なぜ、参加したのか
当日資料の表紙
これまでの沖縄紀行記事と時系列的には前後するが、2月5日(日)に那覇市で開催されるシンポジウム「時代の危機に立ち上がる沖縄の短歌」に参加するのが、今回の沖縄行きの目的の一つであった。これまでの沖縄行きに引き続き、戦跡を訪ね、基地反対の現場を訪ねることがもう一つの目的で、計画を立てた夫は、最後まで調整にあわただしかった。シンポの時間帯はもちろん別行動としたが、辺野古・高江行きは、今回断念せざるを得ず、(1)~(7)の記事の通りの成り行きとなった。
沖縄愛楽園から那覇市のシンポ会場まで車をお願いすることにした。計画では、名護からは高速バスと思っていたところ、愛楽園から乗った車の運転手は、「ご提案なんですが」と、高速バスの二人分の料金に1000円上乗せすれば那覇に直行できますよ、とのこと。上記シンポの会場となっている青年会館までお願いすることになった。高速を乗ったり降りたり、路線バス状況だったりの行きとは違って、いくつかのトンネルをぬけて、渋滞もなく、運転手さんの話を聞きながらのドライブで、予定より早く会場に着き、正解だった。
今回のシンポに出かけることになったのは、本ブログでも紹介した『うた新聞』紙上の吉川宏志さんと私の論争?なるもので、吉川さんが「京都と東京で開かれたシンポに参加もしないで、不確かな伝聞で批評するのは、けしからん」というところから端を発し、私の他の文章の批判にも及んだ件があったからである。この件について、吉川さんの文章自体は、ブログへの再掲はできないが、私の反論は、再掲しているので参考にしてほしい。
ここで、あらためて、言っておきたいのは「不確かな伝聞云々」は、明らかに間違いで、私は、シンポ開催当事者のレポートと、参加者の氏名明記のブログ記事、同人誌の文章を、出典明示の上で、引用していたのである。それを「不確かな伝聞」とすることが、理解できないでいる。直接体験がなければ批評できない、ということになれば、歴史研究など成立しないことになりはしまいか。資料や史料の読解・分析がカギであろう。そんな経緯があって、京都、東京に続く、沖縄でのシンポであったのである。会場は、たしかに遠いが、沖縄の歌人の何人からか、お誘いも受けていたので、参加した次第。
何が語られたか
始まる前に、沖縄側のコーディネーターの屋良健一郎さん、事前に私信や資料のやり取りもあったので、まず挨拶を。本土側の吉川さんにも挨拶、少しびっくりした様子で「おっ、ほッほッほ、どうも」ということだった。(以下敬称略)
鼎談「沖縄返還から現在まで」、左から名嘉真、永田、三枝の各氏
比嘉美智子の開会のあいさつに始まり、鼎談は、三枝昂之、永田和宏と沖縄在住の名嘉真恵美子の3人によるものであった。進行は三枝で、永田の最初の発言は「今日の会は政治集会ではないので、短歌の表現を問題にしたい」というもので、「沖縄に基地が集中していることへの思いや考えはある。しかし、そのまま短歌にすると空々しくなるので、自己相対化が必要」とする。三枝は、遠く離れた沖縄は日本なのか、本土ともいえない戸惑いを感じる、とする。また、名嘉真からは、沖縄の短歌を本土のモノサシで批判する傾向にある、とする。
このあたりのことを、『琉球新報』は、翌日の記事で、鼎談では「<沖縄>を詠む際の後ろめたさ戸惑いのようなものを含めて話し合われた」(「沖縄の表現模索 県内外の歌人集い討論」『琉球新報』2017年2月6日)と報じ、後の2月23日の記事では、3人の作品を通して「沖縄を詠うときの逡巡。<沖縄は日本か><日本はこれでいいのか>。他者そして自身に問いながら、答えの出ないもどかしさが見える」と報じた(「時代の危機に立ち上がる短歌 沖縄で問う<歌の力>歌人ら向き合い方議論」『琉球新報』)。
