10月15日から新聞週間が始まった。これに先立つ同月8日、東京・日比谷の日本プレスセンター内の日本記者クラブで、元朝日新聞記者・川島幹之(かわしま・もとゆき)さんを偲ぶ会があった。「日本報道界の拠点」といわれる同プレスセンターで行われる報道関係者を偲ぶ会と言えば、著名なジャーナリストを対象としたケースが大半だから、いわば無名の記者だった川島さんを悼む集いがここで開かれたことは特筆に値する。彼がいかに多くの報道関係者に愛され、慕われていたかを示す集いだったと言っていいだろう。
川島さんは1945年6月、両親が疎開していた埼玉県加須市で生まれたが、母の父は七代目林家正蔵、弟は初代林家三平。いうなれば川島さんは林家三平の甥である。
立教大学を卒業すると1969年に朝日新聞に入社し、甲府、福島、北埼玉の各支局員を経て北海道支社報道部員に。この間、甲府支局時代に結婚。その後、東京本社と西部本社の運動部員、東京本社整理部員、名古屋本社運動部次長、大阪本社運動部次長、東京本社運動部次長、大阪本社運動部長を歴任した。
2005年に定年を迎えたが、その後もシニアスタッフとして鹿島(茨城県)支局長、横手(秋田県)支局長を務め、2012年8月、朝日新聞社を退社した。
これらの社歴からも分かるように、川島さんは専ら運動部記者だった。運動部とはスポーツを取材する部署。つまり、ほぼスポーツ記者一筋だったわけである。現役時代の記事には『スポーツ界列伝』『スポーツ小噺』といったものがある。
仲間同士の宴会では落語を披露することもあった。だからだろう。あだ名は「サンペイさん」だった。
偲ぶ会には、かつての上司、同僚、後輩、それにリタイアしてから参加した市民団体の関係者ら約90人が集まった。特に印象に残ったのは、追悼の言葉を述べたすべての人たちが、口々に川島さんの人柄を讃えたことだった。そればかりではない。会場で配られた『ありがとう川島さん―川島幹之追悼集』に追悼文を寄せた人たちも皆、こぞって彼の人柄をほめていた。
曰く「いつも穏やか」「思慮深く温厚」「明るく、さわやか」「洒脱な人柄」「粋で潔い」「無類の人の良さで、私たちを魅了した」「何ごとにも誠実だった」「正義感あふれる心優しき男だった」「生き様を通して、人間としての優しさと強さを教えて下さった」・・・
偲ぶ会で、かつての同僚の1人は「川島さんが人の悪口を言うのを聞いたことがない」と話した。大阪本社運動部長時代の部下も、追悼集に「(川島さんは)いつも泰然自若として、大人の風格。・・・一癖も二癖もあり『俺が、オレが』意識の強い新聞社にあって、貴重なおおらかさを有していた」と書いている。
一般的に言って、新聞記者は他人をほめることが少ない。むしろ、他人に対する論評は痛烈無比だ。そういう世界を生きてきた者からすると、特定の記者に対するこれほどの絶賛は聞いたことがない。
こうした賛辞が通りいっぺんのお世辞でないことは、私が保証する。なぜなら、私もまた、これまで彼の人間性に接する機会がたびたびあったからである。
私が初めて川島さんに会ったのは、1974年3月、朝日新聞北埼玉支局(埼玉県熊谷市)でだった。当時、朝日は埼玉県北部で販売部数を増やそうと、それまでの熊谷通信局(1人勤務)を支局に格上げし、支局長と支局員5人の計6人を投入して北埼玉版づくりに当たらせていた。支局員が異動し、新たに甲府支局からに赴任してきたのが川島さんで、私は支局長だった。もっとも、その後、私は社会部で、川島さんは運動部でそれぞれ働くようになったから、同じ新聞社社内にいても疎遠な間柄になった。
ところが、それから39年後の2013年、私が参加している朝日OBの集まりに川島さんが加わったことから、つきあいが復活。翌14年の3月、私が関わる団体が企画したキューバ・ツアーに誘ったら、「一度行ってみたかった国だから」と即座にツアーに加わり、私たちは一週間、旅を共にした。
しかし、帰国後間もなく、川島さんは肺がんを患い、今年5月2日に亡くなった。70歳だった。だれもが驚いた急逝だった。
結局、支局での付き合いも、朝日OB会での付き合いも極めて短期間であったわけだが、そこで私が得た川島さんについての印象を言えば、偲ぶ会で同僚や後輩が話したり、追悼集に寄稿している人たちが抱いた印象と同じであった。
それにしても、私にとって最大の驚きは、川島さんが、横手支局長を退任して埼玉県越谷市へ移って以降、脱原発の集会に参加したり、安倍政権による集団的自衛権行使容認の閣議決定や安保関連法案に反対する行動に参加していたことである。
追悼集によると、川島さんが参加していた行動の一つが「南越スタンディング」。市民一人ひとりが「9条壊すな!」「戦争させない」「アベ政治を許さない」などと書かれたプラカードを掲げて週2日、越谷駅頭に立つ。肺がんが発症してからも、川島さんはスタンディングを止めなかった。
偲ぶ会には、一緒にスタンディングをやっていた市民2人がかけつけ、「リハビリもしているというので、たとえ車いすになっても、いつの日かスタンディングに復帰してくれると思っていました。川島さんの逝去はあまりにも早すぎます。今の政治を立て直すため、まだまだ一緒に行動してほしかった」などと、早世を惜しんだ。
彼は、私とのつきあいの場では政治に関して語ることはなかった。それだけに、こうした彼の一面を知って私は驚いた。そして、何が彼をこうした行動に突き動かしていたのだろうかと考えてきたが、追悼集を手にして納得がいった。
秋田県横手市と言えば、去る8月21日に101歳で亡くなった反骨のジャーナリスト、むのたけじさんが在住していたところである。よく知られているように、戦意高揚のための記事を書いた責任を痛感し、敗戦の1945年8月15日に朝日新聞社を去り、郷里秋田県の横手市で週刊新聞『たいまつ』を発刊しながら反戦平和を訴え続けた人だ。
追悼集によれば、川島さんは横手支局在任中にたびたび取材でむのさんを訪れ、その話に大変感銘を受けたという。よく「とってもかなわないや、すごい人だよ、いくとはっぱをかけられるんだよ」と話していたという。同じ新聞社の先輩、後輩としてウマが合ったのかもしれない。
先輩記者だった武田文男さんが、追悼集に書いている。「(川島さんが入院前に病躯を押して“戦争法案”反対デモに加わったのは)百歳を超えて、なお反戦を唱える むのたけじ先輩へのエールだったのでしょう」
むのさんの影響もあって、川島さんもまた、1人の人間として日本の前途に危機感を募らせていたのではないか。だから、病身にもかかわらず、その危機感を行動に移していたのだろう。そこにまた、私は彼の「誠実な生き方」を見た思いだった。
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