1 劉暁波問題と日本のメディア
劉暁波の名を私は早くから知っていたわけではない。二〇〇八年一二月九日のいわゆる「08憲章」公表の報道のなかで私は彼を知ったのである。いま私は「報道」といったが、それはマス・メディアの報道によるのではない。たしかに私が「08憲章」を知ったのは、NHKのテレビ・ニュースによってであった。だがその詳細を知ろうとその後のテレビや新聞の報道を追いかけたが、それは無駄であった。テレビや新聞のどこにもその詳報はなかった。私はやむなく日本に滞在する中国の友人たちにメールで訊ねた。すぐに劉燕子さんから事件の推移とともに、ネット上で「08憲章」を含む多くの情報を見うることを教えられた。こうして「08憲章」の日本語訳とともに、その起草にかかわった劉暁波が前日の八日にすでに拘留されたという事実をも知ったのである。私が劉暁波の名を知ったのはこうしてである。
しかし劉暁波とは誰なのか。私はふたたびネット上に彼を尋ねていった。それに答えてくれたのが集広舎のサイトに載る及川淳子さんのすぐれた記事であった。それは「中国知識人群像」の第一回として劉暁波をとりあげたものであった。それによって劉暁波という人物の輪郭をやっと私はとらえることができたのである。ところで劉暁波を知るにいたった経緯をこのように書くのは、これがしかるべき人物や事件を私が知るにいたる今までの経緯とは異なるからである。私は既存のメディアによってではなく、インターネットやウェブサイトによって「08憲章」や劉暁波を知ったのである。私はそのようにして知りえた情報を、今度は自分のウェブサイトを通して伝えていった。
中国における一党支配的政治体制の民主的変革を求める「08憲章」はネット上に発表され、その支持署名もまた同じくネット上で集められていった。当局による規制、削除という干渉にもかかわらず、実名による支持署名はふえ続けていったのである。これは新聞・放送などマス・メディアによる情報が官許の体制的情報としてのみある中国社会にあって、体制批判的な言論がみずからの権利としてとる運動の形態である。劉暁波が中国の未来は民間にありというとき、もっとも有力な民間的力として考えられているのもインターネットによる民間の自立的な声の連帯であり、批判的民意の形成である。しかし私がいま問題にするのは国家による言論的統制のない日本における情報伝達のあり方である。「08憲章」と劉暁波とは日本のマス・メディアの、反中国的なネガティブ・キャンペーンを張り続けている一部の報道機関を除いて、積極的な報道的関心のなかにはなかったといっていい。ノーベル平和賞授賞の以前、マス・メディアの報道の中に劉暁波の名を見出しえたのは、注意深い追跡者だけであったであろう。私は劉暁波についても、「08憲章」についてもインターネットによって情報を集めざるをえなかったのである。
このことは自由な言論報道の権利をもつはずの日本の既成の報道機関における報道のあり方を考えさせた。私は現代中国の政治問題をめぐる報道には〈自主規制〉があるのではないかと、さきの「天安門事件と08憲章を考える」緊急集会で発言した。その集会に参加していた『朝日新聞』の記者は、社内にそのような規制はないと答えた。〈自主規制〉というべきような規制はないというのは、その記者のいう通りかもしれない。だがその報道のあり方が直ちに日中国家間の緊張なり、反日デモを招きかねない中国問題について、高度の配慮をもって報道がなされていると考えるのは当然だろう。私はこの配慮によって「08憲章」と劉暁波の問題についての報道は抑制されていたと考えるのである。この抑制は大きなメディアでなされただけではない。戦後日本の革新派の言説をリードしてきた総合誌『世界』でもなされてきた抑制である。だがそこでなされているのは対外的配慮からくる抑制というよりは、むしろイデオロギー的な意味をもった無視ではないかと思われる。この抑制あるいは無視は、日本の戦後革新派とみなされてきた中国研究者たちにおける劉暁波問題に対する反感的沈黙と深く関連する。劉暁波問題は、日本の中国研究者における現代中国認識そのものの批判的再検討の問題をも提起するのである。
劉暁波のノーベル平和賞の受賞は、このマス・メディアにおける報道の抑制を一気に取り払ったかのように見える。たしかにノーベル賞の授賞は大きな意味をもった。この授賞を否定し、批判し、劉暁波の家族をはじめ関係者をも拘留し、隔離し、国民に対して授賞の事実を隠蔽するだけではなく、対外的にも圧力をかけてこの問題の湮滅をはかる中国政府の異常を世界中に知らしめたのである。そして多くの人びとに、この異常な中国政府の対応の背後にある中国の国家と社会の事態とは何かを考えさせていったのである。たしかに一部の報道機関は中国社会内部に生じつつある変動を報じ始めている。だが、気を付けねばならない。すでに多くの識者がいうように、ノーベル賞授賞はさし当たって中国政府に国内の言論統制をいっそう強めさせるだろうし、この問題についての対外的な圧力をも強めさせるだろう。そして中国からの圧力にきわめて敏感な日本が、劉暁波も、「08憲章」もどこかに置き忘れてしまうのも時間の問題かもしれないのだ。
