博く学び、良く生きること ─貝原益軒における「知」と「養生」・その1

1 益軒学ー近世的知の形成

1−1 伝記における益軒

今では貝原益軒(1630〜1714)の名を人は『養生訓』の著者としてのみ知るだけだろう。江戸時代、益軒とは世に並ぶもののない博学知識の学者として知られていた。だが益軒を益軒たらしめるのは、その博学知識を国字でもって記し、多くの著述によって世人に博く伝えていったことにある。17世紀後期の日本近世社会において益軒によって初めて倫理・習俗・歴史・風土・産業・養生・本草など〈人の世の事と物〉とをめぐる知識は、世人に共有される公共的な知識となっていったのである。益軒とは近世の知識革命の遂行者というべき存在である。その益軒をわれわれは『養生訓』の著者としてだけ記憶に残しているのである。益軒の伝記をまず『先哲叢談』によって見てみよう。

「貝原篤信。字は子誠、小字は久兵衛、益軒と号す。又損軒と号す。筑前の人。国侯(筑前福岡藩主黒田光之)に仕う。

益軒、寛永庚午(七年)十一月十四日を以て、福岡城中の官舎に生まる。父は利貞、寛斎と号し、軒岐(けんぎ)家(医家)の言に通ず。益軒、幼より警敏にして殊質あり。九歳、兄存斎に就きて書を読み、多く暗誦を成す。中年に及び京に入りて講学す。是の時、都下の名彦(めいげん)みな心を傾けて之れに下る。遂に博学篤学を以て、名海内に重し。益軒の学、常師なし。或は以て松永昌三(尺五)の門人と為す者は謬れり。太宰徳夫(春台)、儒林に於て最も許可すること鮮し。其の益軒に於ける、嘗て称説して曰く、博学洽聞(こうぶん)、海内に比無しと。」

太宰春台が「博学洽聞、海内に比無し」とする益軒における博学知識の形成を伝記に辿ろうとするには、この『先哲叢談』の記述では不十分である。『辞典』によって補っておこう。

「福岡藩士右筆役の貝原寛斎の五男として福岡に生まれた。兄から朱子学を学ぶ。一六四八年(慶安一)福岡藩に出仕したが、一時浪人。長崎や江戸などで修学を重ねた。五六年藩主忠之に再出仕するや、藩命で七年間京都に遊学、多彩な学者文人らと交わった。三六歳の時、明の陳清瀾の『学蔀通弁』を読んだことで朱陸兼取を棄てて朱子学に帰した。儒者として藩主や嫡子に儒学を講じたほか、『黒田家譜』一二巻、『筑前国続風土記』三〇巻を編纂して藩に貢献した。初め一五〇石であった禄高も最後は三〇〇石まで加増された。七一歳でようやく致仕が許され、以後八五歳での病没まで著述活動に精励し、儒書のほか、本草や養生、事典類、礼書、教訓書など幅広い領域に及ぶ約百部二百数十巻もの著作を残した。」(『日本思想史辞典』)

益軒における博学知識の形成が、この記述によって福岡藩とその藩主(黒田忠之)との関係の中でなされていることを知る。私ははじめ人物叢書の『貝原益軒』(井上忠著)によってその伝記を読んでいて、益軒の学問や知識が藩主との強い結びつきをもって形成され、展開されるものであったことを知った。益軒は28歳の時、藩主光之から7年間の京都遊学を命ぜられる。彼は京都で直ぐに松永尺五や山崎闇斎、木下順庵を訪ねている。順庵とその学が気に入ったのか、彼は順庵の講義をしばしば聞き、たがいに往来するようになる。後に伊藤仁斎とも会うが、彼は仁斎古義学を評価しなかった。彼は在京中に多くの学者文人と交流し、自由な学問形成をはかっているのである。
またその間に江戸行きを命ぜられ、4ヵ月滞在し、林鵞峰の講義を聞いたりしている。そして出府の途次伏見で迎えた益軒に藩主光之は、学問出精を褒めて時服と書籍を与え、十石を加増している。伝記によってこうした事実を見ると、藩主が益軒を洛陽に送り、その学の形成を助けているのである。すでに出来上がった学者を藩儒として迎えているのではない。学問好きな藩主が可能性をもった青年に扶持を与え、その学の形成を支えているのである。
三代将軍家光以後(家光の死は1651年)というべき17世紀後期のこの時代は、徳川幕府という政治体制の安定化とともに文治主義的統治へと移行する時期である。やがて将軍綱吉の元禄時代(1688〜1703)を迎えることになる。黒田光之とはこの文治主義をいわれる時代を代表するような藩主であったのである。この光之によってはじめて益軒の学問と知識があるということができる。光之を嗣いだ綱政によっても益軒は厚遇された。益軒は自身の知識欲によることでもあったのだろうが、藩の許しをえて実によく旅行をし、紀行文をものしている。その紀行文はすでに社寺参詣記といった性格を脱して、その地方独自の自然美の写実的な描写からその地の産業・風俗・地理を平明な和文をもって記すものであった。それらは出版され、益軒の教訓書と同様に広い読者の手に渡されていったのである。ここには近世社会における出版ジャーナリズムの形成を見ることができる。益軒における博学的知識の形成や多種の教訓書執筆と出版ジャーナリズムの成立との間には強い結びつきがある。そして福岡藩はこうした当時の出版ジャーナリズムに乗った書き手を藩内に抱えていたのである。

