ことごとしく言うほどのことではないが、教育と教育行政とはまったく異質のものである。両者は異質のものとして厳格な区分が必要で、教育行政による教育への支配や介入は厳に慎まなければならない。
教育とは真理あるいは真実と確認された知の体系を次代に伝達し承継するという優れて文化的な営為である。また、その知を獲得して国家や社会を建設する主体となる人格を育てる崇高な営為でもある。
教育行政とは、国民の教育を受ける権利を実現するにふさわしい、教育条件の整備をその任務とする。予算を獲得し、校舎を建設し、教員を採用し、しかるべく配置し、給与を支払い…、教育が成り立つよう外的な条件を整備することであって、教育そのものではない。学生・生徒に何をどのように教えるかという教育そのものには、本来関与しない。むしろ関与してはならない。
これもことごとしく言うほどのことではないが、学校教育の主体は飽くまで学校である。学校とは、校長をリーダーとする教育専門家としての教員集団を指す。そして、教育行政の主体は各自治体に設置されている教育委員会であって文科省ではない。文科省は教育委員会に対して、限定された範囲での指導助言ができないではないが、つとめて抑制的でなくてはならない。
ところで、「教育と教育行政は異なる」「教育行政は教育を不当に支配してはならない」。これは当然のこととして世に受け入れられているだろうか。
「農林水産業と農水行政は異なる」「薬事業と薬事行政は別物である」「食品業と食品規制行政とを混同してはならない」「原子力発電に対し規制行政は独立していなければならない」などは、あまりにも当たり前のことだろう。ところが、教育と教育行政の関係となると、「あまりにも当然」ではない現実がある。
文科省は、2階から平場にある教育現場を見下ろして、教育内容に指図し介入することができると考えている節がある。彼らの目の下、中2階の位置に教育委員会があり、現場への指図は、ここを通じてやれるものとの思い上がりがあるようなのだ。
また、この2階は、3階に位置する政権や政権与党からは監視を受け、介入を許してもいる。教育委員会も、文科省も、露骨な政治的介入に対しては、本来防波堤にならなければならない。
戦前にはこんな議論はなかった。国家が教育を支配した。天皇制国家は臣民支配の無限の徹底を求めて、教育を膝下に置いたのだ。教育は全て天皇の勅令に基づいて行われた。天皇制権力の望むままに、「臣民」に対して、「天皇は神の子孫であり、現人神である」「天皇のために命を捧げることこそ、臣民の生くべき道」と、荒唐無稽の限りを吹き込んだ。壮大な一億総マインドコントロールを試み、半ば成功したのだ。
戦後の教育は、その反省から再出発した。「今回の敗戦を招いた原因はせんじ詰めれば教育の誤りにあった」(幣原喜重郎元首相)という問題意識が、戦後教育改革の原点となった。これが「戦後レジーム」だ。アベが脱却を図ろうというのは、このことなのだ。
戦前教育の基本だった大日本帝国憲法と教育勅語のセットが、日本国憲法と教育基本法に換えられた。教育勅語は参院では「失効」、衆院では「排除」の決議がなされた。
1947年制定の教育基本法の眼目は、その10条「教育は、不当な支配に服することなく」という、教育の国家支配からの独立にあった。同条文の文言は、「どこからの不当な支配」と明記されてはいないが、教育行政からの支配を含むものであることは明らかである。
第1次安倍政権下の2006年、教育基本法が「改正」された。しかし、47年教育基本法10条の「不当な支配に服することなく」の文言は、かろうじて「改正」法16条に残された。
今必要なことは、公権力や政治勢力による教育に対する支配・介入に、国民が監視の目を光らせなければならないと自覚することだ。今回の前川喜平講演に対する、政権与党と文科省の執拗で高飛車な圧力は、目に余る。徹底して糺弾しなければならない。
安倍政権下、民主主義が劣化し、貶められている。政権や与党そして教育行政の支配から、教育を独立させることの重要性を再認識したいものと思う。安倍内閣と自民党に教育に手を出させてはならない。赤池誠章、池田佳隆などというタチの悪い時代錯誤議員は、選挙で落とさねばならない。
この間雲隠れしていた池田佳隆(愛知3区・安倍チルドレン)が本日(3月22日)、2分足らずの間だけだが、カメラの前に立ったという。そこで池田が語ったことが次のとおりと紹介されている。
「今回、問題となりました(前川氏の)授業が、果たして法令に準拠した授業であったのかどうか、地元の皆様方からのご懸念があれば、その大切なお声を国にしっかりとお届けすること、地元の皆様方の大きなお力で今こうして国会議員を務めさせていただいている私にとりましては、当然、大切な仕事であると常々考えてまいりました。今回、その信念に従ってお問い合わせをさせていただいた次第であります。」
池田は、こう言っているのだ。
「選挙民が、前川氏を不快に思い、選挙民が文科省に問合せを要求しているから、それにしたがったまでだ。これが民主主義だ。どこが間違っているのか」
目を覆わんばかりの議員の劣化である。選挙民への責任転嫁。これは民主主義ではない。民主主義とは理性に基づく政治だ。議員たる者、違法は糺さなければならない。違法を要求する選挙民を説得しなければならない。教育の何たるかを弁えず、戦後の教育法体系の転換を理解しない愚かな議員。責任転嫁された人々を含め、選挙民はこんな程度の議員を選出したことを恥じなければならない。
(2018年3月22日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2018.3.22より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=10101
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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