「原節子の戦争と平和」を書いていると関連する幾つかのテーマに導かれる。
一つは、俳優は職業の社会的な意味をどう考えているのか。
二つは、日本の映画人は戦争と平和をどう考えてきたのか。
三つは、映画観客はそういう問題をどう考えてきたのか。
こう書くと「たかが映画ではないか」、なぜそんなに問題を広げるのかという声がきこえる。「されど映画である」が私の答えである。20世紀の大半を通して映画はイデオロギーの拡散装置として大衆の心を掴もうとした。特に戦中の戦争映画はそうである。
1986年に行われた対談「戦争のなかのヒーロー」は、戦中に日本軍人を演じて活躍した俳優藤田進を相手にして監督・脚本家廣澤榮が俳優の回想を聞いたものである。
藤田進(ふじた・すすむ、1912~1990年)は、東宝で『海軍爆撃隊』、『ハワイ・マレー沖海戦』、『加藤隼戦闘隊』、『雷撃隊出動』などに出演し、非戦争作品では『姿三四郎』、『続姿三四郎』、『指導物語』などで豪快な日本男子を演じた。二人は撮影所時代の思い出を語っているが中に次の会話がある。
廣澤 キネマ旬報の『映画俳優全集』というのにご自身でおっしゃった言葉だろうと思いますが、《敗戦のとき、軍国主義のヒーローとしての自責から俳優をやめようと思うが、代わる職業も考えつかぬまま続けることにする》とありますが。
藤田 そうです。その通り。戦争が終わったが、じゃ何をやるかといっても、ぼくにはそれだけの能力がないわけで、また切り替えもきかない。それにすっかり嫌気がさして・・・。ということは、野坂参三が帰ってきたとき、代表で挨拶しろとかつぎ出されちゃったんです。その交渉にやってきたとき、おれは嫌だ、今まで軍の旗を振って、ちょうちん持ちをやってて、いま負けたからといってすぐそういうことはおれにはできない、って断ったんですが、みんなで検討したことだから是非やってくれといわれて・・・。そうしたら朝日新聞で、荒畑寒村なんかに、ずばりオポチュニストだと叩かれました。また一方では、お前は共産党に入党したのか、などといわれたりして・・・。とにかく、一般社会の人もそういうに感じておられるのだろうと思いました。また、飲み屋へ行けば行くで、「藤田さん、ぼくは、あなたの映画を見たんで海軍に志願した」とか、「特攻隊へ行ったんだ」とか言われると、やっぱり感じますよ、あんたの映画を見たからこうなったのだと・・・(笑)。
廣澤 私も、助監督の下っ端のカチンコ打ちだったけれど憲兵隊後援の防諜映画づくりに参加していた。それはまぎれもなく戦争に荷担し、加害者だった。そういう痛みは感じていますね。
藤田 ですからね、私はできるだけ表だったことはやりたくない、だからテレビなんかに誘われるんですがね、おれをそこまでさらし首にするなよと・・・。たまには断りきれずに出ることもありますが。
廣澤 あれだけおやりになって、どこかむなしかったということを言っておられますね。
藤田 それはもう、むなしさというのは今いわれたように、ぼくの心のどっかに、そういうむなしさというものが絶えずあったんだなあと、自分で思いますね。
(『講座日本映画4 「戦争と日本映画」』、岩波書店、1986年)
藤田は、戦後もしばらく映画出演を続けたが、60年頃からは会社経営に転じ映画出演回数は減った。1944年12月公開の『雷撃隊出動』(山本嘉次郎)で一式陸攻に乗り米戦艦に体当たりした藤田進は、1946年9月公開の『わが青春に悔なし』(黒澤明)では、滝川幸辰をモデルとした学者の弟子に扮し、娘に扮した原節子と結ばれたあと悲劇を迎える。死の四年前に、「タタキ上げ」の俳優の脳裏に、この時期の記憶が蘇り「野坂参三」「荒畑寒村」「オポチュニスト」などの単語が発せられたのは興味深い。
藤田進への問いは、岩波的発想からおそらく例外的に発せられたのであって、俳優の戦争責任は映画界全体では周辺的なものだったようである。今回は一つ目のテーマで終わる。(2015/12/16)
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