もう一つ益軒において注目すべきことは、朱子学が彼においてもった性格である。さきに見た益軒の伝記中、「兄存斎から朱子学を学ぶ」とあるが、それは14歳の時、兄存斎に四書を学んだことをいうので、朱子学を学ぶといったことではない。彼は若い日から知識欲旺盛な独学者としてあったようで、特定の師について学ぶことはなかったし、経書に接することも当時の学者としては非常に遅い。年譜によれば寛文5年(1665)、36歳の時、「『学蔀通弁』を読み、朱陸兼学を廃し、朱子学一途に進むことを決意する」とあるが、この時分まで益軒は朱子であれ陸象山であれ、また王陽明であれ、手に入った儒書を取捨選択することなく読んでいたようである。それが京都遊学と江戸出府を通じて近世の正統儒学である朱子学とそれに批判的な学としての仁斎学とを知り、『学蔀通弁』に接したことを契機に朱子学を己れの学的立場とするに至ったのであろう。

1−2 益軒における朱子学の選択

益軒における朱子学の選択は、闇斎における朱子学の選択とは全く異なっている。闇斎において朱子学は、日本における正統的道学の成立への意志とともに選択される。だが益軒において朱子学は、彼が属する世界・世間における己れの位置を見定め、彼の対応する世界・世間を観察的・経験的な知識として整序することを可能にし、同時にそれを人びとに共有されるものとして言説化しうる論理と概念構成をもった学として選択されたのである。益軒は後に朱子学への疑いを『大疑録』にまとめるが、なお彼は朱子学こそ無上の学であるとしてこういっている。

「秦漢以来の載籍(さいせき)、我、若干部なるを知らず。その中、好書もとより多く、枚挙すべからず。然れども、義理純正にして雑ならず、論説広博にして明備し、学者の益を得ること窮まりなきものは、朱子の書にしくはなし。故に天下の理、その中に於いて、これを求めて得ざるもの、(すくな)し。譬えば、広肆(こうし)の中に入りて、有用の物を探究するに、求むる所としてその中にあらざるなきが如し。」[1]

益軒は「幸に朱子の後に生れて、その書を窺うを得るは、無窮の幸、又罔極(むきょく)の恩ありと謂うべし」といっている。しかし彼が窮まりなき恩義を朱子学に感じているその点において、朱子学は益軒なりに受容されたというべきだろう。私がさきにいったような学として朱子学は益軒に選択されたのである。闇斎からすれば、それは朱子学でもなんでもない、偽似朱子学にすぎないというだろう。

朱子学は益軒において再構成されたのである。益軒の学問と『益軒十訓』に見る教訓書の著述とは分かちがたい。彼が多くの教訓書を書いたということは、彼の学問や教説の受け手を益軒は知識世界の外部に広くもっていたことを意味している。己れの教説の不可避の受け手として知識世界の外部に存在する日常の生活者をもつことは、それらの生活者を学びの主体としても見出していくことでもある。このことは儒学自体が思弁的知識の地平の境外においていた実生活の地点にまで、すなわち人と交わり、事に関わり、物に対することからなる実生活の地点にまでみずからの学的視線を推し及ぼさねばならないことを意味する。あるいはむしろ生活の実地に推し及ぼしうることで儒学的知識の意義があらためて確認されねばならないのである。
新たな学び手として生活者を含み入れることで、儒学は新たに再構成されることになるのである。朱子学は益軒において再構成されたのである。『慎思録』『自娯集』そして『大疑録』は『益軒十訓』をもつ益軒にしてはじめてなされる儒学の、あるいは端的に朱子学の再構成作業(知識革命作業)の記録だということができる。