劉暁波や「08憲章」の報道が抑制されていた時期に、われわれは『天安門事件から「08憲章」へ』(藤原書店、二〇〇九年)を刊行した。では上に記したようなノーベル賞授賞以後のこの時期に、劉暁波のために昨年あの書を刊行したわれわれに課せられていることとは何か。それは劉暁波をわれわれ自身の問題としていくことである。われわれ自身の問題とは、既成のマス・メディアの一時的流行の話題や商業主義的な出版企画としてではなく、われわれ民間の自立的市民の問題としていくことである。未来の希望は民間にあるとは劉暁波がわれわれに向けて発している大事なメッセージではないか。それは中国の未来の希望をいうだけではない。日本の未来の希望をもいうのである。
2 「文革」あるいは高行健と劉暁波
劉暁波がノーベル平和賞を受賞した一〇月八日に先立つ時期、九月二六日から国際ペンクラブ東京大会が開かれた。昨年末、北京の人民法院が劉暁波に一一年の実刑判決を言い渡した時、日本でいち早く「即時釈放を求める」声明を出したのは日本ペンクラブであった。私は早稲田の集会でこの声明は、「この問題に対してほとんど反応することのない日本の言論人からの抗議として貴重であるといえます。だがこの抗議声明が国際ペンクラブの要請によるものであったのか、それとも日本ペンクラブの自主的な行動としての声明であったのか、私には分かりません」といった。やはりあの日本ペンクラブの声明は自主的なものではなかった。劉暁波のための会を東京大会のプログラムに組み入れることを日本ペンクラブは拒んだのである。その結果、「劉暁波はなにをしたか─中国の獄中作家について考える夕べ」(独立中文ペンクラブ、アムネスティ・インターナショナル日本共催)は国際ペンクラブ東京大会の公式プログラム外の催しとして開会前夜、早稲田奉仕園で開かれたのである。この催しには一八ヶ国の作家たちが参加したが、日本の作家は一人も出席しなかったという。しかしここで私が国際ペンクラブ東京大会をめぐって書き始めたのは、いまさらながら日本作家たちの政治的痴呆を嘆くためではない。この東京大会の講演者として来日したノーベル賞作家高行健に触れるためである。
二〇〇〇年にノーベル文学賞を受賞した高行健についても私はさして関心をもつということはなかった。受賞のニュース以上に彼を知ることもなかった。一〇月七日の『朝日新聞』に掲載された大きなインタビュー記事によって、私はあらためてその存在に気づかされた。そこでは、「中国の民主化運動が武力で制圧された天安門事件から二一年。今も故国を遠く離れ、世界各地で亡命の道を歩む」作家・芸術家たちの一人として高行健は紹介されていた。しかし劉暁波の受賞を間近にしたこの時期に私が高行健を知るというのは奇縁というよりは、むしろ何か運命的な必然性を感じた。私は劉暁波の受賞後、すぐに高行健の「文革」体験を基底にした自伝的小説『ある男の聖書』を読んでいったのである。それは重い小説であった。亡命とは「文革」を辛うじて生き延びえた彼の姿であった。「私の職場でも十数人が飛び降り自殺しました」と高行健はあのインタビュー記事でも語っていた。
「おまえがさがし求めていた正義は、その男自身なのだ。おまえはその男のために殺し合い、その男のスローガンを叫ぶことを余儀なくされた。・・・おまえは改造され、記憶を拭い去り、頭脳を喪失して、その男の信徒となった。信じられないことを信じ、男の手先、男の走狗となった。その男のために犠牲となり、用済みとなれば男の祭壇に置かれ、男の副葬品として焼かれてしまう。」(『ある男の聖書』二〇章)
これが「文革」であった。だが高行健がえがく「文革」という神聖的権力とテロと大衆動員など全体主義的政治運動の特性をすべて備えた動乱の体験を、われわれもそれぞれの歴史的体験の中にもたなかっただろうか。それは天皇制的全体主義とも、スターリン主義的全体主義とも重なるものではないのか。私は『ある男の聖書』を読みながら、「文革」とは二〇世紀全体主義の最後の、そしてもっとも凄惨な形での発現ではなかったかと思った。「文革」を全体主義的政治動乱と見ることは、それを中国的特殊性をもちながら、同時に二〇世紀現代史における一つの全体主義的動乱として、それぞれの全体主義的歴史体験をふまえて見ることを可能にするだろう。「文革」こそが、全体主義的中国の根本的な政治変革、すなわち民主化を要請する民族的悲惨の歴史的体験であった。
