南京大虐殺 - この事件をあなたはどう呼びますか、南京大虐殺、それとも南京事件? -

2年に1度のユネスコ定例総会がパリ本部で11月3日、開幕した。会期は18日まで。マスメディアの報道によると、馳浩文部科学相は5日夕(日本時間6日未明)に総会で一般演説を行ない、ユネスコの制度改善の必要性を強調し、記憶遺産が政治的な軋轢をうまないようにしていこうと述べたが、南京大虐殺資料の世界記憶遺産への登録そのものには直接言及しなかったという。

南京資料は、中国が申請し、ユネスコ記憶遺産の登録小委員会(9人)で審議・仮登録され、上位機関の国際諮問委員会に答申されていたもので、先月、国際諮問委員会(14人)が多数決で登録を正式に決定した。ユネスコの登録決定に対して、中国政府は歓迎したが、日本政府は「中立公正であるべき国際機関として問題だ。政治利用されるような制度、仕組みの改正を強く求めたい」とユネスコを非難したが、今回の馳氏のユネスコ総会での演説はこの方針の一環をなす。

ウィキペディア「南京事件論争」の物証・証言・一次史料等によると、登録された資料には、犠牲者数を30万人以上とした南京軍事法廷の判決書の他、日本軍が撮影した写真、アメリカ人牧師が撮影したフィルム、生存者とされる者の証言や外国人の日記などが含まれていたという。

南京大虐殺
日中戦争で南京が占領された1937年12月前後に南京城内外で、日本軍が中国軍の投降兵・捕虜および一般市民を大量に虐殺し、あわせて放火・略奪・強姦などの非行を加えた事件。【広辞苑 第四版】

南京大虐殺は日中戦争(1937-1941)のさなかに発生した。日中戦争は後に太平洋戦争(1941-1945)へと発展し、1945年8月15日、日本の敗戦で終結した。日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。ポツダム宣言は日本の降伏の条件を定めた連合国(米・英・中)の共同宣言だが、しかし日本人の多くは太平洋戦争でアメリカには負けたが、日中戦争(=支那事変)で中国に負けたとは思っていない。

1937年から1945年までの日中戦争を中国では抗日戦争と呼ぶ。このように侵略した側(日本)とされた側(中国)では戦争の名称、区分、期間が異なる。南京大虐殺についても、日本と中国は見解を異にする。以前、両国は古代から近現代にわたる日中関係の歴史を共同で研究したことがある(2006-2009)。2010年1月に報告書が発表されたが、南京大虐殺に関する両国の見解は以下の通り。

日中歴史研究報告書の南京大虐殺に関する見解 2010/01/31 22:15 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010013101000466.html

▽日本側
日本軍による集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。犠牲者数は20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がある。中国側の30万人以上という犠牲者数は南京軍事法廷に依拠している。食い違いの背景には虐殺の定義や対象地域、期間などの相違が存在する。虐殺の原因は、憲兵の数が少なく食糧や物資補給を無視した攻略で、略奪行為が起きたと指摘されている。中国軍の民衆保護対策にも欠如があった。(波多野澄雄・筑波大教授、庄司潤一郎・防衛研究所第一戦史研究室長)

▽中国側
日本軍は南京で多数の捕虜や住民を集団虐殺し、略奪を繰り広げた。重大な国際法違反だ。英国人や米国人の住居も略奪の目標にされた。日本軍は慰安所を設け、強制的に多くの女性を「性奴隷」とした。11歳から53歳までの中国人女性が強姦された。東京裁判は占領後1カ月間に南京市内で2万件近い強姦事件が起き、同6週間で市内や近郊で虐殺された民間人と捕虜は20万人以上と認定、南京軍事法廷は犠牲者数が計30万人以上とした。(栄維木・社会科学院近代史研究所「抗日戦争研究」編集長)

以上、引用終わり

中国側は、南京軍事法廷や東京裁判の判決書を南京大虐殺のベース資料としている。判決書はれっきとした公文書であり、資料として申し分なく、中国側がそれをベース資料とするのも自然なことである。
*南京軍事法廷は1946年2月から南京で開かれ、BC級戦犯を裁いた。その3ヵ月後の1946年5月に、A級戦犯を裁いた東京裁判が開始された。

しかし、日本はそうは見ない。いずれの裁判も戦勝国による軍事裁判であり、判事も裁判長も検事もすべて戦勝国が任命した者であり、事実が歪曲され、戦勝国に有利な判決となっているとみる。南京軍事法廷は犠牲者数を30万人以上としているが、この数は科学的根拠がなく、日本の学者で30万人説を採る人はいない。

こうした日中の見解の相違は当然といえば当然のことである。南京大虐殺は大勢の中国人を一箇所に集めて皆殺しにしたという事件ではなく、数多くの中小規模の「事件」を集積したものなので実態の把握がむずかしい。実態を把握するには、「虐殺」「対象地域」「期間」などの用語をまず定義・統一することから始め、つぎに資料の取捨選択が必要だ。事実の積み重ねにより犠牲者数の概数は推計できるだろうが、しかし戦争という混乱期の事件なのですべてが記録・保存されているわけでもなく、正確な数は集計できない。

南京大虐殺について日本には大勢の学者・研究者がおり、それぞれ独自の説を掲げ論争している。なかには学術論争を逸脱したものもある。以下は、イデオロギー的なものは極力排し、「事実は何か」に焦点を当てたサイトである。

南京事件と日中戦争 小さな資料集
http://www.geocities.jp/yu77799/

「南京大虐殺」という用語は、中国や台湾では「南京大屠殺」、英米ではNanjing Massacre, Nanking Atrocities, The rape of Nanking などと呼ばれている。しかし日本では南京大虐殺を「南京事件」(直訳すると、The Nanjing Incident)と呼ぶ人も多い。日本の辞書や事典でも2つのグループに分かれる。

南京大虐殺グループ: 広辞苑、世界大百科事典、ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2011
南京事件グループ: 日本語大辞典、ウィキペディア

私自身、日本人の一人として「南京事件」と呼びたい心情はよく理解できるが、事件を矮小化するようで、少し後ろめたい気がして使う気になれない。それに「南京事件」という固有名詞は、一義的(辞書・事典的)には、1927年3月 24日、北伐途上の国民革命軍が南京に入城の際、共産党軍か国民党軍いずれかの側の中国軍隊が日英米などの領事館を襲撃し、略奪暴行を働き、これに対して、揚子江上の英米両国の軍艦が南京城内に砲撃を加え、数千の死傷者と多数の家屋が破壊された国際事件を指すので、用語上の混乱を招く恐れがある。

 

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