原発ゼロは福島の人びとの真情 -世界平和アピール七人委員会が南相馬市で講演会-

世界に向かって「核兵器廃絶」「原発ゼロ」を訴えている「世界平和アピール七人委員会」は11月10日、東電福島第一原発事故の被災地福島県南相馬市で「福島の人びとと共に」と題する講演会を開いた。今年の文化功労章を受章したばかりの辻井喬委員(詩人・作家)の「中央集権の時代は終わった」とのスピーチを始め、被災した人々を撮り続けている。大石芳野委員が撮影したモノクロ映像の数々、原発と核兵器の時代は終わったことを検証した核物理学者小沼通二博士(委員兼事務局長)の報告、さらに世界中の人々がインターネットの「フェイスブック」を通じ「福島のお母さんたち」と連帯していることを紹介した武者小路公秀委員の発言に拍手が湧いた。

しかしこの講演会が感動的だったのは、大事故を起こした東京電力福島第一原発の放射能被災地に住んでいる人たちの声が聞かれたことだった。福島第一原発から20㌔圏内、つまり日本政府が「放射能被害があるかもしれないので退避せよと指定している区域で生きている人々の「生の声」であった。

とりわけ衝撃的だったのは、福島原発から12キロ地点の牧場で1年8カ月経った今も、400頭近い牛に餌と水をやるために、外から毎日通っているという吉沢克己さん(59)の演説だった。吉沢さんの父親は満州開拓義勇団に応募し、日本の敗戦後ソ連に抑留されて強制労働に服して3年後ようやく帰国、生きるために千葉県で農地を開拓し、農業経営者として成功したという人だった。吉沢さんは父の遺産(千葉の農地)を売った資金で父の故郷に近い福島県南相馬郡浪江町に牧場用地を買い、300頭の牛を飼う酪農家となった。

そこへ2011年3月11日、東日本大地震・大津波・東電原発事故が起きた。3月12日福島原発1号炉の建屋は水素爆発を起こし、放射性物質は空中に飛び散った。放射性物質は福島県の各地方やそれ以遠に飛び散ったが、日本政府は「直ちに住民の健康に被害を及ぼすレベルではない」との“安心メッセージ”を流した。しかしこの安心メッセージはその後の検証で、文部科学省と経済産業省が現地住民に「パニックを起こさせない」ために流したインチキ広報資料だったことが判明した。

「直ちに健康に被害を及ぼさない」はずの放射能が、本当は人体にかなり危険なレベルであることを承知していたはずの政府は、間もなく30キロ以内を避難区域に指定。避難区域への立ち入りを禁止した。それでも毎日牛に餌をやりに来る吉沢さんは非合法な人物とされ、彼が育てた牛は日本政府の方針に従えば「殺処分」される運命にあった。しかし吉沢さんは殺処分に従わなかった。

吉沢さんが原発事故後「原発一揆」のスローガンを掲げて、福島県南相馬郡浪江町の牧場で400頭近い牛(過去1年8カ月の間に自然分娩で牛の頭数が増えた)に水と餌をやっているのは、酪農家としての意地でもあり、平気で家畜の殺処分を強制する中央の官僚に対する反逆である。吉沢さんにしてみれば、福島の貧しい農家に生まれた父は時の政府の宣伝に乗せられて満州に入植、関東軍に見捨てられた敗戦後シベリアに3年間抑留されるなど、国に裏切られ続けた。その父の怨念を込めた牧場を見捨てられるか。

「原発は安全」「原発が福島を豊かにする」という、きれいごとの文句に胡散臭いものを感じていた吉沢さんたちは、今度の東電原発事故以前から地域独占の電力会社とこれを支える日本政府に不信感を抱いていた。だから現在、牛に飲ませる給水や給餌システムなど牧場に必要な電力は、牛舎の屋根に置いた太陽光発電でまかなっている。放射能を浴びている乳牛から毎日絞るミルクはただ捨てるだけだ。お金のことだけ考えるなら全くの徒労である。しかし吉沢さんは生きている牛を殺すことは忍びないし、放射能を浴びた牛が被曝医療研究のための検体になるかもしれないという望みを秘かに抱いている。

さて七人委員会の講演の皮切りは、辻井喬委員の文化功労者受賞後初のスピーチだった。優しい表情の辻井さんは、日本は明治維新以来100年以上も中央集権の官僚制度を続けてきたが、今こそ地方自治に切り替えるべき時を迎えていると指摘。明治維新後の日本人は「富国強兵」を合言葉に頑張らされた。愚かな戦争に負けた1945年以降、われわれ日本人は「強兵」のない「富国」でがんばってきた。しかし国が豊かになっても国民すべてが幸せになったわけではない。そこで起きた大地震・津波・原発事故を体験した福島の人々に「導かれて」こそ、日本人はこれから何を生き甲斐とするかを学べるのはないかと結んだ。

辻井さんの後は、大型スクリーンに映し出された大石芳野委員撮影の写真の数々に会衆は見入った。地震と津波による被害の爪痕もさることながら、原発事故のために自宅を、畑を、故郷を捨てて避難せざるを得なくなった人びとの姿、表情である。耕作を放棄せざるを得なくなった田畑の荒れた姿。しかし耕作を放棄せざるを得なかったおじさん、おばさんたちの顔に刻まれたしわとうつろな視線。それは何万言を費やしても表現しきれないモノクロ写真の力だった。

大石委員の次は、日本初のノーベル賞受賞者湯川秀樹博士のお弟子さんでもある小沼通二博士。小沼さんは「七人委員会」の事務局長でもあり、物理学者とマネージャーの両方をこなせるタレントだ。原子物理学者としての小沼さんは、パソコンのパワーポイントを駆使し大型スクリーンに講演内容を図示しながらの説明。原子核分裂で発生する膨大なエネルギーが核兵器と原子力発電の源であること、核分裂がもたらす有害な放射性物質が、長いものでは10万年にわたって動植物の生命に危険であること。そして結論は、21世紀の世界には核兵器も原子力発電も「時代遅れ」で、ともに消えて行くべき運命だと。

「世界平和アピール七人委員会」は、1954年に南太平洋ビキニ環礁で行われた米水爆実験で日本人漁船員らの被曝の悲劇を繰り返してはならないと考えた、英哲学者バートランド・ラッセルや天才科学者アインシュタイン博士らが、核兵器廃絶と世界平和を訴える声明を1955年に発表したのを受けて発足した。第2次世界大戦後、2度と戦争を起こすべきでないとする世界連邦運動の下中弥三郎平凡社社長の呼びかけで、湯川秀樹博士、植村環(日本YWCA会長)、茅誠司(東大総長)、上代たの(日本女子大学長)、平塚らいてう(日本婦人団体連合会会長)、前田多門(文相)の知識人7人で結成。以後逝去したメンバーの後をその都度入れ替えて今日まで57年間、世界に平和と核兵器廃絶を訴え続けてきた。

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