しかし、私が聞いていた限りでは、やや印象が異なっていた。永田は、自作の「どうしても沖縄は私に詠へない詠へない私を詠ふほかなく」(『現代短歌』2017年2月)などを引いて、時代の危機に際して、短歌は政治の言葉ではないので、安易に意見を言ってはならない歯止めが必要であることを強調していた。三枝も、自作「自決命令はなかったであろうさりながら母の耳には届いたであろう」(『それぞれの桜』2016年)とこの作品と対になっている、資料には出ていない「自決命令はあったであろう母たちは慶良間の谷で聞いたであろう」などを前提に、自決命令の有無については、簡単には結論が出ないとしての両論を踏まえるもどかしさを語っていた。
鼎談後の沖縄県内外の10人の歌人たちのスピーチで、一番バッターの玉城洋子は、上記の鼎談を受けて「沖縄の短歌はどこへ行く、辺野古の海は、沖縄人のアイデンティティ」の思いを語った。私も、永田と三枝の逡巡と用心深さは、何に由来するのかを考えていた。自らの未知や無知について、謙虚で、慎重になることは大切なことだが、ためらい、戸惑い、自らの思いをストレートに語ることをしないうちに、現実は待ったなしで、進んでしまうのではないか、の疑問がもたげた。この「逡巡」は、現実逃避にも連なる気がした。同じような趣旨の質問が会場からも提出されたような報告があったが、質問の詳細も回答もなかった。
後半の「沖縄の現在・未来の社会詠」には、中堅の大口玲子、光森裕樹、屋良、吉川の4人が登壇した。とくに、気になったのは、屋良が「言挙げしない/できない人々」の声として、米軍基地で働く人や高校生らの短歌への目配りの必要を説いたことだった。声をあげない人々といえば、いまだに真実を語れない、地上戦や集団自決で肉親を失った人々、土地を強制収用で家も失った人々、投降した兵士や強制隔離を余儀なくされたハンセン病の人々が、いまだにその体験を口にできない苦しさや事情を持ち、語り継ごうとすると様々な圧力・妨害と直面しなければならない実態、声なき声をも忘れてはならないはずである。
「沖縄の現在・未来の社会詠」左より大口、光森、屋良、吉川の各氏
私のわずかな沖縄体験ながら、伊江島、屋我地島、渡嘉敷島の人々の記録や証言に接し、また、中南部の戦跡をめぐるだけでも、その地の声、風の声の衝撃は、身を突き刺すほどであった。
午後1時から5時過ぎまで、鼎談やスピーチ、ディスカッションと盛りだくさんな集会ではあった。せっかくの機会なので、登壇者の発言を材料に会場との質疑や討論の時間を取ってほしかった。登壇者を絞っても、多くの沖縄の人たちの声を聞きたかった。それが心残りであった。
なお、今回のシンポに先立って、その前日に、辺野古へのツアーが企画され、現地の公民館で、条件付き基地建設容認の住民の人の話を聞いたとのこと、本土からの登壇者の言及もあった。企画者からは、本土の歌人たちの基地建設へのバイアスを解きたい、という趣旨だったとの発言もあった。それこそ「参加しなかった」私の感想ながら、その意図がわかりにくかった。
ただ、私は、今回配られた資料から、沖縄の若い歌人たちの短歌の一端を知ることができた。最近、総合短歌誌も、沖縄の歌人への注目度が高くなったことは、評価したい。ただ、沖縄歌人の一部に、中央歌壇、中央著名歌人たちへの傾斜志向が見られることには、やや違和感を覚えるのだ。
会の終了後、これまで、直前に手紙のやり取りがあった平山良明さんはじめ何人かにお目にかかれたのがうれしかった。
このシンポのレポートはいずれ、短歌雑誌をにぎわすことになるだろう。現在まで、私が読むことができたのは、上記の『琉球新報』の記事と『沖縄タイムス』の「シンポ<時代の危機に立ち上がる短歌>に寄せて 基地への抵抗 言葉で」(吉川宏志 2017年1月30日)、「短歌時評 沖縄をどう詠むか」(松村由利子『朝日新聞』2017年2月20日)、「スピーチ原稿載録」(玉城洋子『くれない』2017年2月)。
初出;「内野光子のブログ」2017.03.02より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/03/post-97df.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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