反論「尾崎秀実の14日逮捕」は誤りか─「太田耐造資料」からゾルゲ事件端緒説を追う─(その5)

一)槙野亮一「尾崎秀実の14日検挙はあり得ない 」に反論する 

1)書評「孫崎享著「『日米開戦へのスパイ』東條英機とゾルゲ事件」「日米の権力

者は『ゾルゲ事件』をいかに政治利用したか」                            2

2)朝飯会と佐々弘雄に関する尾崎秀実の供述                                 5

第2回掲載………………………………………

3 )「南方調査の方法と企画を語る座談会」は14日夜に行われたのか             6

4 ) 三宅正樹(明治大学名誉教授)の14日検挙の否定説は編集後記の1行       10

第3回掲載………………………………………

二)尾崎秀実14日逮捕の裏付け調査に反論できるか

  1)四谷駅橋上の高橋ゆう・古在由重会談と松本慎一                          12

2)尾崎逮捕は藤枝丈夫を三菱美唄炭鉱に走らせた                            13

3)中村哲(法政大学長)は証言する                     14

4)石堂清倫の体験記録「検束と勾留」                    15

5)北林トモの検挙はエディットと息子ポールの国外脱出の直後だった         15

6)ゾルゲを取り調べた特高外事課の大橋秀雄警部補の証言         18

7)尾崎秀実14日検挙の根拠に反論が出来るか                               19

第4回掲載………………………………………

三)内閣書記官長『風見章日記』から何が読み取れるか

1)槙野亮一は『風見章日記』を読んだのか?                     23

2)尾崎秀実は日本共産党員だった                                          24

3)『現代史資料・ゾルゲ事件』2巻「尾崎秀実の訊問調書」                   24

四)「ゾルゲ事件新聞記事発表文」に対する稟議書

 1)検挙月日の公表は禁止する                                              25

2)新聞記事の公開になぜ「事件の端緒」が発表されなかったのか              27

3)『現代史資料・ゾルゲ事件』2巻「、尾崎秀実の訊問調書」                 28

第5回掲載………………………………………

特別報告

伊藤律ゾルゲ事件端緒説を覆す太田文書の手書きの部分を解明する

  1)「北林トモに関する供述は青柳喜久代から」担当した検事たちの証言         32

2)太田資料の鉛筆の書き込み文書を解明する                                34

3)ゾルゲ事件の検挙を指揮した検事たちの回想と証言                        36

4)伊藤律遺稿・「ゾルゲ事件について」は語る                               36

5)青柳喜久代とアメリカ帰りのおばさんという人                            37

6) 伊藤律ゾルゲ事件端緒説はこうして作られた                              39

特別報告

伊藤律ゾルゲ事件端緒説を覆す太田文書の手書きの部分を解明する

 

1)「北林トモに関する供述は青柳喜久代から」担当した検事たちの証言

ゾルゲ事件関係の厖大な著作のなかで10本の指に入ると評価されているロバート・ワイマント著『ゾルゲ・引き裂かれたスパイ』(西木正明訳、新潮社、1996年)のゲラの段階で筆者は彼から意見を求められた。そのときワイマント氏は「日本で刊行されたゾルゲ事件関係の資料はほとんど収集し、読んだが、唯一『太田耐造追想録』には手が届かなかった」と言った。筆者が『太田耐造追想録』の巻末に掲載された「ゾルゲ事件座談会」をコピーして送った。(アンドレイ・フェシューン氏と筆者は同じゾルゲ事件の研究者仲間として親交が生まれたが、ロバート・ワイマント氏はその後、インドネシアのスマトラ沖で発生した津波に巻き込まれて、2004年12月26日スリランカのマータラで死亡した。イギリスのザ・タイムス東京支局長だった。享年60)

ゾルゲ事件研究者の間で『太田耐造追想録』の巻末に掲載された「ゾルゲ事件の摘発に関係した検事たちの座談会」の記事の存在が知られるようになったのは、志賀義雄著『日本共産党史覚え書』(田畑書店、1978年)によるところが大きいと思われる。

志賀義雄の著書には「ゾルゲ・尾崎事件と伊藤律」のタイトルで伊藤律問題に大きな頁を割いており、そのなかの「さまざまの伊藤律像」で、この資料を使っている。なかでも「太田耐造がゾルゲ事件当時の司法省書記官第6課長として活動した人物の追想を井本台吉(注、ゾルゲ事件被疑者の検挙令状の執行者、戦後検事総長)、玉澤光三郎検事(尾崎秀実の取り調べ検事、戦後最高検察庁検事)らがまとめた1節である」として、「太田が課長クラスで大きい実権をもつことができたのは、陸軍省の田中兵務局長との関係で、太田の上司の池田克局長よりも軍事フアシズムの弾圧政策の強硬派として便利だったからである」としており、太田が予防拘禁法の立案者だったことも志賀には因縁がある。

ゾルゲ事件当時の思想検事たちはゾルゲ事件の端緒を次のように語っている

井本・最近のものを読んでみると、ゾルゲは後をつけてもう引っ張るばかりになっていたんだ、というようなことをよく書いているが、みんなでたらめだよ。私は宮城与徳を引っ張るときに、太田さんの立案した手続きによって私の署名した令状で引っ張ってきたんだ。

玉澤・あれは僕に言わせると偶然の因子が沢山あるのですけれどもね、しかし、事件全体を眺めてみるとそうでないところがあるんですね。というのは、一番最初が青柳キクヨあたりから女の共産党員の北林トモがアメリカから来ているという話が出た。そいつを5月あたりに検挙したいと特高1課から言ってきたわけですよ。」