一九四〇年生まれの高行健は六六年に始まる文化大革命を二十代の全過程で体験したことになる。一方一九五五年生まれの劉暁波は十代で文化大革命を体験するのである。彼は文革時に小紅兵として活躍したという。だが二十代でこれを体験するか、十代で体験するかによって、「文革」が彼らに残した意味はまったく違ってくる。高行健にとって「文革」とは自らの記憶を葬り、己れの頭脳を捨て去って辛うじて保ちえた生であったであろう。それが亡命作家としての高行健の現在である。だが十代の劉暁波にとって「文革」とは、彼らの眼前に展開された高行健ら知識人あるいは知識青年たちの欺瞞と迎合と逃亡の惨めな転向劇であったかもしれないのだ。
3 中国知識人批判
「文革」後の劉暁波の批判は、あの暴政を許した中国社会の〈弱者〉にほかならなかった知識人に向けられた。〈弱者〉とは権力者に屈服し、その専制を許す土壌となり、支配のために懐柔され、手足として使われるドレイでもある。劉暁波は中国の民衆を弱者というが、それは生活的弱者としていうのではない。権力への抵抗力も、抵抗する意志をももたないドレイ性をもって弱者というのである。魯迅は中国のドレイ的民衆に対して「その不幸を悲しみ、その争わざるを怒る」といった。劉暁波は現代中国において民衆の「不幸を悲しむ」よりは、「その争わざるを怒る」意義の方がはるかに大きいという。彼は「軟弱にして愚昧な中国の民衆」という言い方をする。「文革」後の劉暁波を支配しているのはニーチェ的な強者・弱者の言語である。だがこの強者・弱者の言語とは、中国における専制的支配の歴史全体に向けられた怒りの言語でもある。「とりわけ中国においては、弱者が多いことで専制主義が勝手放題をする絶好の土壌となっている。まさに人びとのあまりの軟弱さこそが、専制、暴政を強大ならしめたのである。軟弱は中国の専制主義をかくも放縦専横にした重要な原因のひとつである」と劉暁波はいうのである。
毛沢東に煽動された民衆的造反としての「文革」は、知識人をその系譜的由来に遡って否定していった。劉暁波は毛沢東の人民主義的革命のイデオロギーを定式化してこういっている。「無知を栄誉とし、無知を革命の前提条件とし、知識があることが恥であって反革命の前提条件であるとするなら、必然的に法律と道徳がいかなるものかをまったく理解しない無知の民衆の造反の熱情を煽動し、人類の知識と文化にたいする彼らの狂気じみた仇恨を煽動することになる」と。たしかに「文革」はそのように遂行された。専制的権威とそれに煽動された造反的民衆との間にあって知識人は自らを否定し、壊体させていったのである。一〇年の内乱という「文革」が終わったとき、自らを壊体させた知識人は今度は受難者として復権していった。だが復権していった知識人たちは、専制的権力に屈服し、迎合し、あるいは逃避した己れをどう考えたのか。
「彼らは中国の知識人と専制主義制度との関係を厳粛に考察しなかった。まして自分の軟弱さと愚昧と権力だけに追従する奴隷的人格を認めることはなかった。それとは反対に、彼らは一方では苦しみを訴え、一方では大いなる救いの星を頌えると同時に、自分を美化した。」
これはきびしい言葉である。何がきびしいのか。劉暁波の知識人批判は中国の長い文化伝統における専制的権力への迎合的軟弱者であった知識人への歴史的批判だからである。
「この数千年、「柔をもって剛に克つ」「無為にして治まる」を重んじてきた文化伝統の中国は、いたるところ弱者だらけである。まさにこうした「柔弱なること水の如し」の文化が、強者を抑圧して弱者に迎合するという中国の知識人の人格をつくりだしたのである。」
「数千年来、中国の独裁者たちの神格化はすべて知識人の仕業であり、無知な一般庶民は社会輿論に左右され、ただ文化人たちの独裁者にたいする神格化に従ってきたにすぎない。」
劉暁波は「文革」の終結後、知識人たちが受難者面して復権していくのを許さなかった。毛沢東にいたる中国の全歴史を通じての専制的支配者とは、迎合的な軟弱者であり続けた中国知識人が作り出したものだと、彼は知識人の自己批判としていうのである。ここには中国知識人としてなされたはじめての徹底した自己批判がある。
劉暁波は一九八九年の民主化運動が大きく始まろうとするとき、批判的強者として自立する知識人であることを、己れにも人びとにも求めていた。「ただ自分の知識をもって社会全体と対話し、しかも自分の知識によって社会の進歩をリードし、不合理な社会現象、とりわけ政治上の不正を糾弾し、それによって社会正義を守る」知識人であることを。この自立的知識人であろうとすることは、知識人にドレイ的屈従を強いる専制的政体と対立せざるをえない。それゆえ自立的知識人であることは、民主的政体のための闘争とならざるをえないのである。
