反戦運動に感ずる日米の差 -民主主義の成熟度か、それとも民族性か-

著者: 岩垂 弘 いわだれひろし : ジャーナリスト・元朝日新聞記者
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「反戦」にからむ2つの集会を相次いで見聞する機会を得た。「本多立太郎さんを想い語る会」と「『冬の兵士』証言集会」だ。2つの集会を通じて印象づけられたことの一つは、日米の差、すなわち両国における国民意識の差だった。

 「本多立太郎さんを想い語る会」は10月11日、東京の大田区立消費者生活センターで開かれた。今年の5月27日に96歳で亡くなった本多立太郎さんを偲ぶ会で、JRからの解雇撤回を目指して闘っている「国労東京闘争団」の佐久間忠夫さんと、府中市立小学校教員の中島暁さんを中心とする実行委員会の主催で開かれた。
  
 本多さんは北海道小樽市の生まれ。日中戦争下の1939年、25歳で召集され、中国戦線へ。いったん帰国するが再び召集され、千島列島の占守島で敗戦を迎えた。ソ連軍に拘束され、シベリアへ。2年間の抑留生活の後、1947年に帰国した。その後、信用金庫協会に就職し、1975年に定年退職。退職後は大阪に住んだ。
 その後、日本が次第に軍備増強への道をたどりつつあることに危機感を抱き、「日本は再び戦争を起こしてはならない」との思いから、1986年から、自らの戦争体験を、戦争を知らない世代に伝える活動を始めた。その活動が「戦争出前噺」と呼ばれるようになった。それは亡くなるまでに1314回を数え、出前先は全国47都道府県に及んだ。出前噺を聴いた人は約15万人にのぼる。「平和憲法を世界に広げよう」と、今年の6月にはパリの街頭で日本国憲法第9条の仏語訳を市民に手渡す計画だったが、出発直前に病に倒れた。

 本多さんが出前噺を通じて訴えたことは専ら「戦争とは、人間にとって別れと死だということ」だったが、出前噺が100回を超すころから、自身の加害責任にも触れるようになった。「中国で、上官に命ぜられるままに無抵抗の捕虜を刺殺した」との告白だった。そして、2005年以降、3回にわたって中国を訪れ、上海宝山抗日戦争記念館や羅涇抗日戦争烈士墓、刺殺された捕虜の墓にひざまづいて謝罪した。

 「想い語る会」では、本多さんの出前噺を撮影した映像や、本多さんの中国への謝罪の旅を記録したスライドが上映された後、出前噺を聴いた人らが本多さんの思い出を語ったが、とりわけ私の心をとらえたのは、こんな発言だった。
 「日本はアジアの諸国に対し植民地支配を行った。日本軍兵士には加害責任があるはずなのに、生還した兵士たちはそのことには口を濁したままだった。そうした中で、本多さんは自らの加害責任を明らかにし、中国の人たちに謝罪した。本多さんは、日本人に、日本人がアジアの人たちに行った加害について考えるきっかけをつくってくれた」

 いわゆる「15年戦争」で動員された日本軍兵士は、700万人以上とされる。そのうち約250万人が戦没したとされるが、生還した兵士は「戦友会」など兵士仲間の集まりで戦地での体験を誇らしげに語ることはあっても、捕虜や民間人への「加害」を語ることはなかった。ましてや、公衆の前で語ることはなかった。そうした中で、本多さんは自らの加害の体験を語った。
 もちろん、戦地での「加害」を公然と語った元兵士は本多さんだけではない。ごく少数だが他にもいる。が、アジア各地へ派兵された日本軍兵士全体の数からすれば、本多さんらはまことに微々たる存在だ。私は、本多さんらの勇気に敬服する一方で「なぜもっと多くの旧日本兵士がこれまで自らの戦争体験を語ってこなかったのだろうか」と考えながら会場を後にした。

 「『冬の兵士』証言集会」が、さいたま市の埼玉会館で開かれたのは10月12日である。「本多立太郎さんを想い語る会」の翌日だった。
 主催は、9条の会関係者や生協関係者らで組織された実行委員会。会場には「アメリカのイラクへの武力侵攻から7年、米帰還兵が語る戦場の真実」というフレーズが掲げられていて、米国の反戦イラク帰還兵の会(IVAW)のジェフリー・ミラード元会長とホゼ・バスケス事務局長が講演した。イラク戦争の真相を伝えるため、東北6県の生協関係者や平和運動関係者の招きで来日し、東北各地と千葉、埼玉で証言した。

 ミラード元会長によると、04年10月にイラクに派遣され、ある将官のスタッフを命じられた。将官のための無線傍受が任務だったが、ある時、地上部隊が300人のイラク人武装勢力に囲まれ交戦しているとの無線報告を受け、航空支援隊に電話をかけた。武装ヘリが地上部隊の支援のために出動し、銃撃で175人が殺された。後で分かったことだが、これはイラク人の平和的なデモで、デモの集団を見た地上部隊の若い兵士がパニックに陥り、自分たちが襲われると勘違いしたものだった。現場でソ連製の旧式な自動小銃AK47(カラシニコフ銃)3丁が発見されたが、当時、AK47は多くのイラク人が護身用に所持していた。ミラード元会長は「私は電話をかけたことで、どの兵士よりたくさんのイラク人を殺してしまった」と、悲痛な表情で語った。
 バスケス事務局長は「イラク戦争では、すでに18万人のイラク市民が犠牲となり、250万人ものイラク市民が難民化している。それに、多くの米国軍兵士がPTSD(心的外傷後スストレス傷害)にかかっている」と述べた。

 そして、両氏は「米国政府にイラクからの即時撤兵、イラク人への謝罪と賠償、現役兵士と退役軍人への社会保障の3点を要求している」と語った。

 両氏によれば、イラクからの帰還兵によってIVAWが結成されたのは2008年で、現在、米国内、海外に計63の支部をもち、メンバーは2000人という。イラン、アフガニスタンの現役兵、日本とドイツの米軍基地にいる米兵の中にもメンバーがいるという。イラクに派遣された米兵は延べで数十万にのぼるにちがいない。そのうちの「2000人」を多いとみるか、少ないとみるか。

 それにひきかえ、日本では、15年戦争中、兵士による公然たる反戦活動はほとんど皆無といってよかった。戦後も、本多立太郎さんの例にみるごとく、極めてまれである。これに対し、米国ではベトナム戦争中、現役兵士による反戦活動があり、これが米国内外におけるベトナム反戦運動を高揚させる一因となり、停戦につながった。イラク戦争でも、帰還した兵士たちが「反戦」の声をあげ、IVAWの結成につながった。
 そこに、「日米の差」を感ずる。なぜ、そうした差があるのか、私には分からない。民主主義の成熟度の違いだろうか、それとも民族がたどった歴史と環境によって形成されてきた民族性の違いだろうか。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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