秋晴れの三田キャンパスでの講義のあとで
退職後の今年も特別招聘教授といういかめしい肩書きで慶応義塾商学研究科・会計職コースの「現代会計論」(秋学期・半年開講)担当の非常勤講師として週一回出講している。10月27日は5回目の出講日だった。配布資料の準備のため、早めに三田に着き、正門を通って講師控室のある建物に向かう途中、重要文化財に指定されている図書館旧館前にさしかかったら、『三田文学』創刊100年展という看板が目にとまった。少し時間があったので入ろうかと迷ったが、講義のあと、ゆっくり見ようと思い直して通り越した。
講義のテーマはストック・オプションの会計の続きだった。株主総会にストック・オプションを付議する議案を提出した数社の議案書をプリントして配り、それを材料に講義を進めた。権利確定条件も権利行使条件も一様でないストック・オプション(1円ストック・オプションもあれば、権利付与日の株価×1.05円等の払込みを求める例もあるし、権利行使期間もさまざま)であるにもかかわらず、等価交換(報酬債権との相殺)を擬制して費用認識(対価性)を正当化している通説の論理の脆弱性を説明した。具体的な題材をもとにした説明だったせいか、受講生からは活発な質問が出た。それらを順次、議論して14時30分に終了。帰り道、急いで図書館旧館に入った。
『三田文学』の歩みを知るまたとない機会に
『三田文学』創刊100年展の展示会場は2階の大会議室だった。この図書館旧館に入るのは初めてだったが、下の写真に収めた掲示板に記されたとおり、この建物は明治45年4月に完成。外国人の手を借りずに建築された洋風の煉瓦館としては一級品という。震災・戦災の被害を修復して今も当初の遺構を留めているというだけあって、階段も会場に充てられた部屋も明治の風情を残していた。この展示会の概要は『三田文学』のホームページで次のように案内されている。
http://www.mitabungaku.jp/event10a.html
『三田文学』創刊100年展
会期 10月25日(月)~11月7日(日) ※土曜・日曜も開催
時間 11:00~18:00
会場 三田・図書館旧館二階大会議室
主催 三田文学会/慶應義塾大学文学部
協力 慶應義塾大学メディアセンター/慶應義塾図書館三田文学ライブラリ
「三田文学」という看板を見て私が覗いてみようという気になったのは、このブログの9月15日付の記事に写真を載せた「遠き日の石に刻み・・・・」という碑銘の作者・原民喜が代表作『夏の花』を掲載したのが『三田文学』(1947年6月号)だったこと、その前後(1946年~1949年)彼が『三田文学』の編集に携わった経緯があり、その当時の民喜の足跡を生の資料を知りたいと思ったからである。
展示室では『三田文学』の創刊以来の歩みが編集に携わった中心人物を軸にして次のようにコーナーが設けられていた(時期区分の番号付けは私の編集)。
1.創刊までの歩み(1910年)
2.荷風の時代――第一次(1910~16年)
3.沢木四方吉主幹による第二次『三田文学』(1917~25年)
4.三田文学の恩人・水上瀧太郎
5.水上瀧太郎に支えられて――第三次(1926~44年)
6.焼跡からの復活――戦後第一次(1946~50年)
7.戦後文壇の中の『三田文学』――戦後第二次(1951~54年)
8.文学の共和国――戦後第三次(1954~57年)
9.リトル・マガジンの矜持――戦後第四次(1958~61年)・戦後第五次(1966~76年)
10.21世紀へ――『三田文学』の新たなる出発 戦後第六次(1985年~)
原民喜の展示は上記6のコーナーのサブ・コ-ナ-として配置されていたが、いきなりそこへ進むのもどうかと思われ、1のコーナーから順路に従って回ることにした。予備知識がゼロに近かった私には知見を広めるのにまたとない機会になったが、印象深かったことを書き留めておきたい。
文学の共和国