青柳キクヨは北林トモの姪である。彼女が北林トモのことを仲間に話していたのが特高の耳に入ったのである。欄外の書き入れにあるとおり、青柳は6月28日に検挙されて、北林トモに関する最初の尋問を受けた。

井本 伊藤律が全部ばらしたようなことをよく書いておるのだけれども、伊藤律なんかほとんど関係ないよ。あれを伊藤律が全部ばらしたようにしちゃったんだね」(同書239~240頁)

この『太田耐造追想録』の末尾に付された「追想座談会」は第1回から第3回まで行われ、うち「ゾルゲ事件裏話と太田情報網」は278頁から288頁まで、かなり太田耐造の後輩に当たる検事たちによってゾルゲ事件関係の秘話が回想されている。

この資料は尾崎秀樹も入手したと書いているが、玉沢、井本両検事が事件の端緒に触れて「伊藤律なんてほとんど関係がなかった」という担当検事の重要な発言について、伊藤律端緒説を書きまくってきた尾崎秀樹(注,『生きているユダ』、『ゾルゲ事件と現代』ほか)はついに自説にとって最も都合の悪い証言だからこれらの発言には何も書けなかった。

井本台吉は当時すでに死んだとされていた伊藤律が奇跡の生還を果たしたとき(1980年)、朝日新聞記者の取材に答えて前文をさらに補強して次の通り証言した。

「私は事件の総括者だから全部聞いていたが、律はゾルゲ機関とはなんら関係はなかった。ゾルゲたちは、スパイだらけの当時の日共を信用せず、近づかなかった。北林トモが割れ、宮城与徳が自供してゾルゲスパイ団が判明した経過はその通りだが、最初に北林トモの名前を喋ったのは青柳とかいう女性だと聞いていた。律がゾルゲ事件の当局のスパイだったら、「特高月報」に名前を載せるわけがない」という。ゾルゲ事件の端緒に関わる重大な証言を行っている。

続いて玉沢光三郎は「青柳喜久代が北林トモのことを自供し、警察がそれを律にたしかめたと記憶している。」と語り、続いて吉河光貞(注、ゾルゲの取調担当検事、戦後特別審査局長、公安調査庁長官)も「ゾルゲ事件の発覚は律の自供が端緒ではなかったと記憶している」とそれぞれが証言している。ゾルゲ事件摘発の指揮をとった3人の思想検事の立役者の発言には相互に矛盾はなく、完全に一致している。

伊藤律のゾルゲ事件端緒説を書きまくってきた尾崎秀樹がこれにつて何も発言できなかったのは当然のことなのかも知れない。

『太田耐造追想録』の巻末の座談会で、ゾルゲ事件当時の思想検事の発言だから、「伊藤律端緒説」は太田耐造と関係があるのだろうとは考えられるが、それ以上の資料を当時は発掘できなかった。だが青柳喜久代に関する調査は青柳喜久代の姉千代子さんの聞き書きや、青柳と同居していて一緒に逮捕された新井静子(伊藤律の前妻)、文学サークル「街」グループの北添忠燿などから徹底的に聴き取り調査を行った。

宮下弘著『特高の回想』(田畑書店)でも、「青柳喜久代は伊藤律たちの党再建運動に関係があったわけですね」という質問に対して、宮下弘は「党再建で検挙しました。昭和15年(1940年)6月28日、新井静子と同時期です。伊藤律が北林のことをしゃべる前です。青柳は日本内燃機など、新井静子は石川島造船などのオルグとして働いていた。」

「青柳喜久代が北林トモの名を出したという説がありますが」という質問に対して、宮下弘は「それは違うでしょう。それだと伊藤は免罪されるわけですが、伊藤律が話してから、青柳からウラをとった。北林トモを伊藤律に紹介したかどうか、など」(185~6頁)

当時の検事は「勾引」「勾留」の令状を執行できる権限があって現場の特高は検事に逐一報告してすべて報告を受けていたというが、北林トモの供述は青柳からか、伊藤律からか、について意見は以上の通り割れている。ここは伊藤律の冤罪か否かの別れ道だから徹底的な調査を必要とする最重要な処だ。

 

2)太田資料の鉛筆の書き込み文書を解明する

青柳喜久代が1937年6月27日に党再建で検挙され、北林トモに関する供述をしたことは既に『偽りの烙印』で詳細に報告したが、一体誰が伊藤律なんかほとんど関係がなく、あれを伊藤律が全部ばらしたようにしちゃった」のか。これまで全くその手がかりは掴めなかった。「太田耐造追想録」の座談会の記事という点だけが解明するひとつの鍵だった。

ところが全く思いがけずその真相に迫る資料が今回公開された「太田耐造資料」の中から出てきた。資料番号205「国際共産党対日諜報機関検挙申報」(注、「特高月報」の文面とほぼ同じであるが、この表紙には「極秘・軍機取扱の刻印があり、次頁には「本申報は機密保持上厳に御注意相成度 特高部長」と書かれており、昭和17年6月10日、警視総監留岡幸男から司法大臣宛てになっているが、「特高月報」にはこの記録はないが、これとほぼ同文でありながらタイトルだけは全く異なる「国際共産党対日諜報機関並びに之に関連せる治安維持法、国防保安法及等違反被議事件取調状況」という長ったらしい報告が掲載されたのは昭和17年8月分である。双方の異なる点は「特高月報」の69頁以降に書かれている「(1)昭和14年度に於て漏泄通報したる事項」の各項目にそれぞれの情報が「軍事上の秘密事項」、「軍用資源秘密事項」、「軍事上の秘密事項」、「同国家機密事項」などの記載の凡てが削除されていること、最末尾の「通信連絡上の状況」が40頁ほど削られていることだけだ。従って略同文と見て差し支えないだろう。