一九八九年の四月の下旬、劉暁波は天安門広場を埋める学生たちの戦列に加わるためにニューヨークを離れて帰国した。そのとき彼はこここそが自立的知識人であることを実証する戦いの場であるとみなしていたであろう。だが彼のこの決意は中国の知識人の歴史においていかに画期的な意味をもとうとも、そこには知識人の知識人のための戦いという独善のにおいが止めがたくある。それはニーチェの高貴なる強者がもつ独善性でもあるだろう。彼の言葉はまだ人びとの魂にまで届く力をもつものではない。だがやがて来る天安門の悲劇と挫折とが劉暁波の言葉を重く作りかえていく。
4 天安門事件の真相
一九八九年六月四日の早暁、天安門広場で迫りくる凄惨な事態を回避するために劉暁波らは懸命に学生たちの説得に当たった。ここで撤退することは、権力による武力的制圧に対する学生・市民による平和的民主の要求が正しいことを証明するものであると。学生たちはその説得にしたがって夜の明けようとする5時すぎに広場を撤退した。戒厳部隊による武力的鎮圧は前夜の午後一一時すぎから始まっていた。大勢の兵士やトラックが東西から天安門広場に向かって進軍を始めたのである。兵士たちは完全武装していた。長安街をふさいで行く手を阻もうとした大勢の市民や学生に向かって、兵士たちの銃が火を噴いたのである。人民解放軍が人民に向かって射撃するという衝撃的な武力鎮圧が始まったのだ。戒厳部隊が天安門広場を武力をもって包囲していく過程で学生・市民の側に多くの犠牲者が生じた。戒厳部隊の武力的包囲がなされる中で、迫り来る殺戮と時を争うようにして劉暁波らの説得がなされた。そして撤退を決意した学生たちは列を組んで広場を後にした。「広場の外での惨事に比べれば、広場の少なくとも記念碑周辺では、結果として流血はなかった」と、その時に広場に居合わせた日本人記者はいう。
私はいま六月四日に天安門広場で起こった事件の経過を、事件当時の報道を修正する朝日新聞の永持記者による「天安門事件を再現する」によって書いている。永持記者は六月四日のその時に天安門広場の現場に居合わせたごく少ない記者の一人である。彼は「広場の少なくとも記念碑周辺では、結果として流血はなかった」と証言するのである。その証言が二〇年後のこの時期に、劉暁波のノーベル平和賞受賞の記事とともに『AERA』になぜ掲載されたのか、その理由はわからない。しかしこの証言をえた以上、私がさきに『天安門事件と「08憲章」へ』の序文中に朝日・読売・毎日三紙の記事によりながら書いた天安門広場における虐殺をめぐる文章は、最初に記した事件の経過のように訂正せざるをえない。そしてこの訂正の上に私は事件の犠牲者たちを背負い続ける劉暁波の行為の重い意味をあらためて確認しなければならないだろう。
天安門事件における虐殺の問題を考えるに当たって、われわれはもう一度劉暁波の文章を読まねばならない。彼は香港の親中国共産党系の政党民建連の主席である馬力の発言に反論していっている。馬力は広場から撤退を可能にしたことをもって、戒厳部隊による鎮圧は故意の「都市住民の虐殺」をともなうものではないといおうとした。それに対して劉は、こう反論しているのである。
「六四の夜、天安門広場にまだ残っていた四〇〇〇人の学生の生命は、自発的な撤退と引き換えたものである。なぜなら、我々との交渉に顔を出した広場の鎮圧指揮官・季星国大佐は、「戒厳部隊が受けたのは絶対の命令で、空が明るくなる前に一切の代価を惜しまず鎮圧する。もし、学生たちが自発的に撤退するのでないなら、結果として、大量の学生が必ず鎮圧部隊の銃口と戦車のキャタピラーの下で死ぬことになる」と非常に明確に話した。」(「これは「住民虐殺」である」『天安門事件から「08憲章」へ』)
ここに明らかなのは戒厳部隊における虐殺をもためらわない武力制圧の決意である。広場からの学生の撤退が、戒厳部隊の武力制圧の決意と実行とを打ち消すことにはならない。事実、天安門広場の包囲の過程で戒厳部隊の武力は学生・市民に向かって行使されたのである。そして撤退する学生たちを追いかけるようにして西単付近で戦車が学生の隊列に突入し、そのキャタピラーで避けきれない学生たちを引き殺した事実をも劉暁波はあげている。戒厳部隊はたしかに学生・市民たちを虐殺したのである。広場からの学生たちの撤退が、戒厳部隊による人民虐殺の事実を否定するものでは決してない。
