反体制派の百科全書たる役割:白川真澄「脱成長のポスト資本主義」(社会評論社2023年)読書のお薦め

 ちきゅう座の何かの記事で、白川真澄という名前をみたとき、50数年前の記憶が少し心の痛みをともなって甦ってきた。70年安保を少し過ぎた頃だったか、旧構造改革派で、学園紛争中に過激派路線に転向した――当時「一周遅れのトップランナー」と揶揄された――弱小セクトである統社同と共労党は、愚かしくも内ゲバに突入した。たまたま私は病気で休んでいたので、現場に居合わせなかったものの、当時も口には出せないが、何という愚かしいことをと感じた。そのとき共労党の実質的なリーダーが白川真澄氏であった(たぶん)。何かの機会に白川氏の文章に触れてなかなかできると感じていたし、写真で見る白川氏は白皙の美青年であったので、こんな人とゲバるのは嫌だと思ったことは覚えている。
 それから半世紀余、ちきゅう座の事務局長のメンバー数人が、白川氏の著作の出版記念パーティに参加するというのを耳にして、心がすこし騒いだ。その後白川氏が主宰する講演会に出席したり、月刊紙「テオリア」を定期購読したりして、氏との距離を詰めていった。そしてようやく氏の主著となるであろう「脱成長のポスト資本主義」にたどりついた、つまり読む気になったのである。
 日本の失われた□□年と言われて久しいが、そうしたなかいろいろな論者が日本経済の再生の構想を語っている。白川氏の著書もそうした中の一冊といえば一冊なのであるが、しかし他の追随を許さないのは、氏が60年代以降の反体制運動の流れを途切れさせず、その流れに掉さしながら理論的実践的な研鑽を重ね、その成果として日本再生の展望を語っていることである。68世代の運動総崩れの状況にありながら、幻滅に抗して初心を貫き、生きた現実と諸々の運動と直に接触を続け、ひとつのイデーに結実させた、そのご苦労に感謝申し上げたい。
 この書を紐解かんとする人は、まず<あとがき>を読むことから始めることをお勧めする。「脱成長のポスト資本主義」という氏の構想が、的確にまとめられている。体制側の多くの論者は、長期停滞の状況からの脱出路を高い経済成長の復活に求めているが、しかしそれは不可能であろうとする点では、左翼リベラルは概ね一致している。労働人口減少、環境上の制約増大、イノヴェーションの不確実性などの成長阻害要因に加え、低金利、利潤率低下の常態化が示す資本の本質的制約――インフラや大型消費財など飽和状態であり、投資しても利潤があげられない――のために、経済成長は見込めないとしている。
 それに対する左翼リベラルのオルタナティブとして登場したのが、脱炭素化のグリーン・ニューディールによる成長策。労働分配率を上げさせて個人消費の活発化をはかり、また情報通信や金融などの新分野を開拓して成長を図るとするが、この分野では必ずしも雇用の拡大にはつながらない。いずれにせよ、白川氏は、成長という枠組みにこだわる限り限界があるので、根本的解決にはならないとする。
 そこで脱成長という新たなイデーを提起する。利潤のあくなき追求を図る成長社会ではなく、人々の切実な社会的必要性(医療、介護、子育て、教育などのケア労働)の充足を最優先とし、連帯型の社会に舵を切る。そして再生可能エネルギーと食の地域自給を推進する。東京一極集中型の経済社会から、地方分散のネットワーク型の経済・社会に組み替え、巨大企業主導型の経済から中小企業・協同組合・自営業のネットワークが先導する経済に転換する等々。
 こういう言い方だと何かしらユートピア社会主義めいて聞こえるが、白川氏の場合、それらのオルタナティブは、それぞれが世界の地域運動、大衆運動の豊富な事例と結びついており、机上の空論ではないことがわかる。白川氏は、「『ポスト資本主義』の中身をもっと具体的に!」として、氏の構想の裏付けとなる現実にこれからも切り込んでいく意欲をみせている――このことは理論の検証に役立つ事例探求という面と、豊富な事例から新たな理論を構築するという面を含んでいる。
 そこで隴を得て蜀を望むの感はあるが、二三、白川氏の理論活動への要望を述べて締めくくりたい。
 脱成長論者に共通していることであるが、構想がまだまだ抽象的であり、そのままを政策提言とすると、一種原理主義の罠にはまってしまうのではなかろうか。政治運動にせよ、宗教運動にせよ、原理主義は過激な現状変更を求める傾向を帯びがちである。脱成長が説得力をもつには、イデーと現実とをつなぐ過渡的改良的な政策が不可欠であろう。最低限、選挙のマニフェストとして使えるだけの具体性がなければならない。選挙で勝てる政策提言まで具体化すること。そしてグリーン・ニューディール派などとも一致点を見出し、左派リベラルの戦線を広げることであろう。いずれにせよ、生活苦が拡大しているなかで左右のポピュリズムが大手を揮っている状況に対抗するには、戦線を狭めてはならないのである。
 白川氏に限らない、われわれ全体の課題であるが、白川理論が依拠した現実は、主にミニュシパリズムなど地方自治にかかわる社会運動である。変容した資本主義の下での新しい階級闘争の分野として、それらの領域がますます重要な意味をもっていることは理解できる。しかしそれでも欠けているのは、生産点での生きた現実である。現代における職場の労働疎外の状況をわれわれはもっと知るべきであろう。そしてそのことに関連して、脱成長論者におしなべて欠けているのは、産業論・産業政策である。ケア労働の分野が基幹産業になるという説明にどれだけの人が納得するであろうか。厳しい国際環境の中で、いかにして日本は、そしてわれわれ一人ひとりは日々稼いで生きていくのか、この点の納得できる説明がなければ、脱成長論はインテリの机上の空論視されてしまうであろう。
 これもまた脱成長論者に共通する傾向であるが、国家の役割を軽視しがちである。とくにアジアにおいては、社会を変える梃子として国家の役割は無視できない。下から運動を積み上げていくだけでは、永遠にトップには届かない。そういう意味で、国家権力の問題はいぜん革命の重要なファクターにとどまるであろう。
 最後にマルクス主義者を自称する脱成長論者(たとえば、斉藤幸平氏)に、ぜひお願いしたいところであるが、脱成長論はマルクス主義の理論体系、たとえば唯物史観との整合性はいかなるものか、に答えてほしいと思う。マルクスの「生産力」概念と脱成長との関連をめぐっては、一度論争があったと思うが(恐縮だが、長いこと知的に不毛な外国にあったので、個人的には空白がある)、スコラ論議に陥らないように注意しつつ、この種の論議を再開してほしいと願う。
 最後の最後であるが、白川氏は脱成長論が経済論にとどまらず、主体形成の哲学、価値論に関わることを指摘している。それはポスト資本主義へのパラダイム・チェンジには、人々が成長社会の所産である現状の利便性のある生活様式を、より簡素なそれに自ら変える意志を持ち、行動することが不可欠だということである。巨大資本が振りまく効率性、利便性という価値の優位性に対して抵抗線を築くことである。そのために知足(足るを知る)、清貧といった仏教的伝統的価値観から学ぶこともありえるであろう。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14499:251103〕