その「国際共産党対日諜報機関検挙申報」の4頁から5頁の間に、(下図参照)冒頭に赤鉛筆で二重丸をつけて、鉛筆で細かく書きこまれている。国会図書館で委嘱を受けた人物の話によると、「この資料には他にも鉛筆書きの書き込みがかなりあり、太田耐造家にあったものだから他人が見たり書き込みすることはないだろう。太田自身によるものとみて間違いないだろう」とのことだった。

鉛筆書きの文字は小さくぎっしりと詰まっているので倍に拡大しても読めず、さらに倍にすると文字はかえってぼけてしまうのでやむなく、朝日新聞永井記者に頼んで国会図書館でコピーしてもらったが、永井氏は以下の通り活字化までしてくれた。

「国際共産党対日諜報機関検挙申報」の本文4~5頁(見開き右側ページ)の後半部分は以下の通り。「昭和十五年六月以降当庁(注、警視庁)ニ於テ検挙ニ着手セル日本共産党再建準備委員会事件ノ首魁、治安維持法違反被疑者伊藤律(当時二十九才満鉄東京支社調査部)ハ俊敏ニシテ共産主義ニ対スル信念堅固ナルモノアリ、検挙後数ケ月ニ亘ルモ犯行ヲ自供セズ取調困難ヲ極メタルモ当庁ノ峻烈ニシテ一方温情アル取調ニ対シ遂ニ翻然転向ヲ決意シ漸次ソノ犯行ヲ自供スルニ到レリ」(「国際共産党対日諜報機関検挙申報」の記載文)(原文の漢字は旧字体、以下同)

4~5頁間の余白部分に鉛筆で書き込まれた記述は以下の通り

(冒頭に赤鉛筆による二重丸が付してあり)「昭和十五年末頃東京地検思想部ニ在リテハ国際情勢等ヨリ観テ合法場面ニ於ケル共産主義運動ノ取締ニ偏シ居ル現在ノ検挙方針ニ再検討ヲ加ヘ海外ヨリノ運動カ潜行的ニ行ハレ居ルヤニ付キ注意ヲ要スヘキモノアル旨ヲ指

示シテ特高部ヲシテ其ノ方向ニ内偵ノ目ヲ向ケシメ居リタリ、其ノ結果同年三月末頃 ( 注、同年とは1940年を意味すると思われる) 伊藤律ノ供述ニヨリ米国共産党員北林トモヲ発見シタルモ諜報活動ノ嫌疑アリタルヲ以テ外事課ニ移奈良県(ママ)粉河町ニ居住セル同女ヲ約半歳ニ亘リ内偵セシメタルモ嫌疑ノ認ルヘキモノナカリシヲ以テ再ヒ特一課ニ九月二十八日同女ヲ警視庁ニ引致セシメタリ、」(注、鉛筆書きの書き込みは以上8行のみ)

5頁(見開き左側頁)「右伊藤律ノ自供中米国共産党日本人部員某女(北林トモ五十六才)ノ既ニ帰国シテスパイ活動ノ容疑アルヤノ陳述アリタルヲ以テ直ニ右北林ノ所在調査ヲ開始シ、特高一課、外事課共同ニテ周到ナル内偵ヲ加ヘ昭和十六年九月二十八日、北林トモ、同人夫芳三郎ノ両名ヲ和歌山県粉河町ニ於テ検挙追求シタル結果更ニ米国共産党員ニシテ沖縄県人ノ宮城與徳ナル者夙ニ日本ニ帰来シテスパイ活動中ナルヤノ事実判明スルヲ以テ機ヲ失セズ十月十日同人ヲ検挙シ同人宅ノ捜索ノ結果及同人が自殺ヲ企テントセル事実等ヨリ重大ナル間諜組織ノ伏在ヲ推定セシムルモノアリ、昼夜兼行同人ヲ追及シ且同人宅ニ張込員ヲ附スル等ニヨリ続々連累者ノ検挙ヲ続行、遂ニ検挙ハ組織ノ核心ニ及ブヲ得テ十月十四日以降、尾崎秀実、リヒアルド、ゾルゲ等ノ検挙ニ及ビ爾後宮城、尾崎等ノ取調ノ進捗ニ伴ヒ次表(被検挙者一覧表)記載ノ如キ経過ニテ情を」 ◇続く6頁冒頭部分

「知レル者知ラザル者ヲ合シ昭和十七年六月八日迄総計三十五名ノ被検挙者ヲ出スニ到リ茲ニ国際共産党系対日諜報機関ノ秘密組織ヲ壊滅シテ其ノ全貌ヲ明カナラシムルヲ得タリ

対日諜報機関関係被検挙者一覧表

其の一(諜報機関員十七名)……」(以下は検挙者の一覧表)(注、省略する)

本文中は一斉検挙を「十月十四日以降」としているが、この一覧表で十月十四日に検挙されたことになっている人物はなぜか見当たらない。(永井注、以上)

 

3)ゾルゲ事件の検挙を指揮した検事たちの回想と証言

太田耐造資料の行間に鉛筆書きで記載する「同年三月末頃伊藤律ノ供述により」と書かれている「3月末頃」とは一体何であろうか。更に「十月十四日以降、尾崎秀実、リヒアルド、ゾルゲ等ノ検挙ニ及ビ爾後宮城、尾崎等ノ取調ノ進捗ニ伴ヒ」とは、筆者が「検挙人旬報」記載の尾崎秀実・拘引月日、10月14日、勾留月日、10月15日、と書かれているのと同じである。