天安門事件における虐殺の真相は当局によって隠された。虐殺の真相を知るものは殺したものか、殺されたものである。殺したものはこの事実を隠蔽し、あるいは否定する。殺されたものには虐殺を証言する口も声もない。虐殺者は犠牲者の遺体をも抹消してしまったのである。ではだれがこの真相を明かにするのか。それを明らかにするのは、殺されたものの母たち、すなわち「天安門の母たち」である。彼女たちは、困難な、人身の危険がいっぱいの情況の下で「六四」の受難者の名簿や証言を集めていった。二〇〇三年に受難者家族のグループは、第一〇期全国人民代表大会の全代表に公開状を出した。それにはこう書かれている。
「二〇〇三年二月までに、我々は虐殺事件の殉難者一八二人、身体障害を受けた者七一人を探し当てた。長い間の探訪活動の中で、我々は相当数の失踪者がいることを発見した。彼らはみな八九年六月三日以後の数日間に突然姿が見えなくなった。生きているとしても姿はなく、死んだとしても死体がなく、今に至るも行方が分からない。彼らの親族はこれまでの長い歳月、八方手を尽くして探したが、少しの成果もなかった。現在まで、我々は一二人の失踪者の名前を記録しているが、我々の長年の調査で判明したところによると、実際の失踪者の数は記録した数字よりもはるかに多い。例えば、あの年、慌ただしく天安門付近に埋葬された幾人かの受難者の死体は今に至るも行方が分からない。」
殺戮の事実を隠し、それを歴史から抹消しようとする当局に対して「天安門の母たち」は根気強く、「文明にふさわしい方法」で真相を明らかにし、法の下で殺戮の遂行とその責任が問われることを要求するのである。「文明にふさわしい方法」とは劉暁波がいう言葉だが、それは野蛮な武力行使の殺戮に対する母親たちの告発が、真相の究明と法定的手続きによる公正な裁きを求める理性的で、平和的なものであることをいうのである。天安門事件の真相とは彼女たちの死者たちを背負った勇気ある、持続する運動の中にこそあるというべきだろう。
劉暁波は事件の二日後六月六日に逮捕され、北京郊外の秦城監獄に投獄され、一九九一年一月に釈放された。彼はあの母親たちとともに天安門の死者たちを生き残ったものの痛苦のうちに背負う決意をもって出獄した。
5 死者を背負うこと
秦城監獄から出た劉暁波は自らを「幸存者(幸いに生きのびた者)」と認めた。幸存者とは死者たちと事件を共にしながら、僥倖にも死を免れたものである。生き残りえたこと自体が、すでに彼の負い目である。劉暁波はさらに獄から自らを裏切る形で放たれて生き残った。彼は死者たちに二重の負い目をもって生き残った。劉暁波は生き残りとしての己れをこういっている。
「一九八九年六月八日以来、ぼくという幸いな生き残りは、常に自分自身に警鐘を鳴らしている。「六四」の無辜の死者の霊魂が天上からずっとぼくを見つめている。「六四」の受難者の家族が地上ですすり泣いている。自分は秦城監獄で本心に逆らい罪を悔い改めた。ずっと堅く守ってきた人間として最低限の一線を守れず、反省書を書いたとき、ぼくは自分で自分の良心を踏みにじった。ぼくは自分の孤独と弱さ、そして自己愛をも識った。ぼくの内には利己的な処世法や偽装的な生存の策略があることをも認識した。それは監獄がぼくに与えた恐怖や孤独をはるかに超える恐怖であり苦悩であった。限界と弱さをもつ人間は畏敬と謙虚とを必要とする。自分の魂に自ら加える拷問によってのみ、救いと贖いは得られるのだ。釈放もまたこれによらねばならない。鉄窓に対面する試練をいうことは、自分の魂の荒野における試練をいうことに及ぶものではない。」
劉暁波は「六四」という記憶の針を体内に突き刺して生き残った。来る年毎に「六四」という記憶の針は彼の心臓を突き刺し、血まみれにさせながら、彼に記憶を詩に刻ませていった。「十五年が過ぎた。あの銃剣で赤く染まった血なまぐさい夜明けは、相変わらず針の先のようにぼくの目を突き刺す。あれ以来、ぼくの目にするものはみな血の汚れを帯びている。ぼくが書いた一字一句はみな、墳墓のなかの霊魂が吐露したものから来ている」と、二〇〇四年の六月四日に彼は書いている。「六四」の忘却が殺戮者の政権とともに己れの未来を闇に閉ざすことであるならば、「六四」の記憶とは死者とともに未来を開く闘いであるだろう。劉暁波はいう、「絶望のなかで、ぼくに与えられた唯一の希望は、霊魂を記憶に刻むこと」であると。
