リビアの内戦はようやく終幕に近づいた。チュニジア、エジプトで口火を切った「アラブの春」は、長期独裁のベンアリ・チュニジア、ムバラク・エジプト大統領を血祭りに上げた後、2月17日にリビア東部の反カダフィ蜂起で火を噴いた。以来6カ月、反カダフィ勢力を結集したベンガジの暫定国民評議会(NTC)は欧米の軍事機構であるNATO(北大西洋条約機構)の空軍支援を受けて、カダフィ政権の本拠地トリポリを攻略するに至った。トリポリの一角にこもったカダフィ側はまだ抵抗を続けているが、1969年のクーデター以来42年間に及んだ反帝・反植民地主義のカダフィ政権もついに終焉の時を迎えたようだ。
チュニジア、エジプトの独裁政権が比較的短時間で、革命側にそれほど多くの犠牲者を出さずに打倒されたのに比べ、リビアではカダフィ独裁政権を倒すのに6カ月もの戦闘と多数の死傷者を数えなければならなかった。それはチュニジアの軍隊が旧宗主国のフランスに、またムバラク政権の中軸だったエジプト国軍が米国に支えられていたのに、その仏、米が民主化を求めるアラブ民衆の革命に直面して、革命を弾圧する両国軍部への保護を打ち切ったため、独裁政権は支えを失ったのである。
それに比べると、カダフィ大佐は欧米など旧植民地・帝国主義勢力と激しく敵対した人物であり、カダフィ軍はNATO軍と敵対こそすれ、欧米諸国に面倒を見てもらったり、支援されたという関係にない。逆にNATO空軍は3月19日以来、カダフィ軍の攻撃からリビア市民を保護するという名目で、カダフィ軍に対する空爆撃を続けた。NATO空軍は反政府軍がカダフィ政権の牙城である首都トリポリに進攻した8月20日までに、7,459波の出撃を行い何千というカダフィ軍の陣地、施設、司令部、兵舎等々の目標を攻撃した。さらに米空軍は無人偵察機をリビア上空に飛ばせ、空から偵察したカダフィ軍の情報を逐一反政府軍に伝達した。
このようなNATO軍の援護がなければ、NTC・反政府軍が8月20日から短時日でトリポリを攻略できたとは考えられない。このことはトリポリに入城した反政府軍の兵士たちが「われわれの同盟軍であるNATOのおかげ」と公言していることでも明らかだ。反政府軍は2月17日にベンガジで決起して同月末までにリビア東部のキレナイカ地方をほぼ制圧したのだが、カダフィ軍の本格的反攻が始まった3月以降、3月19日のNATO軍介入までにずるずる後退、本拠地のベンガジまで危うくなったのをNATOのおかげで挽回したといういきさつがある。
さて8月20日からのトリポリ急襲作戦である。反政府軍は過去半年にわたり、トリポリの東方200キロの港町ミスラータを守り続けた。カダフィ軍はミスラータ奪回を目指して何回も波状攻撃を仕掛け、多数のミスラータ市民が巻き添えで死傷する中、反政府軍はミスラータをカダフィ軍に明け渡さなかった。ミスラータから船でトリポリ攻略に向かった反政府軍部隊が今回のトリポリ攻略作戦の主力だったようだ。
第2の首都攻略部隊はトリポリの西方50キロのザウィーヤから進撃した。ザウィーヤはトリポリ近郊で唯一石油精製施設のある重要な都市。しかも西の隣国チュニジアと通じる国道沿いの町で、この半年間カダフィ軍と反政府軍で取りつ取られつの激しい戦闘が繰り返された町である。ザウィーヤの町には反カダフィ分子が多く、表向きカダフィ軍が制圧しても内部から反政府軍と内通していたようだ。
さらにトリポリ南方のナムサ山脈の一角を占めるガリヤンも、いつの間にか反政府側が支配するに至った。こうして8月20日、トリポリの東と西と南の3方から反政府軍が一挙に市内に攻めのぼり、市内に潜んでいた反政府勢力も呼応して決起した。反政府軍は8月20日から21日にかけてあっという間にはトリポリの中心部を制圧、カダフィ政権が公式な集会を開く「緑の広場」も国営テレビ局も占領してしまった。TNCはトリポリ市の80%を制圧し、カダフィの後継者とされる2男のセイフ・フセイン(39)と長男のムハンマドを拘束したと発表した。
