反省、反省、反省。熟読しないで印象だけ評論するのはたいへん失礼。内田先生、お許しください。今ノートを取りながら何とか「非対称性を含む対称性」という概念を理解しようと努めています。
それと、先日書いたものの( )の中にも書いたはずですが、「資本一般」の想定は、場合によっては必要だと思っています。例えば、スラッファは生産価格論の前提として「費用不変、日々変わらない世界」を想定しています。これは正しい方法だと思います。ですから、こうした想定を、ケインズや「ポテトチップスで100円が買える」とおっしゃった先生のように、「古典派」(ケインズの独自用法)とか「経済学的思考」とか言って一概に排するのはどうでしょうか。とは言え、流動性選好説(お金をすぐに使わないでまずは貯めること)によって「資本主義の本質的不安定性」を「内部」も「内部」の「貨幣」に求めたケインズの鋭さは認めなければならないでしょうが(この思考の源流は、マルクスの『恐慌の抽象的可能性』=セイ法則の否定の指摘にもありますが)。
宇野理論に詳しくない人は、ポテトチップスの話が分からないかもしれません。これは、カルビーが大昔流したTVコマーシャルで、藤谷美和子という女優が画面の中で「100円でポテトチップスは買えますが、ポテトチップスで100円は買えません。あしからず」と語るワケのワカラナイCMです。しかし、宇野派にとっては絶好の例となりました。まさに商品と貨幣の非対称性(商品の貨幣に対する片思い。たいていは一方的のまま終わる)を示しているからです。ところが、この先生は「ポテトチップスで100円が買える」と言ってしまったのです。
「ポテトチップスで100円が買える」というのは「ポテトチップスでつねに100円が買える」という意味ではなく、多分「ポテトチップスで100円が買える可能性はある」という意味でしょう。宇野派の俊英たちと論争した時、売り言葉・買い言葉で思わず出たものと推測します。でも、この言葉で誤解を招き、降旗さんに「商品は苦労なくすぐ売れるのか」とさんざんからかわれたわけです。「言葉を選ぶ」―自戒の言葉としたいです。
武田さんへ。花崎さん。なつかしいお名前です。学生の時、北海道の伊達火発反対運動でご一緒しました。ぜひ、この「ちきゅう座」でお目にかかりたいものです。学問的にも、『マルクスにおける科学と哲学』は広松さんとの関係でも注目するべき本だと思います。ぜひ、ぜひ「ちきゅう座」にご招待ください。