太田耐造資料に書き込まれた「其ノ結果同年三月末頃伊藤律ノ供述ニヨリ米国共産党員北林トモヲ発見シタル」云々というこの箇所は全く新しい記録(証言)で、伊藤律・長谷川浩の聞き書きにも3月の伊藤律の供述」はない。岡部隆司・長谷川浩が党再建で検挙されるのは1940年6月であり、伊藤律が供述するのはその前年の39年11月に検挙されて8カ月間、目黒警察に留置されたのち、岡部、長谷川浩らが検挙されたことが分かってから、黙秘が無駄になったと観念して供述し始めたということになっている。(「長谷川浩及び伊藤律の聞き書」による)

宮下弘著『特高の回想』も同様であり、ゾルゲ事件は宮下が特高1課の係長に就任(注、1940年5月)してからのこととしているが、この太田耐造の行間に書き込まれた文章によると伊藤律の供述とは関係なく1940年3ツキノ時点で北林トモが捜査線上に浮上したことになる。

然しこの記録には無理がある。特高課長中村絹次郎著『ソ連はすべてを知っていた』(山村八郎名で発表1949年 大阪紅林社 ) は、北林トモが帰国後1939年12月に和歌山県粉河に移住するまで、渋谷区隠田のエルエー洋裁学院の前の家を借りて特高が尾行監視を続けたことが記されている。北林トモはこの洋裁学院の2階の3畳間を借りて住んでいた。夫芳三郎がロスアンゼルスの家財を処分して帰国するまでの仮住まいだった。

3月北林トモの発見」とは北林トモの姪青柳喜久代の供述によるものである。

この詳細は筆者の『偽りの烙印』第5章「青柳喜久代という人」や伊藤律本人が執筆したゾルゲ事件について」(同著382頁)などによって詳細に報告したが、ここでもう一度再検討してみよう。まず伊藤律本人が27年間の中国で投獄された後、奇跡の生還をした1980年の後に執筆した「ゾルゲ事件について」から見てみよう。(『偽りの烙印』34頁及び巻末の資料382頁)。

 

4)伊藤律遺稿「ゾルゲ事件について」は語る

伊藤律本人の回想を引用しよう。

「5月に入って久しぶりに本庁の特高がやってきた。岩崎(注、五郎)に代わった伊藤猛虎警部補である。彼は警視庁内の定期人事異動で、私の事件を担当することになっていたのだ。「手記」を信用はしないが、さりとて他の証拠もないので取調べを終わり送検調書の作成(聴き取り調書)にかかった。

「お前はやっている。が、どうしても言わないなら、この辺で片づけてやる」と3回ほど送検用の訊問調書をとり、終わりに近づいたとき、突然中断した。5月末か、6月初めであった。この訊問調書を作り始めれば捜査は終わり、一気に片づけられるのが慣例なのに、何故中断したのか。何か新しいことが起こったのではないかという不安が日とともに大きくなった。

そから1ヶ月、6月27日、猛虎が現れた。血相のすさまじい顔で2人の部下が竹刀と木刀をぶら下げて同行。私が部屋に入ると猛虎は「よくも本庁の特高をなめたな、こんな作文が何になる」と「手記」を取りかけの調書を引き破り、私に叩きつけてから頭を殴った。

「何のことか分からないです」と答えると、「本筋を言え」と突き倒し、お供の特高に木刀と竹刀でめった打ちさせ、自分も靴で踏んだり蹴ったり」

「待って下さい。私は病気です。それでは話ができない」と訴えた。猛虎は「本筋を話せ、池田、はせがわらのことはどうした!」とたたみかけたこのとき目の前が闇になり、めまいを覚えた。正月を挟んで8カ月間病気と留置に耐えてがんばり組織がやられたと知った。全身から力が抜けてしまった。」

「万事休す。もうがんばっても無駄だすべて知られた。敗北感に襲われ、問われるままにぼつぼつ供述していった。

楢崎(注、楢崎久三郎こと北添忠燿、「街」文学愛好家のグループ)と青柳喜久代夫妻が主宰していた世田谷三軒茶屋の『街』グループについての訊問への供述は気軽だった。2年近く前にこのグループは摘発され、全員が既に釈放されていたからである。(注、「街」の第一次検挙は1937年(昭和12年)11月7日、北添は翌年12月まで世田谷署に留置された。のち北添は起訴猶予となった。)その青柳、楢崎との関係について、誰々を紹介されたかを訊問された際、青柳から「アメリカ帰りのおばさん」という中年(初老)の婦人を紹介され、二度会ったと気軽に供述した。彼らがすでに話したことと思ったからである。

特高・伊藤は軽くうなずき、それまで同様にメモをとり、それ以上何も聞かず次の問題に移った。次の日も訊問が続いた。その翌日特高1課の係長宮下が猛虎とともにやってきた。

宮下が帰るとき宮下は言った「君が会ったあの婦人はたしかにアメリカ帰りだ」と。7月から8月にかけて「手記」を書き、警察医の診断で勾留一時中止になった。

 

5)青柳喜久代とアメリカ帰りのおばさんという人

青柳は池袋近くに下宿し、トレースを習っていた。近くに実兄・喜兵衛が肺結核のため静養していた。彼はかってプロレタリア美術聯盟員で青柳喜久代は伊藤律と2度ほど会い連絡を回復した。

