原節子の戦争は『新しき土』(1937年)から始まった。
日独合作の日本最初の本格的「国際映画」である。1920年生まれの原節子が、横浜高等女学校をやめて女優になったのは1935年である。家庭の経済的事情と義兄の映画監督熊谷久虎(くまがい・ひさとら)の勧誘によるという。
当時の時代背景を年表から少し書きだしてみる。
1932年 「満州国」建国宣言、五・一五事件、独総選挙でナチス第一党に
1933年 ヒトラー首相就任、日独が国際連盟脱退を通告、京大滝川事件
1934年 『国体の本義とその強化の提唱』(陸軍パンフ)頒布
1935年 美濃部達吉の天皇機関説事件、二度にわたる国体明徴声明
1936年 二・二六事件、ベルリン・オリンピック、日独防共協定締結
1937年 盧溝橋事件(日中戦争の開始)、イタリア日独防共協定に参加
日本の映画人は、それまで外国映画が描く日本に不満であった。エキゾチシズムに彩られた奇妙な日本に苛立っていた。本物の日本を「発信」したい、輸出もしたいと考えていた。一方、ナチス政権は大衆動員の重要なメディアである映画の育成に注力していた。女優出身の監督レニ・リーフェンシュタールによるナチス大会の記録『意志の勝利』(33年)やベルリン五輪の記録『民族の祭典』、『美の祭典』(38年)はその成功例である。
『新しき土』の監督となるアーノルド・ファンクは、ロマン主義的な山岳映画の監督として知られていたが、レニ主演の『SOS氷山』(33年)は、ナチス宣伝相ゲッベルスの絶賛を受けた。このように両国映画人や政府の交錯した思惑が、日独合作映画『新しき土』を生んだのである。
『新しき土』はどういう映画なのか。
主人公輝雄(小杉勇)は婚約者光子(原節子)をおいてドイツ留学し、西洋近代主義の洗礼を受け帰国船中でジャーナリストのドイツ女性と懇意になる。帰国直後の彼に封建的な日本の制度は全てが桎梏に見えた。光子の父(早川雪洲)は困惑し親族会議を開く。光子は絶望して火山で投身自殺をはかる。気持ちが落ち着いてきていた輝雄は、日本的価値に目覚めて光子を救う。ラストシーンは、満州の大地に日本兵に護られて働く開拓民一家、すなわち輝雄と赤児を抱く光子の姿である。『新しき土』である。
この概要だけでかなり不自然な物語であることを察することができる。
脚本はファンクが書いたが、日本人の補助者が必要となり伊丹万作が共同監督となった。英米的モダニズムの作風を特色としていた伊丹にとって不満の多い筋書きであった。輸出を目論む川喜多長政の説得などもあり、結局ファンク版と伊丹版の二つが作られた。ファンク版のタイトルは『サムライの娘Die Tochter des Samurai』であった。ファンク版は、日本の風物の美や伝統、工業化の急展開、信頼に足る同盟国、満州進出の正当化などを描いている。一言でいえばオリエンタリズムによる日独同盟のプロパガンダである。火山の描写に得意技がうかがえる。伊丹版はファンク版の特色を削ぎ取る工夫を凝らしたが、伊丹の困惑を表現した作品に終わった。
日本では37年2月に、まず伊丹版が、続いてファンク版が公開され、いずれもヒットしたが、ファンク版の方がヨリ好評だった。ドイツの一流監督に美しく描かれた日本と日本人に観客は感激したのであろう。冷静、公平で批判的な批評は少なかった。
ドイツで3月に公開された『サムライの娘』は大ヒットになった。二ヶ月で600万人の観客を動員し最長の興行記録を残した。ベルリンでの公開日にはヒトラー、ゲッベルス、ゲーリングらナチスの首脳部が来場した。日本大使館でのパーティーで和服姿の原節子とゲッベルスが並んで写った写真が残っている。
冒頭に「原節子の戦争は『新しき土』(1937年)から始まった」と書いたのはこのことである。17歳の美少女は、三月から七月までの間、初めて外遊した。熊谷久虎、洋画輸入業者である川喜多長政・かしこ夫妻とともに、実質二ヶ月の間、ドイツ各都市を宣伝キャンペーンのために巡った。その間、多くのナチ関係者と会い、ヒトラー・ユーゲントの訓練所を見学し、ウーハー映画撮影所を訪ねた。パリでは人民戦線にコミットして『ラ・マルセイエーズ』や『大いなる幻影』を撮ったジャン・ルノアールに会っている。帰路はアメリカを回った。ハリウッドやニューヨークで知った映画先進国のシステムには学ぶものが多かった筈である。熊谷はもともと愛国的感情の強い人物だったが、公式行事の歓迎の裏で、人種差別を受けたことに衝撃を受けた。戦後の回想で熊谷はこう書いている。
「欧米を巡った五ヶ月のこの旅行は、自分が日本人であると云う自信を全く喪失してしまった。海外に在住する日本人の卑屈さもさる事ながら、三国同盟(ママ)を結んだ直後のドイツ人にすら、極端に言えば、人間扱いされない、つまり自分など白色人種以外は人間ではないよと云う態度なのである」。
それは更なるナショナリスティックな心情への傾斜をもたらした。実際、熊谷は帰国後の一時期、反ユダヤ主義的な「スメラ塾」なる右翼組織の実践運動に深く関わっている。原節子はこの義兄の考え方に多分に影響を受けたらしい。それに関しては、原が主演した『望楼の決死隊』(1943年)の監督今井正の証言がある。川喜多による『新しき土』の売り込みはヨーロッパでもアメリカでも失敗に終わった。
戦後に「民主主義」の理念を演じた原節子は、大東亜戦争中には兵士を戦場へ送り出す「銃後の女性」を美しく演じた。私の印象に残っているのは、『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎・42年)、『決戦の大空へ』(渡辺邦男・43年)における、兵士を激励し見護る「姉のような」女性像である。「若き血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨」という歌詞は後者の主題歌「若鷲の歌」である。満州と朝鮮の国境に出没する「共匪」(共産匪賊=抗日ゲリラ)と戦う女性に扮した『望楼の決死隊』は例外的に直截なケースだったといえよう。
本稿の『新しき土』に関する情報はその多くを、四方田犬彦著『日本の女優』(岩波書店、2000年)に学んでいる。(2015/12/11)
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