死者たちの記憶をもち続けること、死者たちを背負い続けること、それは生き残ったものの闘いである。生き残ったものとは、圧政と暴力とによって死ぬべくして幸いに生き残ったものである。あの死者たちはこの生き残ったものに背負われることがなければ、ただ歴史の忘却の土中に埋もれていくだけだろう。そして生者たちの奢りが悖徳の花をその土の上に咲かせるのである。劉暁波は「六四」の死者たちを背負い続けるものとして生き残った。彼は「六四」の死者たちの記憶を、彼の体を内から突き刺す針であるこの記憶を詩に刻みつけていった。それは二〇世紀の戦争と暴力の時代の生き残りであるわれわれの心にも刻まれる記憶でもある。「六四、一つの墳墓」を見よ。そこにあるのは、われわれの心にも刻みつけねばならない記憶の言葉である。
「忘却と恐怖の下に
この日は埋葬された
記憶と勇気の中で
この日は永遠に生き続ける」
6 天安門の母たち
天安門事件における虐殺の真相を明らかにするものとは、「天安門の母たち」であると私はさきにいった。この「天安門の母たち」という「六四」事件の受難者家族のグループについて、劉暁波はわれわれにこう教えている。
「息子、娘を失った孤独な老人、夫を失った妻、父母を失った孤児、生計をたてる力を失った身体障害者らで構成されるこの受難者のグループは、最初の生きているより死んだ方がましだという気持ちから立ち直り、次第に絶望の憂鬱から抜け出した。生活の苦しみは一言では言い尽くせず、霊魂の煉獄の苦しみは言い表すことができず、威圧の下で沈黙を余儀なくされ、覚醒後の闘いでは危険な情況が続出した。しかし、受難者の家族相互の暖かな心遣いと国内外の良心ある人々の同情に支えられ、「天安門の母たち」はほとんど奇跡のように、誇り高く毅然と立っている。」
この事件を公的な歴史から抹消しようとする中国の共産党政権の下で、その事件における虐殺の真相を明らかにし、その責任を法的にも求め続ける「天安門の母たち」の存在とその持続的活動とは、まさしく「奇跡」といってもいいことであろう。共産党政権下ではありえない活動が、彼女らによって持続されたのである。だがこの奇跡というべき根気強い活動が、中国の未来に向けて踏み出された重大な一歩であることを劉暁波は深く知ったのである。一九九五年、「六四」事件の受難者家族グループは全国人民代表大会常務委員会に最初の公開状を提出した。そこでは三項目の要求がなされていた。第一に、事件の調査委員会を設置し、公正な調査をもって事件の真相を明らかにすること。第二に、死者の名簿、死者の人数を含め、調査結果をすべて全国人民に対して公表すること。第三に、法定の手続きにしたがい、事件の責任を明らかにし、死者の親族にその個別事例にしたがって説明することである。「六四」事件の真相を明らかにし、その責任を問う公開質問状を、受難者グループは毎年全人代に提出していった。その間、自らの足で犠牲者の家族を探し訪ねていった。そして年々公開状の犠牲者家族の署名者数をふやしていったのである。事件の一〇周年に当たる一九九九年には受難者家族対話団を組織し、問題の理性的解決のための対話を共産党指導者に求めた。二〇〇〇年には「六四対話団より六四問題の解決について国家の指導者に書状を致す」という公開状を発表し、李鵬に対する告訴状を最高人民検察院に前年に引き続いて提出している。
ここには中国現代史にかつてなかった人民の側からする、人民の権利に基づく運動の展開がある。中国共産党が政権を掌握して以来、一党的支配と専制的指導者そのことがもつ誤謬やくり返される党内権力闘争と政治的・政策的失敗の結果は、つねに人民の上に大規模な災禍として、大量の犠牲者をともなってもたらされた。反右派運動、大躍進運動、そして文化大革命などによって犠牲となった国民は数千万人に上るとされる。犠牲になり、迫害された政治的指導者たちは政変後に名誉回復されても、人民の側の数え切れない死者たちはただ歴史の過程に放置され、いわば死に損としてあるだけであった。だが「天安門の母たち」は、中国現代史ではじめてその家族が虐殺された事件の真相を、その個別的事例にしたがって明らかにすることを、そしてその責任を法定的な手続きにしたがってとるべきことを要求したのである。しかもこれらを、犠牲者を背負う母や妻という一人の民の権利として要求したのである。
私はいま劉暁波が記す文章によって「天安門の母たち」の理性的で、根気強い闘いの過程をここに綴りながら、感銘を深くした。それとともに、「08 憲章」に集約され、表現される民主化への要求も運動もここに始まることを、あるいはここに基礎づけられていることを私は知ったのである。劉暁波は、「中国共産党に対して過ちを正すべく、罪責と責任を追及し、公正を民に取り戻すという民間運動において、疑いもなく、「六四」遺族グループの業績が最もすばらしいものである」*21という。天安門の母や妻たちとともに「六四」の死者たちを背負って行こうとする劉暁波の歩みは、真っ直ぐに「08 憲章」に向かうものであった。
7 公民であることの主張
