受任の医療過誤事件が結審した。

(2022年10月3日)
 私と、澤藤大河とで担当している医療過誤損害賠償請求事件が、本日結審となった。東京地裁医療集中部の一つに係属している術後脳梗塞発症事案である。この手術の執刀者は、「神の手」とメディアからもてはやされた心臓外科医。原告は、チーム医療の不備を問題としてきた。被害者となった患者は開業医で、被告は都内の大学病院である。

 本日、最終準備書面を陳述し、原告訴訟代理人澤藤大河が10分余の、「主張の要点」を口頭で陳述した。最終準備書面の冒頭部分と、意見陳述要旨の冒頭をご紹介しておきたい。医療事故や医療過誤訴訟の一端をご理解いただきたい。

最終準備書面冒頭

                        

第1 事案の概要と主たる争点
1 人は病を得て診療を受ける。疾病を治療するために通院し入院し治療を受け、疾病を治癒しあるいは寛解を得て、日常に復帰する。病人として入院し、健康を回復して退院するのである。少なくとも、当初の疾患における症状を軽減して診療を終える。これが、患者の期待であり、通常の診療の推移である。そのために、医療はある。
 ところが本件においては、原告は開業医としての稼働に支障のない健康状態で、不要不急の入院治療を受け、労働能力を完全に喪失する医原性の疾患を得て退院した。健康体として入院し、重篤な障害者として退院した。障害は、被告の過失による医原性の事故によるものである。

2 原告の施術は、無症候性心筋虚血を原疾患とするものであった。原告に心疾患の自覚症状はなく、開業医としての原告の職業生活にまったく支障のないものであった。原告が敢えて不要不急の手術を受けたのは、被告病院の心臓外科に、「神の手」ともてはやされる練達の医師を迎えたという惹句によるものである。
 被告は、原告とその家族に対して、「神の手」による執刀の手術成績を誇大に喧伝し、術前になすべき手術の正確な危険性(リスク)についての説明を懈怠した。

3 原告は、被告病院心臓外科において不要不急の冠動脈バイパス(5枝)手術(以下、本件手術という)を受け、術直後に施術に起因する術後脳梗塞を発症し、間もなく症状固定して、後遺障害等級1級に相当する後遺障害が残存して今日に至っている。
 入院直前まで開業医として稼働していた原告が、術直後から労働能力を完全に喪失して今日に至り回復の見込みはない。

4 本件術後脳梗塞は、術中低血圧の継続に起因する低還流型と呼ばれる典型症状である。
 心臓外科手術中における患者の適正血圧維持は極めて重要な術者の義務であるところ、被告は臨床医学の知見において許容される術中患者の血圧の下限値を超えた血圧管理における明らかな過誤によって、原告に低還流型術後脳梗塞を発症させたものである。血圧管理過誤の存在が原告の低還流型術後脳梗塞発症を推認させるものであり、また、低還流型術後脳梗塞発症が被告の血圧管理の過誤、すなわち適正血圧維持の注意義務懈怠を物語るものでもある。

5 以上の事案の概要に即して、下記の各点が本件の争点となっている。
(1) 術中における患者の適正な血圧管理の懈怠
(2) 術前における手術リスクについての説明義務違反
(3) 各過失と損害との因果関係
(以下略)

原告主張の要約を陳述する。

                    