1−3「理的世界」の再構成

益軒における儒学的世界理解の前提になっているのは朱子学における理的なものとしての宇宙・世界の提示のあり方である。理的宇宙ないし理的世界のあり方を益軒はこのような言葉でいう。

「万物一理の中に生まる。故に一理の内陰陽五行四時人物具わる。天下豈理外の気、理外の物、理外の事有らんや。」(『慎思録』[2]巻之四)

「天下理外の事なし。或ひと曰く、天地の間、(また)理の外に出るもの亦多し。理を以て推し測るべからずと。知らず、此れ理外に出るに非ざることを。惟人の理を窮むることの未だ精しからず、故に其の常を知りて、未だ其の変を知らざればなり。」(『慎思録』巻之五)

益軒における儒学的な教説が本質的に一般性と公開性とをもって成立するのは、この朱子学における理的世界という理念によってであるだろう。この理念は宇宙における万物の存立を基礎づけ、自然と人間との、また人間相互の関係づけに基礎を与えるのである。一人益軒におけるばかりではなく、近世日本において、さらには東アジアの儒教文化圏において儒学が基本的にすべての人と存在とにかかわる教説としての一般性をもって成立しうるとすれば、それはこの朱子学における理的世界の理念を前提にしてである。この理的世界の理念はいうまでもなく朱子哲学の理気論・性理論が提供するものである。17世紀から18世紀への転換期に生きた貝原益軒もまた朱子哲学にしたがって「万物皆一理の中に生まる」といい、「天下理外の事なし」と断言するのである。だが朱子にしたがって理的世界をえがきだすかに思える益軒の言葉はあるこだわりを示しながら屈折していく。

「万物皆一理の中に生まる。故に一理の内に陰陽五行四時人物具わる。天下豈理外の気、理外の物、理外の事有らんや。譬えば四体百骸を具えて人と為すべし。苟も其の一体を闕かば、則ち全人と為すべからず。・・・理の陰陽二気を統べるも亦此くの如し。気を兼ねて之れを理と為すべし。苟も気無くれば則ち以て理と為すべからず。此の気、理の統べ有する所と為す。故に理を言えば則ち気も亦其の中に在り。理と気との離合を以て之れを言うべからず。先後を以て之れを言うべからず。宋儒之れを析かちて二と為すものは()え有るなり。蓋し天地の間、理を以て主と為し、而して気無くんば則ち輔翼を為すこと能わず。故に理は譬えば君の如く、気は譬えば臣の如し。分かちて之れを言わざれば、則ち理の主と為すこと明ならず。故に已むをえず此の説有るのみ。その実は析かちて二と為すべからず。後人、先儒の微意を知らず。妄りに分析して二物とするのみ。」(『慎思録』巻之四)

「万物皆一理の中に生まる」という言葉によって始まる益軒の理的宇宙の論は、朱子学をめぐって表明される益軒の疑義の重要な眼目をなす理気不可分論として実際は展開されていくのである。理と気とは分かつべからずという益軒の論は理が優先概念であることへの疑義の表明でもある。

「気なきの理なく、又理なきの気なく、先後を分かつべからず。いやしくも気なくんば、何の理かこれあらん。これ理と気と分かつて二となすべからず、かつ先に理ありて後に気ありといふべからざる所以なり。故に先後を言ふべからず。又理と気とは二物にあらず、離合を言ふべからざるなり。」(『大疑録』下「理と気と分かつべからざるの論」)

明儒羅整庵に追随してこの理気一体論を展開したとされる益軒は、理優先の思想に疑いを示すとともに、この理優先思想と表裏をなすとされる敬の尊重についてもその厳厲にすぎることを批判する。後儒における持敬は「色荘(しきそう)拘執(こうしゅう)(うわべにとらわれていること)」をもっぱらとし、「己れに矜り人を責め、刻薄不仁にして誹謗を好む」ような人間を作り出すことになるという。この理気不可分論をはじめとする益軒の朱子学への大疑を批判的に吟味する荒木見悟は、究極的な天理を志向しながら敬としての厳しい自己把持をみずからに課する朱子学本来の心的態度[3]を斥ける益軒からは状況順応的な和楽する世界が導かれるだけだという。この益軒の「修正朱子学」は徳川の太平の世にこそふさわしい学のあり方だという荒木の言は、益軒の対立する崎門派の儒者の言語と同様の厳しさをもっている。