天安門の母たちは、「六四」事件の真相の究明と責任の追及とを一人の民の権利として政府に要求していった。このとき、この一人の民は一人の公民であるのだ。だが「公民」とは何か。
中日辞典によって見れば、「公民」とは「公民権をもっている人民」であるといい、「中華人民共和国公民在法律上一律平等(中華人民共和国の公民は法律上一律に平等である)」という用例をあげている(愛知大学中日大辞典編纂処『中日大辞典』)。日本の国語辞典によれば、現代用語としての「公民」とは、その対応語として英語のcitizen(市民)をもった語であり、「国家の政治に参加する権利をもつものとしての国民」を意味するとしている(三省堂『大辞林』)。この辞典における「公民」の意味は示唆的である。それは現代中国の人民は法律上一律平等の公民権を認められながらも、国家の政治に参加する権利をもつ公民であったことはかつてないことを教えるとともに、天安門の母たちが踏み出した一歩が、現代中国においてどれほど重大な一歩であったかをも教えているのである。彼女たちははじめて自分たちが公民であることを、すなわち政府にものをいいうる権利をもった一人の民であることを、そのねばり強い活動によって示したのである。
私がこの「公民」という語に注目したのは、「08憲章」を読み直し、これが中国人民の公民であることの主張だと知ったことによる。「08憲章」の第三章「我々の基本的主張」の前文ではこういわれている。
「我們本着負責任与建設性的公民精神対国家政制、公民権利与社会発展諸方面提出如下具体主張。(我々は、責任を担う建設的な公民の精神に基づいて、国家の政治制度、公民の権利と社会発展の各方面について、以下の具体的な主張を提起するものである。)」
ここでいわれている「公民精神」「公民権利」は他の日本語訳では「市民の精神」「市民の権利」となっているように、この「公民」とは国語辞典がいうように「市民(citizen)」の意であり、そう訳した方がわれわれにはわかりやすい。だがお上から与えられた、名ばかりの公民を、お上にものをいいうる権利をもった民、すなわち真の公民にしようとする「08憲章」が、「公民の精神」「公民の権利」をいうことが重要なのである。そう考えてくれば、「08憲章」と劉暁波を支援する書『零八憲章与中国変革』*23が、「公民劉暁波」をタイトルにした高瑜の文章を載せていることの意味もまた理解されてくる。天安門の母たちの活動こそが、みずから公民であることを自覚した中国人民の未来を開く活動であることを知った劉暁波は、みずからも公民であることを決意し、宣言するのである。彼がいま公民であることとは、「08 憲章」の起草者・推進者となることであった。「08 憲章」第二章の末尾には次のような文章がある。
「公民は、正真正銘の国家の主人になるべきなのだ。“明君”“清官”を頼りにする臣民意識を払いのけて、権利を基本とし、参与を責任とする公民意識を発揮し、自由を実践して、自ら民主を行い、法治を尊重することこそが、中国の根本的な活路なのだ。」
中国の民主化とは、中国人民が真に公民になることだといっているのである。そしてこの文章を読めば、中国の専制的支配の長い歴史において権力に迎合し、阿諛追随してきた知識人を含む中国的弱者を激しい言葉をもって否定していた劉暁波が、天安門事件を通じて、公民であることを体現する「天安門の母たち」に代表される人びとの民間的活動に中国の未来への活路を見出す劉暁波に変身していることをはっきりと知るのである。だが変身というよりは、天安門事件から二重の負い目をもって生き残った劉暁波は、まさしく生まれかわったというべきだろう。
私がここにしてきた『天安門事件から「08憲章」へ』再読の作業は、天安門事件を通じて生まれかわった劉暁波、すなわち「公民劉暁波」を見出すのである。いま彼が獄中にあることが、公民であることを貫こうとする「公民劉暁波」の要求し、抵抗する姿であると知った上で、最後に私は三つのことを付け加えよう。
8 三つの付言