TNCとしては、NATOとの綿密な打ち合わせを行った上で、ミスラータ、ザウィーヤ、ガリヤンの3方面反政府部隊に、8月20日を期してトリポリに攻めのぼる作戦を命じたのであろう。作戦の第1段階は見事に成功し、21日にはトリポリ市内の8割を占める地域を反政府軍は占拠した。しかしカダフィ大佐一族の住居と軍司令部など枢要施設を包含する市内南部のバーブ・アジジャ地区は手つかずである。
バーブ・アジジャ地区というのは面積6平方キロもの広大な土地で、全体として巨大な要塞となっているという。ミサイル攻撃に耐える厚さ1メートルのコンクリートの壁や、首都各所に通じるトンネルが張り巡らされ、食料も大量に備蓄されて長期の籠城にも耐えられる構造だという。反政府勢力によると、地下トンネルは海浜や市内の高級ホテル、軍病院、国際空港、「緑の広場」などに通じていた。カダフィ大佐の護衛しか知らない秘密トンネルもあり、緊急時にはここから移動する仕組みだという。
カダフィ大佐は20日夜国営テレビを通じて「帝国主義者にそそのかされたネズミどもがトリポリに忍び込んだ。奴らをたたきのめせ」と訴えた。画像ではなく音声だけの放送だった。23日の未明(日本時間23日正午ごろ)、先にTNCが拘束したと発表した大佐の2男セイン・イスラム氏が西側記者団の前に姿を現し「自分は拘束されていないし、父カダフィ大佐も元気で敵を粉砕するための指揮を執っている」と語った。
「カダフィ政権の崩壊迫る」を打電するのに忙しい在トリポリ西側報道陣は、セイン・イスラム氏の登場であっけにとられたが、それでも西側メディアはカダフィ政権の終わりが近いとのトーンを変えてはいない。今年3月17日、国連安保理はカダフィ政権の攻撃からリビア市民を保護する目的のために、リビア上空に飛行禁止区域を設定し、リビア地上軍の市民に対する攻撃を制止すべきだ、との決議を採択した。これは長年にわたるカダフィ大佐の「反帝・反植民地主義闘争」への西側の反撃だった。この決議採択に奮闘した英国とフランスこそ、19世紀に現在の中東諸国を植民地化した帝国主義者の末裔である。
英仏は、カダフィ大佐が1960年代初期に実行した産油国主権の行使で損害を被った歴史を忘れていない。1960年に発足した石油輸出国機構(OPEC)は、それまで石油市場を支配していた西側の7大石油資本(Seven sisters)の独占体制を打破、産油国の主権を確立したが、それを実行した中心人物がカダフィ大佐だった。また米英両国は、1988年にスコットランド上空で米TWA機がリビア機関員の仕掛けた爆弾で爆破され、270人の犠牲者を出した事件を忘れることはできない。
だからこそ英国のキャメロン政権は、2011年に巡ってきたカダフィ政権打倒のチャンスに色めきたったのであろう。フランスのサルコジ政権も、フランスが輸入しているリビア産の石油、天然ガスの価格交渉でカダフィ政権に不満を感じていた。こうして旧植民地大国の英仏は、不逞なカダフィ大佐の政権が揺らぐのを見て、NATOの軍事介入を主導した。英仏の軍事専門家は3月段階で、国連決議が成立してNATO空軍が作戦を開始すれば1週間でカダフィ体制は崩壊すると予言していたが、実際には6カ月かかった。
とはいえ反帝・反植民地闘争に燃えたカダフィ体制は過去のものになろうとしている。「アラブの春」を信じる広範なアラブ新世代は、これからどんなアラブ世界に期待するのだろうか。
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