取った訴訟を起こしている。ノバルティスは韓国でも2001年にグリベックを上市する際、特許権を盾に1か月に300万ウォン以上の価格を要求した。韓国内の白血病患者はこれに猛然と反対して「薬価の引き下げ」、「保険の適用拡大」を要求し、1年半以上戦ったが、韓国政府福祉部はノバルティスのほぼ要求通り、1か月に270万ウォン以上の価格を決定した。
これについて、国境なき医師団の必須医薬品キャンペーン政策責任者であるミシェル・チャイルズは次のように語っている。 (http://www.msf.or.jp/news/2011/04/5170.php)
「インドの裁判所は企業の利益よりも、公衆衛生の保護と医薬品の普及を優先するよう規定しています。しかし、このような規定は、企業が独自に代理機関を通じてインド政府を提訴した場合には、適用されることは難しいでしょう。私たちは、FTAの海外投資に関する条項において、知的所有権の保護を要求することを止めるよう、EUに求めています。」
医療を受ける国民の権利に対する多国籍製薬資本による挑戦
野田首相は条項の危険性を質した国会質問に対し、この条項は相方向的なものであって、日本だけの脅威ではないと繰り返し答弁した。しかし、これはなりの内実をみない空疎な形式論である。その証拠に日本の製薬業界は条項に何ら異議を唱えていない。それもそのはずで、わが国の薬価を実勢価格以下に抑えている制度――外国平均価格調整制度や市場再算定制度など――がなりなりの締結によって撤廃されれば、アメリカの製薬企業ばかりか日本の製薬企業にとっても願ってもない「朗報」だからで、いまさらアメリカ政府を相手どって訴訟を起こす動機はどこにもないからである。
現に、自民党は2012年総選挙公約集の中で、次のような医療政策を掲げている。
「製薬産業がイノベーションを通じて付加価値のある薬剤の創造力を強化し、国民医療へさらに貢献していくため、研究開発減税の拡充、新薬創出・適応外薬解消等促進加算制度の恒久化を図るとともに、基礎的医薬品の安定供給に資する措置を行います。また、先発品と後発品の役割が適正に反映された市場実勢価格主義に基づく透明性の高い薬価制度を堅持します。さらに、医療の効率化や国民の健康維持の観点から、後発品の普及を図るとともにセルフメディケーションを推進します。」
新薬加算制度の恒久化といい、先発品と後発品のセグメンテーションといい、国民の医療へのアクセスをさらに狭める一方で、わが国の薬価制度と医薬品市場を多国籍製薬資本の求めを先取りするかのように、改変する政策と見て取れる。
しかし、こうした医療政策は国民の医療を受ける権利を犠牲にして、国内外の製薬企業に今以上の高利益を保証する仕組みに他ならない。これは国境なき医師団の次のような指摘にもはっきり示されている(前掲サイトより)。
「医療分野での知的財産権の保護は、薬価を高止まりさせて治療の機会を狭めている。その結果、購買力が弱い途上国の人びとが苦しんでいる。アメリカは、途上国での知的財産権の規制を厳格化・高度化して既得権益を守り、開発費を薬価に反映させる誤ったビジネスモデルを固持している。途上国の事情は考慮されていない。」
さいわい、インドはグリベックの特許はその後も認められず、ジェネリック薬のビーナットは20分の1の価格で販売されているという。
韓国でも、前記のように、2001年にグリベックが承認される際、「白血病患者は生き続けたい、ノバルティスは薬価を引き下げろ」という患者たちの行動の成果もあって、グリベックは、通常、自己負担5割のところ白血病患者だけが1割に減額され、その1割はノバルティス社が出資する財団からの補助で賄われることになったという。もっとも、それは、ノバルティス社がたった1割引(1ヶ月あたりの要求額300万ウォンから270万ウォンへの値下げ)で、韓国でグリベックを上市できた上でのことであるが(以上、「〔診察室〕抗がん剤グリベックの問題点」『群馬保険医新聞』2011年5月号参照)。
ちなみに、ノバルティス社の2011年度の連結ベースの売上総利益率と営業利益率を調べてみると、それぞれ69.0%(73.2%)、18.8%(22.8%)で、武田薬品に匹敵する異常に高い水準になっている(括弧内は2010年度)。
医療機関と患者は連帯して、また国境を超えて、こうした各国国民の医療を受ける権利に挑戦するとともに、薬価を高値に誘導して医療財政をさらに窮状に追い込む反国民的な医療政策と厳しく対峙していかなければならない。
初出:「醍醐聡のブログ」より許可を得て転載 http://sdaigo.cocolog-nifty.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net
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