10月27日、三笠宮が亡くなった。もうすぐ葬儀が始まる。
没後、メディアはこの人の人生について相当量の情報を提供した。準備があったということだ。色川大吉や中根千枝らと親しい間柄とは知らなかった。宮地正人や樋口陽一らと座談会も行っているという。
新聞論調は、挙げて「リベラルで飾らぬ人柄」を偲ぶという内容。「戦争への反省を貫いた皇族」「皇族でありながら紀元節復活に反対した理性の人」という描き方。
三笠宮個人史にさしたる関心はないが、「リベラルな皇族」というメディアの描き方が国民意識に及ぼす影響には大いに関心をもたざるを得ない。ことは、象徴天皇制をどう構想し、現在の皇室のあり方をどう評価するかに関わる問題なのだから。
10月28日東京新聞の社説がひとつの典型であろう。
故人を「国民に親しみやすくも、信念の人だったに違いない。」と言っておいて、こう続ける。
「天皇や皇族のお立場をひと言で言い表すのは難しい。しかし、戦後の皇室の在り方を振り返ると、国民とともに歩み、国民に寄り添う存在であってほしいというのが国民の願いであり、皇室自身も目指してきた姿ではなかろうか。
つい先ごろ、天皇陛下が生前退位を望まれ、ビデオメッセージで静かに、また力強く、その胸中と意思を述べられたのは記憶に鮮やかであり、陛下の人間としての魅力と存在感に、聞く者は深く胸打たれもした。」
「三笠宮さまの率直な発言や親しみにあふれた行動を振り返る時、そこに皇室・皇族のひとつの理想像を思い浮かべてもいい。」
東京新聞のリベラルってこんなものだったのか。心底落胆するほかはない。
「陛下の人間としての魅力と存在感に、聞く者は深く胸打たれもした。」などという気恥ずかしい文章は、ジャーナリストの筆になるものとは思えない。「陛下」とは、どこかの「教祖」か「敬愛する将軍様」並みの扱いではないか。形を変えた、臣民根性丸出しというほかはない。三笠宮個人の好感度が、天皇制支持への国民意識の動員に、最大限利用されているのだ。
三笠宮の好感度の根拠となる生前語録は各紙が紹介している。たとえば…。
戦時中に支那派遣軍総司令部で行った彼の講話の原稿「支那事変に対する日本人としての内省」が残されているという。「中国の抗戦長期化の原因に挙げられているのは、日本人の『侵略搾取思想』や『侮華(ぶか)思想』であり、また抗日宣伝を裏付けるような『日本軍の暴虐行為』などなどだった。後に司令部はこの印刷原稿を『危険文書』とみなし、没収・廃棄処分にしたといわれる」(毎日・余録)
「帝王と墓と民衆」という著書中の「わが思い出の記」に以下の印象的な一文があるそうだ。
「(敗戦、戦争裁判という)悲劇のさなかに、かえってわたくしは、それまでの不自然きわまる皇室制度――もしも率直に言わしていただけるなら、『格子なき牢獄』―から解放されたのである」(朝日)
皇族が、皇室制度を「不自然きわまる」とし、「格子なき牢獄」とまで言ったのだ。もっとも、これは戦前の制度に関してのことだが、戦後「不自然きわまる格子なき牢獄」は本当になくなったか。囚人は解放されたのだろうか。
「昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史を信じた人たちは、また勝算なき戦争を始めた人たちでもあったのである」(「紀元節についての私の信念」文芸春秋59年1月号)
これも、朝日が紹介している。「架空な歴史を信じた人たちは、また勝算なき戦争を始めた人たちでもあった」というのは、この人が言えばこその重みがある。
制度と人とは分かちがたく結びつき、人の評価が制度を美化し、制度の肯定評価に重なるおそれを払拭しがたい。伝えられる限りでは、個人としての三笠宮の好感度は皇族の中では抜群のものだろうが、それだけに、これを天皇制の肯定評価に結びつけようという動きにこそ警戒しなければならないと思う。
(2016年11月2日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2016.11.02より許可を得て転載
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