卒論・パクリ・フーコー

お久しぶりでございます。また、遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
『フーコーへ帰れ』の翻訳で四苦八苦の中野@貴州にございます。
さて、今日は三題噺を。「卒論・パクリ・フーコー」というお題でございます。
中国の大学では、冬休みは卒論作成開始の時期でございます。この時期になると、ある日本人教師の話を思いだします。
「ある日本人教師の話だが」(どうやら本人の話ではないようです)。「学生の提出した卒論があまりにも出来すぎるものだったので、調べてみたところ、案の定、別の大学の去年の最優秀卒論をそのままパクったものだった。それで、本人に問い質したところ、その答えが・・・」
『これは、○○大学の最優秀卒論ですよ。そんな素晴らしいものが、なぜダメなんですか』!
理解に絶しますね。でもね、これを「○○氏はこう述べている―以下コピー―私はこの分析に同意する」とちょっと書き加えたら、この学生のオリジナリティになるんじゃないでしょうかね。まあ、大多数の学者先生の書くものも、これと五十歩百歩じゃござんせんか(失礼!!)。
ハイ。ここでフーコーさんの登場。フーコーさんは、フツーの学者先生どころか、マルクスであれ誰であれ、おんなじだと断言するんですね。「個性とか主体とかなんて存在しない。作者は自己の主体性でものを書いているんじゃない。ある知の枠組みが作者に書かせているんだ」と。要するに「無意識のパクリ」ということでしょう。
この「知の枠組み」(エピステーメーはあくまでその一つにすぎません。フーコーの用語は常に変化しますので)の中には、学問上の先達の思想も含まれるでしょう。例えば、『資本論』は、同時代の経済学の「知の枠組み」になっていたリカードの「無意識のパクリ(いや故意かもしれない)」と言えるのですね。
「なんだ。お前の言ってることこそフーコーのパクリじゃないか」ですって。「お客さん野暮言っちゃいけないよ」と返したいところですが、ええそうですよ。ええそうでございますよ。私めが今まで書いたものは、廣松さん、宇野さんの完全なパクリであり、ここの話もフーコーさんの完全なパクリでございますよ。
オリジナリティ・主体・個性なんていうかっこいいものは存在しない―今日のツマラナイ落ちでございました。