1.術中血圧管理における過失について
 被告には、適切な術中血圧管理によって十分な脳血流を維持し、患者の安全を確保すべき注意義務がある。
脳は、生存に不可欠な重要臓器として極めて多量の酸素と栄養分を必要とし、これを脳血流から得ているが、その欠乏には脆弱である。必要で十分な脳血流を維持するために、人体には自動調整能が備わっている。
 通常、血圧に応じて血流量が決まる。しかし、様々な要因で変動する血圧に応じて脳血流量が変化するのでは、脳機能の維持に障害が生じ脳細胞の生存にも危険が生じる。一定の範囲では、血圧の変化にかかわらず、過不足ない脳血流を確保するための仕組みが自動調整能である。
 しかし、自動調整能の働く血圧範囲にも限界がある。血圧が低くなりすぎて自動調整能が作動する範囲を逸脱した場合、直ちに血流が途絶えることにはならないが、必要な脳血流量を維持することはできず、脳虚血が生じる。
その血圧の下限には個体差もあり、個々のケースで脳虚血が生じる血圧下限を明確に知ることはできない。だからこそ、患者の安全のために、長年の経験の蓄積によって、間違いなく安全であると確認されている成書の記載に従うほかない。
 最も権威ある麻酔科の教科書『ミラー麻酔科学』には、端的にMAP(平均血圧)70mmHgとされている。被告提出の成書『神経麻酔』によっても、同65mmHgである。これを下回ることのないよう術中血圧を維持すべきが医療水準として求められ、術中血圧管理における被告の注意義務の根拠となる。
 本件手術中の血圧記録によれば、主位的な主張であるMAP70mmHg維持義務違反で3時間16分間、全手術時間に対して65.8%に及ぶ。また、予備的な主張であるMAP65mmHg維持義務違反で2時間44分間、全手術時間に対して55%である。
被告の過失は明白で、術中長時間にわたり脳に深刻な虚血が生じたことも明らかというべきである。
 被告の血圧管理についての反論は、結局のところ、術中血圧管理の基準はないという驚くべきものであった。実際、術前に血圧管理の目標値を定めた事実はなく、術終了まで、基準を意識した形跡もない。
 被告は、オフポンプのバイパス手術であることを低血圧が許容される理由としているが、明らかな誤りである。自動調整能は、人間の生体としての機能であって、その作動の範囲が手術の目的や態様で左右されることはありえない。人間の体は、オンポンプであれば脳血流を維持しえないが、オフポンプであれば脳血流を頑張って供給するという便利な仕組みにはなっていない。
 医療水準を無視した危険なオフポンプ手術の例をいくら並べても、本件手術における被告の過失がなくなるわけではない。そのような例においては、安全のために見込まれたマージンをギリギリまで使っただけであって、本件で脳虚血が生じていない証拠にはならない。被告がこの点の根拠として引用する文献や医師意見書については、甲B6落合亮一医師の厳密な医学的見地からの反駁をご理解いただきたい。
 なお被告は、繰り返し術中のセンサーにより脳虚血を検知できる態勢をとっていたと述べているが、全く無意味な主張である。現実に本件脳梗塞を生じさせた脳虚血は検知できていないし、本件術中の検査態勢はそもそも患者の脳梗塞を検知するためのものではない。(中略)

3.説明義務違反について
 手術適応の有無に関する術前検査が終了した時点で、医師は患者に対して、最終的な術前説明の義務を負う。具体的な検査結果を一般的な医学的知見に照らして、予定された当該手術のリスクとメリットを正確に患者に伝達し、手術を受けるか否かの最終判断を可能とするための説明である。これは、医師の専門家責任の一端でもあり、患者の自己決定権が要求するところでもある。
 被告は果たしてそのような説明を行ったか。明らかに否である。(以下略)

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 医療過誤訴訟は患者の人権擁護の問題である。他の現代型訴訟と同様に、原告(患者)と被告(医師・医療機関)とは、けっして平等ではない。診療記録は全て被告側にあり、専門的知見にしても、また鑑定人や証人の準備にしても、訴訟にかける費用負担能力にしても、圧倒的な格差がある。いかにして、この格差を埋め、民事訴訟における実質的平等を実現するか。その営々たる努力がつみ重ねられてきた。

本件を担当して、あらためて、その道半ばであることを痛感する。判決は来年1月。期待して待つ以外にないが、裁判所にはこの点についての十分な認識を得たい。

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2022.10.3より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=20074

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12428:221004〕