「青柳が私に言った。アメリカ帰りのおばさんに貴方のことを話したら是非会いたいそうだ」と。日時は忘れたがセルの着物を着ていたのを覚えている。青柳に伴われて、原宿駅前から渋谷駅に通じる大通りの左側にあった二階家に案内された。お互いの姓名は言わず、直接話し合いになった。主に政治情勢のことで、「おばさん」はアメリカやメキシコの邦人の進歩的な活動について語り、私は彼女の問いに答えて中国侵略戦争と近衛体制について意見を述べた。帰り際に「おばさん」が昼食をご馳走したいと言ったが断った。すると青柳が「おばさんは金持ちよ」と意味ありげに笑い、二人で強くすすめた。渋谷駅筋向かいの食堂に入りランチを食べた。

そのしばらくあと、青柳から、「おばさん」がとても興味がある話なのでまた会いたい、と伝えてきた。池袋駅から少し奥の青柳喜兵衛の養病宅の縁側で少し話した。内容は同じ政治情勢だ。青柳を訊問した特高岩崎は「青柳は頭が少し変なのではないかね?」と私に言った。「なぜですか」と反問すると『う、うん┄┄』と言葉を濁した。」

伊藤律は死ぬまでこのとき特高岩崎がつい言葉の端に出たこの言葉の意味が分からなかったが、これはゾルゲ事件の端緒の謎を解く重要な意味がこめられていたのだ。それにしても27年間の中国の獄中生活の中でよくこんなささいな特高の言葉の端切れを覚えていたものだと驚嘆させられる。これが太田耐造のメモ書きした「3月」と大きく関係するのだ。

青柳喜久代が第一次「街」グループ事件で検挙されたとき徹底的な拷問を受けたが、彼女は頑として供述を拒否した。特高の訊問は党再建活動にかこつけて、北林トモに関する供述を迫った。北林トモはその前年の36年11月に日本に帰国してエルエー洋裁学院の二階に住みこんでいた。特高は既にその前の家に下宿して尾行、監視していたことは既に述べたが、特高は長谷川浩や岡部隆司、伊藤律らの党再建の実態と同時に太田耐造の指示によって米国帰りの北林トモも重要な捜査対象になっていた。尾行先には宮城与徳もいた。

青柳喜久代は黙秘を続けたが、それも肉体の限界を越えてやがて青柳は精神異状となり、一時保釈となって、姉の千代子の家から池袋署に通いで供述をとられることになった。特高岩崎が「青柳は頭が変ではないか」と伊藤律に言ったのはそのときのことだ。

「おばさん」との会談について伊藤律は当時の組織の上部の長谷川浩に報告、話し合った結果連絡を絶った。

長谷川浩によると、「おばさんは多分アメリカのスパイをやっており、国際的にも情報を集めている可能性もありうる。いずれにしてもわれわれ日本国内の階級闘争と大衆的革命運動には損害こそあれ、利益には成り得ないと判断したからだ。」その後、青柳を通して「おばさん」から再三会いたいと言ってきたが、連絡を断ったと伊藤律は回想する。

これは長谷川浩の聴き取り(「戦前の党再建活動を語る」堀見俊吉、御田秀一、中田健夫)によると「北林トモの話が出たとき、『こういう面白いおばさんがいると言うことを律が報告したわけですね。いろんなことを知っていて、こういう話ししたと──、あっ そりゃあひょっとすると諜報組織かも知れない。それとはきちっと手を切りなさいよと、

諜報組織とこっちを一緒にすると被害はダブルって両方が損をするから絶対に分けておかなければならない。ということでそいつとは手を切ったわけです」(以下省略。長谷川浩聞き書55~58頁)

 

6)伊藤律ゾルゲ事件端緒説はこうして作られた

伊藤律は1941年9月29日、再び逮捕されて(注、正確には再収容)久松署に留置された。岡部、長谷川ら関係者の調査が終わり送検段階に達したのだ。久松署で特高・伊藤猛虎の送検調書がとられた。これで私の事件は特高の手を離れ、あとは検事訊問をへて起訴されて拘置所に送られる事になった。特高伊藤は東京地検から岡崎検事が来たと告げて去った。その後、1ヶ月近く何の音沙汰もなかった。1015日、妻が差し入れに訪れたとき、わずかの隙に「尾崎さんが──」とささやいた。特高室のことで、それ以上は聞けない。たしか18日、特高伊藤猛虎が血相を変えてやってきた。

いきなり横つらを叩き、「お前はソ連のスパイではないか。よくも俺を騙したな」と怒鳴りつける。「何のことか分からない」と抗弁すると、殴る蹴るの拷問。彼もやがて「尾崎秀実がソ連の情報団に加わり、私も参加していたはずだと疑問を説明した。彼はこの罪が死刑罪に該当するとおどかして帰った。(中略)

「アメリカ帰りのおばさん」が北林トモであり、宮城与徳と連絡があり、宮城の口からゾルゲ・尾崎の名が出た。改めてこの問題の手記を書かされた。今度は北林トモの名でその交際の事実を書き、尾崎から紹介された主な人のこと書いた。この関係には秘密がなかったからだ。補足手記の下書きが出来ると猛虎が本庁に持ち帰り、宮下と打ち合わせてきたと告げ、「これでいいから清書せよ。手記の日付がばらばらでは具合が悪いから本文同様に19407月に統一しておけ」と言った。事実は違うので少し変に思ったが言われるままにした。これは明らかに特高の罠だった。ここから私が初めから北林トモの名を出し、あまつさえこの情報集団に加入の上全部売り渡した、とするスパイ説が広がった。」(中略)

「私が中国から帰還したとき元特高宮下らはマスコミと同様伊藤律スパイ説をテレビなどで語っていたが、騒ぎや追問や証言の中で言うことが次第におかしくなってきた。にもかかわらず「元アメリカ共産党員北林トモの名は伊藤氏から聞いた」この一点だけは頑強に言い張った。そして経緯を語りながら青柳には一切言及していない。