一つには、劉暁波らの民主化の運動とは、正真正銘の「公民権運動」だということである。さきに引いたように「08憲章」は、「公民は、正真正銘の国家の主人になるべき」ことを主張しているのである。日本のマス・メディアは「08憲章」を、中国共産党による一党独裁的国家体制に反対する民主化の要求として概括し、報道してきた。われわれもそのように理解してきた。たしかに「08憲章」は、「一党が独占する執政的特権を廃止」することをいっている。だがそれは、「結社の自由」という公民による結社の自由を保証する条項においていっていることである。「08憲章」を上のように概括し、理解することは、中国における民間的活動として進められている民主化運動とは違うのではないか。「08憲章」とは、中国人民の公民意識に基づく積極的な民間的活動によって、現代中国に根本的な活路を開こうとするものである。これは天安門の母や妻たちがしてきた活動と同様のまったく理性的な活動なのである。中国の変革は平和的に、理性的になされねばならないとは、数えきれぬ殉難者を見てきた中国における変革的運動者が心に刻む鉄則である。それゆえ「08憲章」とその理性的な推進者を国家転覆的煽動として犯罪視する中国当局の非理性的な暴力性がいっそう明かなのである。これを反国家的犯罪とすることは、中国の未来への活路をみずから閉ざすことである。私は反中国主義者ではない。中国思想から多くを学んできた思想史家である。中国が好きである。だからこそ劉暁波を獄中に置くことの大きな間違いをいうのである。
二つには、中国における公民的要求をもった民間的活動は、都市やことに農村で、そして多くの工場で、夥しい数をもってすでに生起していることである。それは農民や労働者の自主的な組織として、四川大地震に際して見せた自発的な救援活動として、そしてインターネットによる自発的な民意の結集などとしてあることは、劉暁波が『天安門事件から「08憲章」へ』でも伝えている。さらに文化的なサークル活動から地域的な住民活動にいたるさまざまな市民・住民による自主的・自発的な活動が現代の中国社会を変えつつあることは麻生晴一郎氏が詳しく伝えている。麻生氏がいうように、中国の国家政府や共産党の動向だけを追っていては、中国社会はほとんど分からないのである。中国社会をいま実質的に変えつつある民間的活動をふまえるとき、「08憲章」と民主化の運動が決して孤立し、遊離したものではないことを知るのである。むしろこれは民間的な組織と活動によって中国社会で起こりつつある変動の未来を、自覚的な変革として先取りして表現したものと見るべきだろう。
三つには、中国のこの「公民権運動」あるいは民主化運動を、二一世紀の、後期近代というべき全球化時代の運動として見るべきだということである。中国の民主的な変革は一国的な変革を意味するのではない。ノーベル賞の授賞という国際的な批判的アッピールにもかかわらず、中国がなお劉暁波の拘留という事態を変えることなく維持しえているのは、経済大国中国との国家間関係の動揺を日本をはじめとする諸国が望まないからである。これは欺瞞の国家間関係である。だましだまし保たれる偽りの国家間関係である。これを彼らは戦略的互恵関係というのである。
「六四」事件の受難者家族の公開アッピールはこういっている。
「“六四”のような大虐殺が、中国の土の上で再び繰り返されることがないように、我々は、公正に合理的に“六四”問題を解決し、人と人との間の敵視と恨みを取り除き、朝野の間、ひいては全民族の間の和解を達成し、それによって、中国の平和裡の転換という歴史のプロセスを加速させることを主張する。」
天安門事件の本質的な解決は、中国の民主化によってのみありうること。そして中国の民主化は、中国の政府と人民との、民族と民族との和解をも含む平和裡の転換として達成されねばならないというのである。中国の民主化とは中国における平和を実現することである。平和的中国とは東アジアの平和のための最大の基盤である。このことは誰もが認めることだろう。そうであるならば、中国の平和も、そして東アジアのわれわれの平和も、劉暁波を獄中に置くことにはないことをわれわれは知るべきである。劉暁波の即時釈放をわれわれが中国政府に求めることは、あの偽りの関係ではない、真の日中関係を作ることだと知るべきである。そのことは己れの見せかけの民主を作りかえることでもあるだろう。
[ここに掲載したのは、『環』44号の特集「中国民主化と劉暁波」のために書いた私の論文である。ここに転載するに当たって注をすべて割愛した。詳しくは『環』掲載のものを見て頂きたい。ここに引用した劉暁波の言葉は、主として『天安門事件から「08憲章」へ』と『現代中国知識人批判』(徳間書店)からのものである。天安門の母たちの発言も『天安門事件から「08憲章」へ』によっている。また朝日新聞の永持記者による証言は『AERA』No.47の記事によっている。これについても『環』掲載の論文に詳しい注を付している。子安]
初出:子安宣邦氏のHPhttp://homepage1.nifty.com/koyasu/colum.htmlより許可を得て転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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