初めてオンライン会合に ─「大風呂敷」を広げた私の発表─

《初めてオンライン会議に参加》

 2021年10月下旬に私は、初めてオンライン会議に参加した。
 会議の中身は、元の勤務先同僚との少しは知的なダベリ会である。参加者は数名だが、初参加の私が発表者だった。
 「近代150年の日本資本主義を総括する」大風呂敷なテーマで私は話をした。総選挙の争点が、短期かつ矮小なことへの、批判のつもりであった。たまたま私が読んでいた『日本の現代』(鹿野政直著、岩波ジュニア新書、2000年刊)が同じテーマを、近代史家の視点で、取り上げていたのが良い資料になった。

 鹿野は、日本近代150年を三運に区分して総括している。
 「鹿野総括」に対して、三区分の各期間に関して、私(半澤)は自説に基づく「日本資本主義の」特長を「説明」した。本稿はその会合で半澤が使用した資料の再現である。

《鹿野総括プラス半澤説明》
 それは次のように展開した。
 鹿野総括 (1)19世紀後半 日本は近代国家を樹立した(アジアで唯一植民地化せ
         ず)。
 半澤説明  19世紀後半 日本資本主義の特徴
    A 日本は農業国であった。
←本稿末尾の別表①参照
    B 「脱亜入欧」と「帝国主義」
 立憲国家として発足した日本は、「脱亜入欧」、「帝国主義」を国是とした。自由民権運動は、国権(ナショナリズム)運動に絡めとられ、官憲の弾圧に屈して伏流化した。
鹿野   (2)20世紀前半 日本は、軍事大国を実現したが、帝国主義戦争に敗北して
       壊滅した。
半澤 A 戦争は儲かるものという認識

 列強に仲間入りした日本は、日清戦争(1894~1895)勝利による巨額賠償金獲得と第一次大戦期の貿易黒字により、対外債権国となり「戦争は儲かるもの」という認識をもつに至った。
    B NYの株価暴落に発する「1929年大恐慌」←別表②参照
 資本主義諸国は、公共投資と軍備増強の有効需要創出により、不況からの脱出を図ったが、状況は長期化して、第二次大戦の開戦につながった。
    C 日本型ファシズムの成立
 不況対策は、ザックリいうと民需拡大の主要欧米諸国と軍需軍拡の日独伊とに分かれた(連合国と枢軸国)。日本は、軍部によるテロ、クーデタ未遂を経て、統制的軍事国家となった。併せて言論圧迫による「神国日本」という偏狭な国産イデオロギーが民主主義・自由主義を沈黙させた。

鹿野   (3)20世紀後半 敗戦国日本は、経済大国を実現した。
半澤  A 時代背景の変貌

 時代は東西冷戦・米ドルの打ち立てた世界・産業資本から金融資本の時代へと変貌した。冷戦は社会主義陣営の崩壊に終わったが、資本主義の勝利を意味したものでもなかった。
    B 新自由主義の登場
 第二次大戦が生んだ「福祉国家」は、資本コスト増加によるスタグフレー ションをもたらした。資本主義諸国は「大きな政府から小さな政府へ」と カジを切った(新自由主義)。この「市場原理主義」採用に遅れた日本は、「失われた30年」という日本近代最長の不況を体験している。鹿野の「経済大国」認識は満点だとはいえないであろう。
半澤   (4)21世紀前半に関する日本資本主義の核心はなにか
 鹿野は21世紀前半に言及していない。多くの識者の現状分析・予想は混沌としており、半澤コメントは下記のような「問題提起」にとどまらざるを得ない。
    A 「世界経済」 新自由主義は軌道修正できるか。 
 米中二大国は基本的に新自由主義を踏襲している。人間の欲望に根ざしたこのイデオロギーのしぶとさをどう評価しどう対応していくか。
    B 「国際政治」 東アジアの国際緊張のゆくえは。 
東アジアの軍事緊張が増大している。「日米同盟」深化は、対米従属と集団的自衛権行使(同盟国への敵攻撃に米軍指揮下に、自衛隊が支援戦闘)を現実にしつつある。だが国民にはその認識も危機感もない。
    C 「国内政経」 野党はなぜ自公政権を倒せないのか 
 民主主義の失敗─ファシズム化─は克服できるだろうか。安倍政治以後の「負の遺産」は戦後最悪の政治状況だが、国民は総じてアナーキーで 冷笑主義的な心情に沈潜している。

《オンライン会合参加者はどう反応したか》
 私の発言は近代日本史の「おさらい」と受け取られ、問題提起は大きすぎて 現実的でないと認識されたようである。時間制限もあり議論は少ないうちに会合は終わった。
 次回11月22日は「米中関係」、「対中政策」を議論することになった。
 中国の対外強硬姿勢に対して、メンバー諸氏に大きな対中反発があり、私を含む少数のハト派は旗色が悪くなりそうだ。「蟷螂の斧」は降ろさないつもりであるが。

別表① 19世紀後半 日本の産業別人口構成比

        第一次産業  第二次産業  第三次産業
1887(明冶20)年  72%  13%    15%
参考1936=昭11 45   24      31 
参考1971=昭46 16   35 48 
  
1887年の第二次産業の比率が低くみえるが、政府は国営事業の企業化・民間への払下げに注力した。その内実は軍需産業とインフラ構築であった。即ち第二次産業の主内容は軍需関連である。

別表② 20世紀前半 大恐慌前後の経済指標の変化                           
                 (1929=100)
数字単位は%。()内の数字は西暦年の下二桁を示す。

■卸売物価    日本69.6(31) 米国68.0(32)
          同 92.5 (35)  同 83.9(35)
■鉱工業生産   日本91.6(31) 米国53.8(32)
           同141.8 (35) 同 75.6(35)
■輸出金額    日本37. (32)  米国24.8(33)              
         同 57.2 (35)  同 26.4(35)
■輸入金額    日本38.2 (33) 米国 24.1(35)
       同 52.5 (34)  同 32.7(35)

 勿論、上記以外に多様な指標がある。
 大恐慌における不景気の日米比較を一筆書きで表現すれば、物価は日米とも30%の下落、鉱工業生産は日本で10%、アメリカで60%の低下を示した。世界貿易金額は34年に65%の低下をみた。この「不景気」が数年間続いた。21世紀前半の生存者には想像力を駆使しても実感しにくい数字といえよう。
(2021/11/05)

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion11477:211112〕