北林女史がアメリカ共産党員だったことを私は全く知らなかったし、「手記」にも書いてない。これは当局が付けた肩書である。北林の名も元共産党員の肩書も私が語ったのではなく、将に当局が私に教えてくれたものだ。

今になって初めて194110月ゾルゲ・尾崎集団が摘発されたとき書かされた『補足手記』の日付を1年前の夏に合わせろと命じたのが特高の罠であったことを思い知った。」(以下省略)

以上は伊藤律が中国で27年間の獄中生活の後1980年に日本に生還した後に記憶をたどった回想だが、「補足手記の日付を1年前の夏」に統一して記載することが特高の仕掛けたどんな罠だったのか。いまいち明確ではないが、伊藤律は何を言いたかったのだろうか。

ここにゾルゲ事件の端緒を伊藤律にかぶせた真相が隠されている。伊藤律のみが指摘できる核心部である。

伊藤律はゾルゲ事件の端緒を供述したとされる冤罪の被害者だから決して青柳喜久代を良く思うはずはないが、筆者のその後の調査によると伊藤律がゾルゲ事件の端緒をかぶされた経緯は伊藤律の主張のとおりだとしても、27年間の獄中で記憶をたどる青柳喜久代に関する伊藤律の回想とその後、青柳喜久代が歩んだ道の間にはかなり訂正すべき点がある。

しかし「元アメリカ共産党員北林トモの名は伊藤氏から聞いた。この一点だけは頑強に言い張った。」「そして経緯を語りながら青柳には一切言及しない。」という点とさらに「1940年7月に統一しておけ」と言われたという点は当該者の伊藤律ならではの特筆すべきゾルゲ事件端緒にかかわる問題点の核心部であった。

さらに「ゾルゲ事件の捜査は1940年7月に始まる」と記載されているが、1940年7月とは何をいうのか。宮下弘によると、「新井静子と青柳喜久代は昭和15年(1940年)6月28日に検挙した。伊藤律が北林トモのことをしゃべる前です」という。(『特高の回想』185頁)

たしかに青柳のことは此のときの取材合戦の中で誰も追及しなかったし、出来なかった。既に青柳喜久代は1968年4月8日に直腸ガンで死去していたからだ。54歳の若さだった。伊藤律が帰国する10年以上も前のことだから記者たちは調べようがなかったのだ。新井静子にさえついに記者たちは所在不明で調査が及ばなかったのだから無理もない。

北京において野坂参三から査問された時にも、伊藤律は生命をとして、尾崎秀実を売り渡したというゾルゲ事件に関する裏切り行為の容疑の一切を否認し続けたという。

『街』の第一次検挙のあと青柳は北添と別れて新井静子(伊藤律の先妻)と同居していた。二人は長谷川浩や伊藤律たちの党再建運動に積極的に参加していた。そして、青柳は新井と同居していたので、同じ日の1940628日に検挙された。「青柳の検挙は伊藤律が北林トモのことを供述する1カ月半ばかり前のこと。それから6ヶ月後に北林トモに監視。この青柳の自供から叔母北林トモの存在と伊藤律との関係を当局の知るところとなり、伊藤律も担当の伊藤猛虎警部補に追及されて北林トモについて聞き知った不審な行動を自供した。これから逆算すると、伊藤律が北林トモの名を出したとされる時期は8月12日頃であり、伊藤律の保釈は直ぐこのあとだった。(『日本共産党の基礎知識』山本勝之助著。山本勝之助については『偽りの烙印』に詳述した。)

青柳はこのときも比較的に短期間で保釈されている。そしてさらに翌1941年(昭和16年)617日、第二次「街」グループ事件の形をとって保釈中の青柳喜久代も北添他4名とともに再検挙されたと記録されているが、長谷川浩たちの党再建活動だった。

1941年9月の北林トモの検挙をもってゾルゲ事件の端緒とする論者もふくめて、この1940年の青柳の検挙との関連に注目する人は伊藤律が回想するようにこれまでいなかった。しかしこのことは北林トモの検挙と重要な関わりを持っているのだ。

「街」第一次検挙のときに青柳喜久代が北林トモのことをどこまで供述したかは今のところ全く不明である。資料が見当たらないからである。

伊藤律は第一次「街」グループが検挙されていることから、その時点で青柳が北林トモの供述をしたのではないかと憶測していたという山崎早市(時事通信記者で伊藤律の第一高等学校の1年先輩)宛ての書簡がある。この書簡と井本台吉や玉沢光三郎など当時の検事たちの証言を照合すれば、たしかに注目に値する点もあるが今のところたしかな資料は見当たらない。

また北添自身も青柳と同棲していた関係で北林トモとその活動については知っていたはずだがそのことについて特高からどんな訊問を受け、どのように供述したかについては何も残されていない。但しこれについてはかなり突っ込んだ「北添忠燿の聴き書」(堀見俊吉による) が残っている。多分、青柳喜久代の姉の「千代子の聞き書」とあとは新井静子が椎野悦朗の老人ホームに入居していて、椎野氏の紹介で筆者は何回か囲碁を対局したことがあり、後伊藤キミ(伊藤律夫人)や1939年当時の一橋大学の党活動家だった旧友たちに照会したことがあり、会談は大いに盛り上がったが断片的に聴き取りを行っただけだろう。

「特高月報」にも青柳喜久代は精神異常のため何も残されていない。そのために青柳喜久代は「ゾルゲ事件の端緒は青柳喜久代の供述による」とされながらも2回の検挙とも起訴は免れている。