だが「修正朱子学」を益軒に規定するこの理解、しばしば儒学研究者による朱子学思想史がするこの理解は、朱子におけるその哲学の本然を明らかにすることがあっても、朱子後継の儒者たちにおける思想営為を明らかにすることにはならない。「修正」とは本然からの逸脱であり、本来性の喪失であるだろう。益軒に修正主義を規定することは、彼における逸脱過程の指摘でしかないのである。この理解は本来主義とも呼べるような思想態度の表明であり、朱子本来を強く志向した日本の崎門派朱子学者がもった思想態度であり、純正の起源の究明を志向する近代アカデミズムにおける研究者の思想態度でもある。この本来主義的立場からは、修正をいわれる益軒の朱子学再構成が逸脱以外のいかなる思想的な意味をもつのかは全く明らかにされない。

1−4 博学と仁

理気の不可分であることを主張し、理概念の優先性を否認することは、この世界の諸存在を究極的にかくあるように根拠づけ、その世界に知的、実践的にかかわる主体の行為の正当性を根本において支えているような優越的な理概念による朱子形而上学の構成の拒絶でもあるだろう。この優越的な理概念なくして、それでは益軒において何が宇宙における彼の存在を根拠づけ、世界への彼のかかわりを正当化するのか。私たちはこの問いをあらためて彼に向けなければならないだろう。しかしこの最後に益軒に向けられねばならない問いを確認しながら、私たちは益軒における理気不可分という理的世界が、世界にかかわる何を、世界へのいかなる知的な、あるいは身体的なかかわり方を開示するものであるかを見てみよう。

「四方上下、之れを宇と謂う。往古来今、之れを宙と謂う。斯の身、天地の間に生まれ、万古の後に在り。宇宙の間の事、即ち是れ吾が分内の事、知らざるべからず。故に天下の理、古今の迹、君子の当に知るべき所なり。苟し之れを知らんと欲せば、博学に非ずんば、何を以てか為んや。」

「六書精蘊に云う。士の字、十に(した)がうは事の多きに象る。宇宙の内事は吾が職分内の事、一に从がう者は一以て之れを貫くなり。是れ士の字の意を説き出すと謂うべし。蓋し士は博く万事に通ずべく、一事に執滞することなくして可なり。」(『慎思録』巻之二)

この「博学」をめぐる益軒『慎思録』におけるよく知られた文章に続くもう一つの文章、上に記した益軒への最後の問いにも関連する文章をここに引いておきたい。

「禽獣は己れを愛して、物を愛することを知らず。是れ不仁に由れり。故に礼なく義なきは禽獣の道なり。人道は則ち然からず。己れを愛して又人を愛す。是れは之れ仁有るに由れり。是れを以て礼有り義有り。是れ人と禽獣の由て分かるる所なり。人苟し己れに便にして礼なく、己れに利して義なくんば則ち禽獣と何ぞ異ならんや。」

「物」と「事」と不可分・不可離な「理」の世界に存在する君子の任務として、あるいは士の職分として益軒は博く知り、博く学ぶという「博学」の意義をここに説き出している。世界に対する「博学」あるいは「博物」的な知的態度は学者のあるべき知的活動として前景化され、学者としての知的エートスを構成するものとされるのである。これこそ18世紀日本に具体的な、多様な成果をもって姿を見せてくる近世的知の、益軒における早い形の代表的な形成であるだろう。理は気と分かたれず、道は物と離れないという益軒の理的世界は、現実の多重多層の環境世界に向けられた窮理の眼差しを、また日常人事の世界に密接でこまやかな実際的な倫理的態度を養成するだろう。
「物の理」「事の理」としての理的世界の構成は、世界の事物に向けられた博く強い知的関心と人事への親近な実際的態度とを、もはや後戻り不可能な形で方向づけるのである。この「物の理」「事の理」に方向づけられた知と態度とは、自藩の歴史や自国の風土記の編纂からはじまって儒書以外にも本草や養生、事典類、礼書、そして教訓書などにいたる厖大な著作を残した益軒その人の人生に実現され、そして18世紀の社会のまさしく近世的というべき知をも構成していくのである。

「学者其の智を広めんと欲せば、必ず先ず多聞多見を(もと)むべし。蓋し多聞多見に非んば、何ぞ以て智を広むるに足らんや」(『慎思録』巻之二)と、「博学」を説く益軒は「多聞多見」といういわば経験知の拡大をいう。私がここでふたたび「博学」や「多聞多見」をとりあげるのは、益軒儒学におけるその特有の性格を明らかにするためである。私はいま益軒のいう「博学」や「多聞多見」を「経験知の拡大」といいかえたが、しかしこのいいかえは近代的な抽象化を免れてはいない。益軒が『中庸』にしたがっていう「博学」は、たとえその方向をもとうとも、ただ経験的な知識の拡大をいうことではない。益軒は『五常訓』で「人の身に、一つの大宝あり、これを名づけて智と云ふ」といい、「若し人の身に智なければ、天地に日月なく、人に耳目なく、暗夜に燈なきが如く、又家に主なく、軍に大将なきが如し」という。「心の光明」であり、「万の善悪是非邪正をわきまへ知る」この「人身の大宝」をもとめるには道があると益軒はいう。