*『三田文学』には慶応義塾関係者(三田派)ばかりでなく、創刊当初から開かれた文芸誌という特徴を持っていた。第三次の「三田文学」の編集に携わった水上瀧太郎は作品発表の機会に恵まれず、作家として不遇の時代にあった早大文学部退学の井伏鱒二が友人の紹介で持ち込んだ「鯉」と題する原稿を読んでその才能を評価し、1928年2月号に元原稿を改稿した同名の短編を掲載するよう取り計らった。また、同年の5月号にも「たま蟲を見る」を掲載した。これが井伏鱒二の文壇へのデビューの機会となったのである。さらに、松本清張のデビュー作「或る『小倉日記』伝」の発表の場を提供したのも『三田文学』(1952年9月号)だった。
このような『三田文学』の足跡を知ると、前記の展示図録の8のタイトルにある「文学の共和国」という言葉が確かに似つかわしい気がした。
*これと関連するが、文学者自身が名実ともに編集を支えて来たという点も『三田文学』の伝統を特徴づけるように思われた。特に休刊・復刊を繰り返した『三田文学』の中でも18年間(1926~44年)にわたる第三次の編集に尽力した水上瀧太郎は開かれた文壇誌をめざして各界の文学者に発表の機会を提供するとともに慶応の学生にも投稿を募り、自分の執筆を脇に置いて学生から寄せられた原稿に目を通し、添削を施したという。昨今の文学誌はそのほとんどが大手出版社の刊行誌として発行され、出版社の編集部が各分野に顔の利く人物に適宜相談を乞うという形で編集がされているのが実態である。これと対比すると、名実ともに文学者が編集を担い、刊行を支えた『三田文学』の伝統は特筆されてよいと思えた。
もっとも、創刊時の編集を永井荷風に委嘱したことを快く思わない空気が学内にくすぶり、1916(大正5)年には雑誌の運営をめぐって義塾側と意見が対立し、編集の職を辞している。このあたりは雑誌の自立性の難しさを物語るのだろう。
「夏の花」の元原稿となった被災ノートに見入る
時間も経ったので、この後のコーナーは早足で回り、お目当ての原民喜の展示コーナーに進んだ。正面に民喜のプロフィールが掲示されていたが、展示品の図録は後日刊行ということで会場では入手できなかったので、のぞき込みながら筆記した。
寡黙な証言者
――原民喜と「夏の花」――
最愛の妻を喪い、失意のまま広島の生家に戻っていた原民喜は1945年8月6日、原子爆弾による歴史的な被害者のひとりとなった。「このことを書きのこさなければならない」(「夏の花」)という思いに突き動かされるように民喜は1945年末には「原子爆弾」と題する作品を完成させ、義弟・佐々木基一を通じて『近代文学』に送付する。だが、占領軍による検閲を恐れた『近代文学』の荒正人、平野謙らは掲載を断念した。そこで民喜は『三田文学』の丸岡明に相談し、「夏の花」と改題、一部を削除した上で発表したのだった。民喜は妻と義弟以外の人間とは話をしないという伝説があるほどに極端に寡黙な人柄で知られていた。だが、その彼が人類の愚劣さを雄弁に物語る貴重な証言者となったのだった。
民喜のコーナーには、広島市立中央図書館所蔵の彼の「原爆罹災証明書」(昭和20年8月8日付)や、「夏の花」の元原稿となった2冊の「被災ノ―ト」が展示されていた。小さな字で手帳風の小型ノートにメモがぎっしり書き込まれているが、その中の1945年7~8月のメモを急いで筆記した。
「私ノ見タトコロデモ死骸ハ大概同ジヤウナ形ニナッテヰタ。頭ガヒドクフクレ、顔ハマル焦ゲ、胴体モ腕モケイレン的ニフクレ上ッテヰル。」
「廣島ヘ埋メタ品ヲ掘リニ出掛ケタ人モ、元気デ行タガ帰リハ病人トナッテヰルトカ。唇ノ端ヤ手ノサキヲ一寸怪我シテヰタ人モ傷ガ急ニ化膿シテ死ンデ行ク。」
広島の原爆作家(こういう表現は本当は好まないので、いずれ私なりに別の表現を考えたいと思っている)の中では目下、太田洋子の作品や彼女の伝記(江刺昭子著『草饐』)などを読んでいるが、原民喜についても詳しく調べてみたい気がした。
1時間余り見て回り、帰り掛けに展示図録の購入申し込みをして外へ出て、急ぎ足で電車を乗り継いで帰宅した時には日が落ちていた。
初出:「醍醐聡のブログ」より許可を得て転載
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion193:101031〕