(2022年2月4日)
本日、北京オリンピック開会式。覇権主義中華人民共和国の、一党独裁中国共産党による、専制君主習近平のための、これ以上はない政治イベントである。1936年ベルリン大会でのドイツ・ナチス・ヒトラーを彷彿させる。
習近平の盟友になっているのが、政治的にはプーチンであり、商業的にはボッタクリ・バッハ。彼らの手駒に使われているのが、羊のごときアスリートたち。この構図を支えているのが、メディアとメディアに煽られた民衆である。
北京の光は、ウィグル・チベット・内モンゴル・香港そして台湾に暗い影を落としている。華麗な北京オリンピックのパフォーマンスは、多くの人々が流した涙の上に浮かんでいる。
コロナ禍のさなかの北京オリンピックは、ひたすらに国家と党と習近平の利益のための無理に無理を重ねた奇矯な演し物となってしまった。しかし、習近平の威信を賭けた五輪強行の目は、吉と出るか凶に終わるか。中国共産党はいまウィルスと闘っている。まさしくこのイベントは、「オミクリンピック」と呼ぶべきものなのだ。
不遜なことに、ウィルスは党中央の命令を聞かない。オミクロンは習近平に忖度しない。にもかかわらず、敢えて国家と党の威信を賭けてのゼロコロナ作戦。本日から17日間、果たしてバブルの中での平穏を保つことができるだろうか。
既に本日の報道では、「中国への入国時やその後の検査で、選手団9人を含む21人の陽性がきのう(2月3日)確認され、先月(1月)23日から集計した感染者の合計は308人となった。これまでに選手団の感染は、あわせて111人となっていて、影響が広がっている」という。こうまでして、オリンピック開催を強行する意味がどこにあるのだろうか。
本来、オリンピックは平和の祭典である。オリンピック憲章が想定するとおりに挙行されば、意味のないはずはない。各国のアスリートやアーチストや民衆の交流は貴重な平和に資するものとなる。しかし、国威発揚や為政者の野心のためのオリンピックでは、メリットを凌駕するデメリットを指摘せざるを得ない。無理に無理を重ねた「オミクリンピック」は、そのデメリットの象徴というべきであろう。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2022.2.4より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=18489
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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