反戦平和の創価学会はどこへ行ったのか  ―問われる戦争体験の継承―

著者: 半澤健市 はんざわけんいち : 元金融機関勤務
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《創価学会の見事な反戦平和文集》 
「日本兵が沖縄の民間人に命令したことは、子供が泣くと敵に発見され、皆殺しにされるので、子供を自分の手で殺せ、そして絶対に捕虜になるな、捕虜になりそうな時は、自分の命を自分で絶て、ということでした。私たちが山原(ヤンパル)から退却してくる時、母親と子供が倒れているのに会いました。子供も死んでいるものと思いながら、母親の乳房にすがっている子供を揺さぶったら、その子供は生きていました。だが、無残にも、その母親の首はちぎれてありませんでした。」

 これは沖縄出身の旧日本兵である金城義信が、1974年に書いた文章の一節である。「独立混成第四十四旅団」と題するこの記事は、『打ち砕かれしうるま島』という書に掲載された。同書の43篇の沖縄戦体験記の一つである。この書は「戦争を知らない世代へ」シリーズという80冊の戦争体験記の1冊である。シリーズの発行者は「創価学会青年部反戦出版委員会」である。
1981年には、女性会員による「平和への願いをこめて」シリーズ20冊の刊行が開始され、1991年に青年部も併せ計100冊が完結した。内容は、戦争を経験した創価学会員による4000篇近い数の「体験記録」と「平和と反戦」への訴えである。冒頭の一篇はその一つに過ぎない。一つ一つが、戦没学徒兵の「きけ わだつみのこえ」とは異なる、日本の庶民大衆の辛く悲しく非情で直截な戦争体験を綿々と訴えているのである。

《憲法第九条を骨抜きにする“魔の勢力”》
 「戦争を知らない世代へ」シリーズの「発刊の辞」はこう書いている。(省略あり)
「仏法思想は、何よりも生命の尊厳という理念に貫かれており、その理念の延長こそ、地上から戦争を抹殺し、絶対平和の社会を現出することに他ならない。私たちは、反戦出版活動に取り組むことを決意した。この本の副題にある「戦争を知らない世代」が増えつつある。憲法第九条を骨抜きにし、自衛のための戦争は許されるとして、着々と軍備を増強している勢力がある。このような勢力こそ“魔の勢力”であることを、私たちは知っている。堅固な反戦の砦を、全民衆の心の中に築き、断固として、これら“魔の勢力”の跳梁を許さない時代を創りたい。」

また「平和への願いをこめて」シリーズの「まえがき」は次のようにいう。
「婦人の多くは、あの戦争を境に家庭を破壊され、肉親を失い、戦後の混乱を生き抜いてきた人々でもありましたから、その行動の原点は自ずと絶対平和の希求へと向かってきたのもまた、まぎれもない事実でした。しかし、こうした庶民の感情とうらはらにここ数年、日本の平和憲法を改めようという動きや軍備の増強が声高に唱えられ、靖国神社法案が通りそうな気配など、にわかに戦争を美化する世論がまかり通っております。私たち創価学会婦人部の中に、仏法で説く生命の尊厳を根本として、もう一度身の回りの生活をふり返り、婦人の手の届くところから恒久平和実現の足がかりを作っていきたいと、結成されたのが婦人平和委員会です。」

《書架にある77冊を手に取ったら》
 私が利用する図書館の開架に「戦争を知らない世代」シリーズが57冊、「平和への願い」シリーズが20冊ある。これまで気にしなかったが、自公協議を意識して、数冊を精読した。そして共感し感動した。私は敗戦時に10歳で戦時体験期は短いが、それでも集団疎開と二回のB29空襲で被災しているから、銃後の戦争体験者である。そういう目で、シリーズを読んで「これは自分だ」と思えることが沢山あった。
婦人平和委員会による「平和への願いをこめて」シリーズを、亡き鶴見和子が解説している。彼女は、本シリーズの特徴を、一つは「制作の過程における世代をこえて/戦争体験を「戦争を知らない世代」へひき継ぐという、もっとも困難な、そして大切なことに成功していること」であり、もう一つは「被害者であると同時に加害者であることを、具体的な事実をとおして、しっかりと見とどけていること」であると評価している。

それに私が付け加えたいのは、この編集出版がバブルの頂点に至る20年間の達成であることである。私も含めて世上はこの間、戦争の反省を忘れて経済発展に全力を傾注していたのである。その意味でも創価学会の努力は立派である。

《宗教者は反戦で手を結べないのか》 
それから四半世紀が過ぎた。創価学会の反戦平和はどこへ行ったのか。
いま、自・公両党の集団自衛権協議を、誰も「異様な政治空間」と感じない空気がある。
「戦争体験を〈戦争を知らない世代〉へひき継ぐという、もっとも困難な、そして大切なことに成功した」という鶴見の称賛はいまも通用するのか。否である。
私は上から目線で、創価学会青年部と婦人平和委員会を批判するのではない。
どうしてこんなことになったのか。批判するのではなく、可能ならば日本の宗教者が共に立ち上がり政治の暴走への抵抗戦線が構築できないのか。そういう問題提起をしたいのである。

安倍晋三という歴史修正主義者が権力の頂点に立っている。
にもかかわらず、政治とメディアの領域では、この情況に対してまともな批判が行われない。反対する側も混沌としている。現状分析すらままならぬ現状だ。
我々は戦後70年を「戦争体験を〈戦争を知らない世代〉へひき継ぐという、もっとも困難な、そして大切なこと」に失敗したのではないか。

その疑念から再出発することしかない。「創価学会の反戦はどこへ行ったのか」、の自問に対するこの悲観的結論が、私の自答である。関係者の声が聞ければ有り難い。前向きの論義の契機になって欲しい。(2014年6月22日記す)

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