冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(1)

出発の前、数日間は、那覇の気象情報が気になっていたが、この季節の気温は、千葉より10度は高い。朝、着ていくものに迷ったが、セーターに薄いコートにマフラーで家を出る。羽田10時30分発ANA469便、修学旅行の高校生も乗っていて、ほぼ満席ながら静かな機内であった。あの重量の航空機が空を飛ぶこと自体信じがたい私は、いつも無事の着陸を祈るしかないのだ。夫は5回目、私は3回目の沖縄行きである。

u1屋我地島は、1953年に屋我地大橋が架けられ本島と結ばれ、1960年にはチリ津波で交わされ63年に再建、現在は1993年建設の三代目。2005年古宇利大橋、2010年に今帰仁の天底からワルミ大橋が架けられた

今回の最初の目的地は、沖縄本島中部の名護市澄井出、屋我地島の沖縄愛楽園なので、空港前からの高速バスで、名護バスセンターに直行、タクシーに乗り継いでの長距離移動である。高速バスとはいえ、各所の高速道路を乗ったり降りたり、停留所の多い路線バスなのである。最後の高速道路を降りて、終点までのあとわずかのところで、道路工事のため対面交通の個所があり、世富慶(よふけ)辺りの海岸道路の渋滞には参った。本土より日没が遅いとはいえ、不案内な愛楽園構内は明るいうちに回りたいと思っていた。

u2愛楽園 、航空写真。右手上の岬の手前の赤い屋根の建物が交流会館、資料室が2015年新設された。

左手上の橋がふる古宇利大橋

この日、朝7時20分に家を出て、愛楽園に着いたのが5時近くだったから、10時間近い移動時間を要したことになる。すでに閉館時刻をすぎていたが、交流会館の受付で案内図をいただく。会館の前には、「高松宮・同妃殿下」(1985年)、「三笠宮寛仁親王・妃殿下」(1992年)来園記念植樹の掲示があった。地図を頼りに歩き始めると、建物の番号は付されているものの案内板らしきものがない。出会う人は親切に教えてくれるのだが、似たような建物が多く、道路も微妙に曲がりくねっていて、迷ってしまうのだ。そんなとき、広場の隅に何かモニュメントのようなものがみえたので、近づくと、そのモニュメントの脇には、大きな碑と台座が横倒しになっていた。覆うブルーシートが、ところどころ破れていて、「貞明皇后」(大正天皇の皇后、1884〜1951)と読めたので、訳が分からないながら、いささかの衝撃が走った。u1なお、「愛楽園」は、現在「国立療養所沖縄愛楽園」となったが、そこには苦難の歴史があった。沖縄ではハンセン病者の療養所設置が各地での反対でなかなか進まない中、自らも16歳の時に発病した、クリスチャンの(1893~1969)がこの屋我地島北東の小さな岬に土地を求め、1935年末に病者とともに上陸、開園したのが、愛楽園の前身であった。*愛楽園発行の案内によれば、1938年沖縄県告示により「国頭愛楽園」と命名、1941年国立に移管、1944年10月10日米軍空襲以降、兵舎と間違われ、幾度かの爆撃や機銃掃射により施設は壊滅状態となる。米軍、琉球政府の所管を経て、1972年日本復帰とともに厚生省に移管された。敷地約10万坪、2016年12月末現在、入所者数164人、園内物故者1348人という。私が関心を寄せたのは、「沖縄における天皇の短歌」について調べていて、現天皇の皇太子時代、沖縄海洋博開会式に出席するために訪れた1975年に、ここ愛楽園を訪ね、琉歌「だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る」と詠んでいたことを知ったときだった。

*青木恵哉『選ばれた島~沖縄愛楽園創設者の生涯』(聖公会沖縄教区祈りの家教会 1958年10月)

さらに、案内図を見ながら、この辺りに「早田壕(はやたごう)」があるはずと、渡り廊下を給食の配膳台を押してきた女性に尋ねると、しばらく間をおいて「ソウダ壕かしら」と、屋根付きの渡り廊下の奥に走って行って、手招きをしてくれる。「ここですよ」と渡り廊下の右側のガラス戸のカギを開けて「向かいにもありますから、済んだら両方ともカギをかけておいてくださいね」と足早に仕事に戻られた。壕の入り口には格子が嵌められていて、中には入れないが、傍らには「早田壕」の説明パネルがあった。

「早田壕」とは、1944年3月に愛楽園に着任した早田晧(1903~1985)園長は、入所者避難のために横穴式の壕を掘らせた。貝殻の多い硬い地層のため、約一年で、怪我をした人も多く、病状の悪化、栄養失調、マラリアなどで288人が亡くなっている、とあった。

u2結局、この日は、日も暮れてきたので、名護市内のホテルに向かい、明日また訪ねることにした。すでに沖縄各地でのプロ野球キャンプ入りが始まり、このホテルにも、間もなく、日ハムの一同がやって来るそうだ。近くの名護球場は、もっぱら夜間練習などで使用するとのことだった。

翌日の愛楽園再訪で、交流会館内の資料室をゆっくり見学することができた。資料室は一昨年オープンしたばかりであるが、時系列での展示とテーマごとの展示もあって、多くを教えられた。

u4           とたん屋根が暑い、かまぼこ型の居室
u5                                       澄井出小中学校の年表、1951年開校、1981年閉校の歴史

また、皇室とハンセン病については、片野真佐子『皇后の近代』(2003年)原武史『皇后考』(2015年、いずれも講談社)に詳しいが、その皇室とハンセン病との関係は、戦前の救ライ事業における、貞明皇后の短歌「つれづれの友となりても慰めよ ゆくことかたきわれにかはりて」と療養所への下賜金が、象徴的に表しているような皇室による「慈悲の心」が、強制隔離や差別を助長したとされる。らい予防法は、1996年に廃止されたが、小泉純一郎内閣時、国家賠償裁判で、2001年の熊本地裁の病者差別違憲判決を受けて政府は謝罪した。2005年には「検証会議最終報告書」が出され、そこにおいても、皇室とのかかわりによって「隔離強化という国策を支持する世論を喚起したのである」と結論づけている。資料室の展示パネルにも、そうした事実が明確にされていた。

u6u7                                                    復帰1972年を経て1974年再建されたという

ところで、昨夕、探すことができなかった「青木恵哉頌徳碑」、強制断種や堕胎によって葬られた子どもたちの「声なき子供たちの碑」、愛楽園で亡くなった人々の慰霊碑に手を合わせることができた。今でこそ、屋我地島と本島には橋が架かり、これらの慰霊碑は、リゾート地として名高い古宇利島との長い橋も望める地となった。私は、波打ち際に出て、思わず白い砂を掬い、小さな貝殻を拾って小さな箱に収めたのであった。u8           小島の間に見えるのが古宇利島

u3                              青木恵哉頌徳碑

初出:「内野光子のブログ」2017.02.14より許可を得て転載

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〔culture0409:170214〕