前衛俳句の金子兜太さん逝く - 平和への執念は極限の戦争体験から -

 「ここに人間あり」。人間として極めて存在感ある人だった。2月20日に98歳で亡くなった、俳人の金子兜太さんである。その印象を一言でいえば、豪放、磊落、骨太にして反骨、飾り気のない自由人ということになろうか。「前衛俳句の旗手」とか「反戦平和に執念を燃やす俳人」と言われたが、98年に及ぶ生涯の原点は、西太平洋のトラック島における戦争体験だった。

 金子さんに初めて会ったのは、1982年11月25日である。当時、私は朝日新聞社会部記者で、取材のために金子さんにインタビューを申し込んだのだった。
 当時、朝日新聞は夕刊で『新人国記』を連載中だった。全国1道1都2府43県の著名人を、その人たちを生んだ風土と歴史をからめながら紹介する企画で、私は岩手県と埼玉県を担当した。
 埼玉県では約50人をリストアップしてインタビューを試みたが、その1人が金子さんだった。当時も熊谷市に住んでおられたが、取材を申し込むと浦和まで出てきてくれた。喫茶店で話を聞いた。
 
 当時、63歳。小柄だが図太い体躯から吐きだされる言葉は実に力強く、私はすっかりその虜になってしまった。「よし、決めた」。私は、『新人国記』埼玉県編の第1回でこの人を取り上げることにした。
 『新人国記』埼玉県編は1983年4月26日から始まった。そこで、私はこう書いた。

 「秩父。県の西方に連なる奥深い山地である。切れの深い山々に囲まれたわずかな平地は日射量が少なく、寒さが厳しく、地味も薄い。こうした風土が、素朴だが気性が激しく、根性があって忍耐強い人びとをはぐくむ」
 「そんな秩父人の典型が、熊谷市在住の俳人金子兜太(六三)だ。中秩父・皆野町の開業医で俳人、それに秩父音頭の生みの親でもあった伊昔紅の長男に生まれ、東大を出て、昭和十八年、日銀に入る。だが、すぐ軍隊にとられ、トラック島に赴任。九死に一生を得て日銀に復職するが、多くの戦友の死をまのあたりに見た衝撃から、『死者に報いるには、反戦平和のために生きることだ』と、従業員組合の運動に身を投じ、初代書記長となる」
 「エリートコースを外され、地方にとばされる。地方勤務十年。その中で、秩父人としての反骨が頭をもたげる。『日銀がオレを認めないなら、オレの方から見切りをつけてやる。これからは、日銀を食いものにしてやるぞ』。日銀での栄達をあきらめ、旧制高校時代から趣味でやっていた俳句に生きようと決意する。
   朝はじまる海へ突込む鴎の死
 昭和三十一年、神戸支店にいた時の句だが、カモメの死と回生に託して、自らの新たな門出への決意を詠んだものだ。それまでの俳句が専ら花鳥風月を詠んでいたのに対し、金子は社会を、人間をうたった。季語なんか、無視した。いわば、俳句に現実感や社会性を盛り込もうとしたのである。句界からの反発は強く、『ゲテモノ』『異端』の声。しかし、やがて『前衛俳句の旗手』と呼ばれるようになる」
 「日銀の方は四十九年に定年退職。その時のポストは証券局主査。いわゆる金庫番で、金子によれば『カスみたようなもの』。現在、俳誌『海程』の代表、現代俳句協会副会長」
 
 つまり、トラック島での体験が、金子さんにとって人生の転機となったのだった。
 
 金子さんの著書『二度生きる』(チクマ秀版社、1994年刊)によると、徴兵された金子さんは1944年3月、トラック島の海軍基地(第四海軍施設部)に主計中尉として着任した。そこは要塞構築部隊だったが、金子さんの仕事は金銭に関することと、食糧の調達と管理だった。
 この年6月にサイパンが陥落すると、のべつまくなしに米軍機が飛来し、爆撃と銃撃を繰り返すようになり、戦死者が続出。日本本国からの食糧補給も完全に絶たれ、食べるものがなくなって餓死者が続出した。こうして、敗戦までに、トラック島にいた日本人(軍人と工員が大半)4万人のうち3分の1が亡くなった。

 敗戦から1年3か月後、本国から迎えに来た駆逐艦で生き残った戦友とともに島を離れ、帰国の途につく。その時、戦没者を弔うために建てた墓碑が見えた。墓碑は、戦友たちを最後の一瞬まで見送ろうとしているかのように見えた。
 その時、金子さんの心につのってきたのは、部下たちを死なせたことへの責任感だった。「その光景を駆逐艦の甲板上から眺めながら、私は自分にはっきりと誓っていました。これまで私は人のために何もしてこなかった、この先私は頑張ろう、死んだ人たちのために頑張ろう、そうすることで彼らの死に報いよう、そう肚をくくっていたのです。
   水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る 
 その時作った句です」
 「世のため人のために頑張らなければだめだという気持ちに目ざめさせられたのです。戦争はよくない、平和が大事だ、反戦平和にこれからの私の生き方をかけよう、その結果自分の首をはねられようとどうしようと知ったことではない、どうせ私はとっくに死んでいるのだから今で言えば、『格好いい』と言うことになるのでしょうが、本気でその時私ははっきりと腹を固めました」
 「トラック島は私にとって、戦後の歩みの原点です。……組合活動に身を投じたのも、後に俳句専念を決意したのも、元を辿ればすべてここに集約されます」(『二度生きる』)

 その後、金子さんは:現代俳句協会会長、日本芸術院会員などを歴任、2008年からは文化功労者。そのかたわら、平和問題で発言を続けるが、多くの人びとに強烈な印象を与えたのは、安保関連法反対運動での金子さんの行動だろう。
 安倍政権は2014年7月、自衛隊が他国の軍隊といっしょに戦えるようにするために憲法9条の解釈を変えて集団的自衛権行使容認を閣議決定し、それを法制化した安保関連法案を15年に国会へ提出した。これに反対する多くの人たちが国会周辺につめかけたが、その人たちが掲げるプラカードには「アベ政治を許さない」の文字が躍っていた。これは、作家・沢地久枝さんの求めに応じて金子さんが揮毫したもので、安保関連法反対運動のシンボルとなった。
 金子さんとしては、「今こそ、平和のために声をあげなくては」という危機感の発露であったのだろう。

 金子さんに最後にお目にかかったのは、2015年12月12日である。私が関わっている市民団体・平和・協同ジャーナリスト基金がこの日、第21回平和・協同ジャーナリスト基金賞贈呈式を東京の日本記者クラブで行い、基金賞(大賞)を、中日新聞、東京新聞など中日新聞グループで連載中だった『平和の俳句』に贈呈したことから、選者の1人の金子さんが会場に駆けつけてこられたのだ。
 その時、「今朝、野坂昭如君が死んだ。彼は時々、『また変なものが地上にふわふわふわふわしておる』と言っとった。そのような時勢が生まれつつあるのではないかと思い、まだあと何年も生きるつもりでおりますから、その間頑張っていきたい」とあいさつされたことを鮮やかに思い出す。
 金子さんはまた、平和・協同ジャーナリスト基金への支援者だった。

 金子さんのモットーは「捨身飼虎(しゃしんしこ)」。自分を捨てて、人のために生きる、という意味という。どこまでも他人に優しく、他人を思いやる人だった。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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