ドイツの日刊紙『ディ・ヴェルト(世界)』は映画女優原節子の訃報記事に「日本人に対しては西洋的な美を、西洋には理想の日本人女性を体現した」と書いた(『東京新聞』、2015年11月27日夕刊、「共同」)。これは多くの日本人の感性に訴える妥当な指摘だと私には感じられる。
2015年9月に他界していた原節子はある種の「聖性」をもっていたと思う。ここで私のいう聖性は、宗教的でもなく神秘的なものでもない。「日常性」、「大衆性」と対置できる「純粋さ」、「生活臭のなさ」、「抽象性」というほどの意味である。難しいことをいうつもりはない。たとえば林芙美子の『浮雲』の主人公は高峰秀子によって見事に表現された。それが原節子によってヨリ見事だったろうという想像は難しい。これは高峰をおとしめるのではない。たとえば『或る夜の殿様』(衣笠貞之助)で高峰秀子は美しい令嬢を好演している。
優れた映画作家は彼女の聖性を重要な資源として、「理念」の映像化を図った。
今井正は『青い山脈』で、黒澤明は『わが青春に悔なし』で、木下恵介は『お嬢さん乾杯』で、吉村公三郎は『安城家の舞踏会』で、それぞれの手法で「戦後民主主義」や「自立する女性」や「新生活を受容する勇気」という理念を原節子を通して映像化したのである。総じていえば、作家たちは原節子を「世間知らず」の世界から「日常性」の世界に引き入れる実験によって、戦後的「理念」を逆照射して観客に訴えたのであった。美人女優原節子の日常性への自己投入、または現実受容は一面で観衆に救済感を与えた。しかも現実の受け入れは、妥協ではなく戦後的理念の実現またはその再構成であった。
小津安二郎の場合は上記の作家たちとやや異なる。理念と現実との微妙なバランスがその核心である。小津へ反発する若い映画作家としてスタートし、のちに小津の評伝『絢爛たる影絵』の著者となった高橋治は、「そこにあったものがなくなる」を描くことが小津の思想だったと書いている。私はこの短い指摘を小津評価の最高の言葉として記憶している。私はそれを「最も美しいニヒリズム」と翻訳して記憶してきた。
NHKBSが、原節子追悼として放映した『東京物語』を観て、私は戦争が小津に与えた衝撃の強さを感じた。日中戦争で毒ガス作戦にも参加し、中国人を殺めたであろう映画作家は、戦争を直接画面に表現することはなかった。戦後日本の映画界で、とりわけ戦後中期までは、戦前・戦中の小津は非力ながらも抵抗者として評価され、戦後の小津は戦争への考察や批判なしに小市民の生活を描く現実肯定派として評価されてきた。
『東京物語』の場合、原節子の扮した平山紀子は戦争未亡人である。登場するときに彼女は既に日常性のなかにある。しかもその日常は八年前の夫の戦死によって傷ついている。だが未亡人として「家父長制社会」の秩序を守っている。『堕落論』(坂口安吾)の戦争未亡人とは対極の生活をしている。尾道から上京した夫の両親(笠智衆と東山千恵子)の接遇は、多忙な町医者の長男(山村聡)と美容院経営の長女(杉村春子)によって紀子に任された。彼女は両親に優しい態度で接した。それは夫への愛情表現の代償行為であったであろうし、同時に封建道徳への順応でもあった。彼女に両親が再婚を勧めるのは善意からには違いないが、それは彼女を平山家から排除する言葉である。両親はその残酷さをどこまで意識しているのか。日常性のなかで「純粋さ」を続けることに迷いが生じていることを紀子は義父に告白する。小津は、戦争未亡人紀子に「傷ついた日常性」から、自身で切り開く人生への選択を迫って映画にエンドマークを打った。紀子は義母の形見の時計を使うであろうか。小学校教師の次女(香川京子)は夏休みに東京の紀子を訪ねるであろうか。
小津安二郎は人間存在の普遍性を描いた映画作家として世界的に高く評価されている。とくに『東京物語』は、世界映画史上の最高作品という栄光に輝いている。私はそのことを誇りに思う。
同時にこの作品は、過ぐる戦争を背景にした静かな反戦映画であり、我々への問題提起であることを私は徐々に感ずるようになった。戦死した夫を「思い出すことのない日もある」という紀子の台詞は、我々の戦争忘却への警告だと思うようになった。
原節子の他界は「戦後の終焉」を象徴している。小津が言いたかったであろう「大東亜戦争はなかった」という考察が現実になりつつある。ラストシーンで香川京子の目に映る静かな内海は、南シナ海にもホルムズ海峡にも続いている。
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