1.「近代」について
日本の歴史辞典[1]によれば歴史的時代区分としての「近代」は、「一般に資本主義の形成、市民社会以後の時代をいう。日本の場合には、一般に幕藩体制の崩壊した明治維新以後をさしている」とされている。これは歴史辞典でありながら非歴史的で、正確さを欠いた定義である。だがこの定義のあり方はこの辞典の30年後の新版[2]においても変わりはない。すなわち「世界史上では資本主義社会の成立、市民革命を近代の指標とするが、日本では近世に継続し、現代に先行する時代をいう。」この辞典における「近代」定義の問題は、時代区分としての「近代」を説くのに、「近代の指標」としての近代的社会の理念的構成を前提にしているところにある。この辞典の定義によると、「近代」と時代区分された日本近代という時代は理念的指標(資本主義・市民革命・市民社会)としての「近代」の実現過程ということになってしまうだろう。たしかに日本の歴史概念としての「近代」にはこの理念性が色濃く染め込まれている。
私は東アジアにおける「近代」をこう考える。欧米の資本主義的商品生産と交易圏の拡大要求が軍事力を伴って東アジアに達し、中国を侵犯し始めた時期をもって東アジアは「近代」という時代に入ったと考えたい。それは欧米的な世界史の過程に東アジアの諸国・諸地域が強制的に、半強制的に参入することをもってアジアの「近代」は始まるということである。日本はこの世界史の過程への参入を強制されながら、国家体制の変革を遂げながら進んで参入していった。この「近代」という世界史の過程への日本の積極的な参入が、後進アジアの範型とされ、日本の歴史修正主義的ナショナリストによって絶えず回想されるのである。だが欧米的「近代」という世界史の過程に積極的に参入した日本が出していった答えとは、天皇制的全体主義国家として自らを形成しながら世界の帝国主義国家の一つをなすことであった。それゆえ私はアジア・太平洋戦争をもって「日本近代」の帰結とするというのである。
ここからこの「日本近代」を批判しながら、われわれにおける「現代」を見定め、それに直面するためには「日本近代」がその絶対的な始まりとする「明治維新」を相対化しなければならない。これを絶対的な始まりとする「日本近代」をいかに相対化するかが問われてくる。この世界史的「近代」を相対化するには、それぞれの一国的「近代」を考えることによってである。本稿「日本近代化再考」でいったように、それぞれの「近代」成立の指標はさまざまにありうる。統一政権の成立とか、全国的交易・流通網の成立とか、民間教育の普及とか、都市と都市的生活圏・文化圏の成立とか。こうして私は「徳川的近世」をもう一つの日本の「近代」というのである。
だがここで断っておきたいのは、もう一つの「近代」をいうことで、日本近代史を書き直そうとしているのではないということである。もう一つの「近代」とは「明治維新」を絶対的な始まりとする世界史的「近代」を相対化し、ゆるがし、われわれの「現代」を、それに直面するわれわれのあり方とともに明らかにしたいためである。
もう一つの「近代日本」とは方法的概念としていうのであって、実体的概念としていうのではない。溝口雄三は『方法としての中国』で世界史的(西欧的)近代を批判しながらもう一つの近代(中国の独自的近代)をいった。だがこの「もう一つの近代=中国の独自的近代」とは実体概念としていわれているのである。だから「方法として中国」をいいながら溝口は「もう一つの中国的近代」をもって「世界史的(西欧・日本的)近代」を実体暴露的に書き直すことになるのである[3]。
2.「近代化」「近代主義」について
日本は敗戦をもって「近代」に終わりを告げ、「現代」に入ったのである。だが敗戦日本の知的リーダーたちは1945年を「日本近代」の終わりとはしなかった。彼らは日本の本当の「近代」、あるいは本当の「開国」の始まりと考えた。これは最初に挙げた日本史辞典の「近代」概念に示されている。そこでは「近代」は「市民社会」や「市民革命」という指標をもって理念型化されるのである。戦後日本で「近代」とは目的的概念になるのである。「近代」とは日本社会にいまだ達成されない理念となるのである。そして「近代化」とはこの理念的「近代」の達成とその実現努力であり、「近代主義」とは永久革命的な「近代化」の主張である。いま戦後概念としての「近代」「近代化」「近代主義」を丸山眞男の「開国」論文[4]によって見てみよう。丸山は日本の第一の開国は室町末期から戦国にかけてであり、第二が幕末維新の開国であり、第三が今次の敗戦後であるとしている。丸山はその論文の末尾で明治期日本に滞在したイギリスの言語学者チェンバレンの記事を引いていっている。
「日本の驚異的勃興ー日本が政府の指導下の奮励によってたった一世代の間にかちえた地位ーはまさに抗し難い反証となる。日本はプロシャのように中央集権化を通じて成功した。その四千三百万の国民はあたかも一人の人間のようにうごくのである。」
チェンバレンは集団主義的日本の成功をもって、個人主義の未成熟によって日本の弱さをいうアングロ=サクソン的見方への「抗し難い反証」としているのである。このチェンバレンの記事を引きながら丸山はこの「開国」論文を結ぶようにしていっている。
「無数の閉じた社会の障壁をとりはらったところから生まれたダイナミックな諸要素をまさに天皇制国家という一つの閉じた社会の集合的エネルギーに切りかえて行ったところに「万邦無比」の日本帝国が形成される歴史的秘密があった。チェンバレンのいう「反証」がはたして、またどこまで、反証でありえたかを、すでに私達はおびただしい犠牲と痛苦の体験を通じて知っている。しかし、その体験から何を引き出すかはどこまでも「第三の開国」に直面している私達の自由な選択と行動の問題なのである。」
「第三の開国」をいう丸山の言葉は永久革命的な開国(近代)主義者の悲愴な決意を見るようである。なぜ悲愴なのか。この永久革命的な近代主義者はすでに日本的土壌に閉鎖的思惟の古層を絶望的に見出しているからである。
[これは来る5月25日北京大での講演後に予定されている討論会のために用意したメモである。]
[3]溝口雄三の『方法としての中国』については私の「現代中国の歴史的弁証論」『日本人は中国をどう語ってきたか』所収(青土社、2012)で詳しく述べている。
[4]丸山眞男の「開国」ははじめ『講座現代倫理』第11巻「転換期の倫理思想(日本)」(筑摩書店、1959)に発表された。『現代日本思想大系34 近代主義』(日高六郎編、筑摩書房、1964)所収。『丸山眞男集第8巻』(岩波書店、1996)所収。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2019.5.19より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/79894895.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1042:190520〕