また「ゾルゲ事件被検挙者名簿にも青柳喜久代の名はみあたらない。青柳喜久代が目を見張るような活動を展開するのは戦後のことだ

これについては戦後最初の東京の女学校の右翼的な校長の排撃運動で最初のストライキの指導を行ったこと。その後新宿の自由労働者組合(当時は日当240円だったことからニコヨンと呼ばれていた)失業対策事業の最も先鋭的な労働組合の新宿分会長となり、その後、推されて中野区議会議員を4期務め、厚生委員長となって活動した。その生涯は実に驚嘆に値する。東京都にはまだ共産党の地方議員は数人程度しかいなかった時代のことだ。

「戦後史に於ける日本共産党」(「歴史の真実と伊藤律の「証言」」によると、青柳喜久代は生前、「北林トモ知っているのは伊藤律一人しかいなかったから、北林トモを敵に売ったのは律以外には考えられないと語っていた。」というがそれは共産党が伊藤律の除名の後のことだからそんなことはあり得ないと筆者は考える。もしそれが事実とするなら、情報活動が出来るわけがない。北林トモは街の噂話だけを宮城与徳に伝えていたわけではないから、当然、多くの人びとと接触を重ねていたのである。

伊藤律の供述がゾルゲ事件の端緒だと明確に記録したのは旧内務省警保局の極秘文書「特高月報」の1942年(昭和17年)8月号であった。これがすべての伊藤律ユダ説の原点になっている。それが占領政策によってウイロビー報告となって表面化したのである。その「捜査の端緒」の項には次のように記述されている。

「右伊藤律の自供中米国共産党日本人部員某女(北林トモ、56歳)のすでに帰国してスパイ活動の容疑あるやの陳述ありたるを以て直ちに右北林の所在調査を開始し、」云々。

この箇所は伊藤律本人が書いたものとは全く対立している。伊藤律によれば「アメリカ帰りのおばさん」が北林トモという名前であることも、元米国共産党員であることを知らず、それらは凡て特高から知らされたことだという。

事実がその通りだとすればなぜ「米国共産党日本人部員北林トモ」と書かずにわざわざ「某女」北林トモ56歳と書かれているのか。

伊藤律が党再建運動について供述を始めたのは39年11月に検挙されてから8ヶ月経った406月末のことで、国鉄のグループの検挙により長谷川浩、岡部隆司らの党再建運動がバクロされたことで「黙秘」が水の泡となったことを悟り自供し始めたことになっている。検挙されてから8カ月間目黒署の留置場でがんばり抜いた。この点については「長谷川浩の聞き書」でも確認している。

さらに「特高褒賞上申書」によると、「反日スパイ活動を行った国際共産党組織の重要な犯人に対して、不屈の精神を発揮して、徹底した捜査を行い1940627日に摘発を始め、1941927日から19426月8日までに逮捕を行った。」(『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命)100頁)と書いてある。

41年9月27日とは和歌山県粉河で北林トモが検挙されたことを指すことは判る。「42年6月8日まで逮捕がおこなわれた」とは安田徳太郎の検挙のことをいうことも判る。然し前文と同様に1940627日に摘発を始め」という事が何を指すのか分からなかった。この日は岡部隆司、長谷川浩、伊藤律らの共産党再建運動がバクロされ検挙された日であることは判るが、それがゾルゲ事件の摘発とどう結びつくのか、解明されなかった。

伊藤律の回想でも「手記の日付がばらばらでは困るから本文同様に1940年7月に統一し ておけ」と言われてその取りに書いたという。宮下は後年「特高月報」のゾルゲ事件の報告は私が書いたものではない」と否定していた。

ウイロビー報告の根本的な矛盾は伊藤律が仮に当局のスパイだったとしたら、なぜウイロビーは伊藤律を当局のスパイだとして血祭りに挙げたのか。当局のスパイを当局が暴露するなどということはあり得ないことだ。これは常識以前の問題だがそこに疑問と気づいたものは少なかった。

 

7)太田耐造資料により解明されたゾルゲ事件の端緒

ゾルゲ事件の端緒の解明には『街』グループの検挙の解明なくしては不完全になるだろう。『街』グループの第一次検挙は1937年(昭和12年)11月7日であり、第二次検挙は1941年(昭和16年)6月17日である。第二次検挙は伊藤・長谷川浩・岡部らの党再建運動に関連して、青柳も北添も新井静子とともに検挙された1940年6月から1年経った後のことであった。この検挙の日付は北林トモの検挙と関連して重要な意味をもってくる。

長谷川浩によると、彼は「北林トモの話が伊藤律から出たとき、それとは手を切った。」

志賀義雄(1928年3月15日検挙された『獄中18年』の非転向者、戦後日本共産党政治局員)はその点にふれて「伊藤は先妻の友人の青柳から北林トモのことを聞き、北林トモに会っているが、長谷川から忠告されて、会わなくなっているし.伊藤猛虎から訊問されたのは青柳よりずっと後のことである。」(志賀義雄『日本共産党史覚え書』)

志賀義雄のこの証言は長谷川浩からの証言もあるが、真相は1949年2月、米軍諜報部G2のウイロビーが伊藤律を名指しで、「ゾルゲらソ連のスパイ網を売ったのは伊藤律である」と新聞発表したことで、志賀義雄は共産党を代表してマスコミの取材に対応するために新井静子と青柳喜久代の二人から北林トモが拷問によって供述させられた真相を直接聞きとった。志賀は二人から詳細に直接真相を聞いた上で、二人には「絶対に口外禁止」を申し渡して、ウイロビー報告に対する共産党の公式見解を発表したのである。(注、ゾルゲ事件に関する志賀義雄談話)及び「ゾルゲ事件に関する伊藤律談話」は宮下弘『特高の回想』の付録に掲載されている。266頁)