「よき師友を求めて、其の教をうけて、よきすじの学問し、書を読み、ひろく見、多く聞き、よく思慮して、我が心に道理をもとめ、是を以て、心をひらき、智を明らかにすべし。師友に求むるの道は、我が身をへりくだりて、自ら是とせず、好んで人に問ひて、ひろく聞くべし。」(『五常訓』[4]巻之五「智」)

わが身の大宝である「智」を求める道が、「ひろく見、多く聞き、よく思慮して」と「博学・審問・慎思」に求められているのである。しかも「ひろく見、多く聞く」ことは自己に跼蹐(きょくせき)し、自分に矜る態度の否定とともにいわれる「心をひらく」態度である。道徳的な叡智への道が「博学」という知的態度とともに説かれるところに、益軒儒学における「博学」のもつ位相があるだろう。私たちが「博学」という知的態度に「公私」という公共性・公開性にかかわる道徳的姿勢を重ねて考える必要があるのはそのゆえである。

「恕を行ふは、公私の二つをわきまふべし。公とは私なきを云ふ。我が身を愛する心を以て人を愛し、我人のへだてなく、われひとりを立てんと思ふ私なきは公なり。是れ仁者の心なり。私とは、公ならざるを云ふ。我と人とのへだてありて、ただ我が身ひとつを利せんと思ふは私なり。」「仁恕公私の別をいはば、人我をへだてず、私なきは、公なり。公にして、愛の理行はるるは仁也。私ありて、人我をへだて、愛の理行はれざるは、不仁なり。」(『五常訓』巻之二「仁之上」)

ここで「公私」の区別は人我をへだてる私心を斥けて、他者に及んでいく道徳的共感力、想像力のひろがりにかかわって立てられている。「公」とは「私」をこえて物に、あるいは他者におよぶ「愛」であり、それは「仁」にほかならないのである。ここまでくれば益軒がなぜ己れを開く知的態度である「博学」に続けて「物を愛」する「仁」を説くのかが理解されてくるだろう。さきに引いた『慎思録』の「博学」の章に続けて益軒は、「禽獣は己れを愛して、物を愛することを知らず。是れ不仁に由るなり」といっていたではいか。私をこえてひろく人と物にいたる知、すなわち「博学」とは、私をこえて人と物に及ぶ道徳的共感力である「仁」と表裏をなすというよりは、前者は後者に支えらているのである。
私が益軒に最後に向けられねばならないとした問い、すなわち益軒において世界にかかわる主体を根拠づけ、そのかかわりを正当化するものは何かという問いにもすでに答えられたであろう。それをあらためて益軒に問えば、天地の物を生ずるの理、すなわち「生理」を「人の身に生れつきたる故」に人身に人と物に及ぶ愛が満ちている、だから「人の身即ち是れ仁なり」という言葉をもって答えるであろう。あるいは「唯仁者は物我の私の以て間隔を為すことなし」という言葉で答えるであろう。物を生じ、物を愛する「仁」、物我一体の「仁」の理念こそ益軒における開かれた知とみずからを開く主体を支え、その知の正当性を根拠づけるものであろう。

益軒の「博学」に、「物の理」「事の理」に広く及ぶ経験的知の成立とその拡大の要求を人は容易に見出すことができる。だが益軒の「博学」的知への近代的経験知の推定は、益軒のこの知の基底から「物に及び、物を愛する仁」を奪い去り、忘れ去ることでもあるだろう。


[1] 『大疑録』、『貝原益軒・室鳩巣』日本思想大系34、岩波書店、1970。

[2] 『慎思録』、『益軒全集』巻之二、益軒会編纂、益軒全集刊行部、1910。

[3] 「朱子哲学の枢軸をなすのが天理であるなら、その天理への志向態度を決する敬が工夫の根本とされ、一心の主宰・万事の本根と称されるのは。また当然のことであろう。」荒木見悟「貝原益軒の思想」『貝原益軒・室鳩巣』解説、日本思想大系。

[4] 『五常訓』、『貝原益軒・室鳩巣』所収、日本思想大系34、岩波書店、1970.

初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2016.06.13より許可を得て転載

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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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