山本勝之助によると「青柳喜久代は、新井静子という女性との共同の住居から警視庁に検挙され、丸の内警察署に留置されたがそれは長谷川浩や岡部隆司らが検挙されてから数日後のことである。この青柳の自供から伯母北林トモの存在と伊藤律との関係が当局の知るところとなり、伊藤律も担当の伊藤警部補に追及されて北林トモについて聞知していた不審な行動などを自供した。」

「この山本勝之助の記述こそゾルゲ事件の伊藤律端緒説の核心に迫る重要な証言である。」と『偽りの烙印』は書いている。

『特高の回想』で宮下弘は聞き手が「青柳が北林トモの名をだしたという説もありますが」という問いに対して、「それだと伊藤律は免罪されるわけですが──」と宮下弘は答えている。もし山本勝之助が書いていることが事実なら、伊藤律端緒説は崩壊してしまうのだ。

「新井静子と青柳喜久代はゾルゲ事件について自分たちが端緒を作ったのではないかと悔しそうに話していた」(堀見俊吉の青柳喜久代の姉千代子に対する聴き書)という。

然しだからと言って伊藤律に代えて青柳喜久代端緒説とはならない。特高1課長中村絹次郎著『ソ連はすべてを知っていた』によれば前述のとおり北林トモにたいする尾行、監視は北林トモがエルエー洋裁学院の2階に住んだときからその前の家を借りて尾行、監視をしていたと書いているからである。

「太田耐造資料」の「国際共産党対日諜報機関検挙申報」の5~6頁の行間に書かれた鉛筆書きの書き込みの発見によって、なぜ『太田耐造追想録』で太田耐造の後輩の検事たちが「ゾルゲ事件に伊藤律は関係がない」と発言したのか。その真相がようやく判明した。

その謎を解く鍵は鉛筆書きで「3月」と書かれていることだ。伊藤律の供述は党再建運動がバクロされた1940年6月以後であり、3月には関係がない。但し青柳喜久代の記録にも3月は見当たらない。当局は(太田耐造と書き換えてもいい)精神異状となって保釈した青柳の供述によるとは書けなかったのだろう。またソ連の諜報団の検挙が日本共産党の再建活動の指導者がコミンテルンまたはソ連の諜報機関を売ったとするほうが共産党の再建活動家やその仲間に対しては一層の効果があると思ったからであろう。

これまで『太田耐造追想録』にゾルゲ事件当時の思想検事たちの回想があるだけだったが、今回、国会図書館で『太田耐造資料』が公開され、その膨大な資料の中に思いがけず   「ゾルゲ事件概要」昭和17年3月 司法省刑事局」と銘打たれたゾルゲ事件の「犯罪発覚の端緒並びに捜査の経過」とタイトルされた資料を発見した。以下の通り書いてある。

(1)犯罪発覚の端緒並びに捜査の経緯(一)犯罪発覚の端緒「かねて東京刑事地方裁判所検事局に於て警視庁を指揮し、捜査中なりし、日本共産党再建運動関係治安維持法違反被疑者伊藤律、青柳喜久代等の自供により米国共産党員北林トモ(当57年)が昭和11年ころ帰国し、暫く東京市内に於て洋裁業を営みたる後郷里和歌山県那珂郡粉河町に帰郷したる事実判明したるを以て、昭和16年9月28日治安維持法違反被疑者として検挙し、その取り調べを進めたるに、米国在住当時親交ありたる画家宮城与徳(当40年)が帰国後外国の為諜報行為を為しつつあるやの嫌疑生じ、同年10月10日早朝、同人を検挙し築地警察署に勾引すると共に家宅捜査を行いたるところその所持品中より、多数の有力なる証拠物件を発見し」以下云々と記載されている。(太田耐造資料№203「ゾルゲ事件概要」)

当局側の資料に「ゾルゲ事件の端緒」として青柳喜久代の名が登場するのはこれが初めてである。北林トモは夫芳三郎が米国の財産を処分して、帰国し、渋谷区隠田から故郷の和歌山県粉河町に移ったのは1939年12月のことだ。そのとき伊藤律はすでにその1ヶ月前の11月に検挙されて目黒警察署に留置されており、北林トモとは既に連絡を絶っているから北林トモが粉河に引っ越したことなど知る由もなかった。

『偽りの烙印』(1993年)著作当時はここまでのことは詳細に書いたが、ようやく権力側の資料によってさらに確実に裏付けることが出来た。

(完)

(追記、ゾルゲ事件の伊藤律端緒説の反論は伊藤律の次男淳氏が何としても父の冤罪を晴らしたいと意欲を筆者につたえてきた。しかし淳氏は2019年2月に食道ガンに侵され、手術は成功したと連絡があり、八王子で会って資料を渡したが、その後病状は急変しガンは全身に転移し、筆者が本年9月初めに太田耐造資料「国際共産党対日諜報機関検挙申報」の鉛筆書きの該当部分、その他の資料を持って見舞いに行ったが、執筆は到底無理だと判断して引き揚げてきた。間もなく9月7日に帰らぬ人となった。ゾルゲ事件の伊藤律端緒説は伊藤律一族にこれほど残酷な状態におきながら「革命を売る男伊藤律」の著者松本清張でさえ訂正したにもかかわらず、いまだに日本共産党は訂正していないが、これを訂正しない限り日本共産党は冤罪事件に発言権はないだろう。また反論があるなら公式な共産党の見解をこの機会に発表すべきだろう。)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1091:191207〕