句集『無限から』を読む――終わりなき物語

今が昔か 昔が今か 月は現れ隠れる

あらぬ年あらぬ月 あらたに創らん    

――林完枝、「水な月、神な月」、『あらぬ年、あらぬ月』

 子伯という俳人の遺稿集『無限から』が俳句団体である吟遊社から送られてきた。この俳人の作品も、人生も私はまったく知らない。それだけではなく、私は俳人でも、文芸評論家でもないため、戸惑いながら、ページをめくっていった。この句集を読みながら、私が最初に思い浮かべたもの、それは林完枝の遺作集『あらぬ年、あらぬ月』であった。生前二人は会ったこともなければ、お互いの作品を読んだこともなかったはずである。文体上の共通点もない。それ以前に、子伯の遺作が句集であり、林の遺作には韻文も掲載されているが、主要部分が三つの短編小説で構成されたテクストであるという大きな違いもある。それにも係わらず、ここで二つの作品の間テクスト性 (intertextualité) に言及しようと思ったのは、バフチンが語っているように、時間的にも空間的にもまったく異なった言説 (discours) が、ほんの僅かな語彙的な、音韻的な、ジャンル的な、あるいは、その他の何らかの接点が見出されることによって対話関係を構築するからである。

 ここで取り上げる二つの作品の距離は、日常会話の分析に関連する一般的な対話理論の範疇から言うならば、あまりにも遠いものである。しかしながら、この二つのテクストは死や再生というテーマ、語られた言葉と言葉との接触や方向性を通して、確かに対話関係を築いていると述べ得る。前置きはこれだけにしよう。二つのテクストの間テクスト性に対する語りを始めよう。

生と死を巡るイマージュ空間

 遺作というものと死のイマージュ (image de la mort) とは連鎖する。更には、生前、子伯が車椅子生活を送っていたこと、林が乳癌で余命宣告をされていたことも、二人の作品に死の影を感じさせるファクターであるかもしれない。しかし先ずは、死のイマージュとは何かという問題について語る必要がある。多くの場合、死には苦痛、悲惨さ、不幸、孤立感、重苦しさ、喪失感といった負のイマージュが付与されるが、生の対極にある死の最も大きな形態的な特徴は変化しないこと、動くことがなく停止していることである。

 物理学者・工学者のエイドリアン・ベジャンは『流れとかたち―万物のデザインを決める新たな物理法則』の中で、「死の状態は熱力学における「環境との平衡状態」を意味し、その状態にある系は、圧力や温度などが周囲と同じなので、中で動くものが何もない」(柴田裕之訳) と述べている。つまり、死は生とは真逆な状態を有する存在性である。子伯は生と死とのこの根源性をよく知っていた。『無限から』の中にある「息すれば一歩」、「手をのばす根源の火にふれるまで」、「動けることの自由 漕ぐ漕ぐ漕ぐ」といった俳句は生とは動きであることを如実に表している。それに対して『あらぬ年、あらぬ月』は生のイマージュよりも死のイマージュが多数描写されている。「出来るだけのことはした、精一杯頑張ったと朗らかに自分を認めることは、何と難しいことだろう。「気づいたときにはすでに手の施しようがなかったんです」と白状することだけは避けたかった」(「のちから」) という言葉、「世界は壊れた子ども、壊れた大人に充ち溢れている。世界がまとう外套にしがみついて手離すまいと必死である。気を緩めるとまっさかさま、世界の外へ放り出される、そこは名づけようもない暗闇だ」(「子子の子」) という言葉、「走りまわる ほとばしる 鮮血は飛散し 流れ尽きる 吊りさがる」(「ポンコツ屋」) という言葉は、残酷な、苦悩の形態としての死のイマージュの連続性が示されている。

 生の清浄さと死の寂寥感を歌い上げようとする子伯の作品と、病的とも形容できる死の言葉が溢れた林の作品。まったく異なった色彩のイマージュを持つ二つのテクストは生の領域おいても、死の領域においても対話関係を構築しない。二つのテクストが対話関係を結ぶ空間は、生の領域と死の領域という二つの異なる領域をアウフヘーベン (aufheben) する再生の領域である。再生とは生まれ変わりを意味する場合も、この世界ではない別な世界での生を意味する場合もあるが、いずれにせよ、二人のテクストには再生というテーマが語られている。この問題は極めて根本的なものであるが、その詳しい探究をここではこれ以上行わずに、後続するセクションで行うこととする。

物語の連続性

 死とは停止である。身体的にはそうであるが、精神的にもそうであろうか。こう問うてみて、この問がアポリア (aporia) であることに気づく。われわれは生命体に死があることを知っているが、死が何であるのかは知ってはいない。われわれは死の中で死を語ることはできない。われわれは生から見た死についてしか語ることができない。死によっても身体はこの世界に残る。その身体は確かに停止しており、二度と動くことはない。だが、それは死者の身体の状態であって、死に至ったある人間の精神が死後にどうなっているのかをわれわれは知ることができない。死後に体重が21g減るという研究結果があるが、それが正しいとしても、その現象と精神との関係が何かはまったく解き明かされてはいない。

 しかし、死後も魂があることを信じている人々は数えきれないほど存在し、その確信が宗教を生み出すのかもしれないが、この問題はここで問うべきものではない。ここでは生と死と再生を連続させるものが何かを問うことが重要である。何故ならば、それが今検討している二つの作品の連関性を解き明かす鍵となるからである。

 われわれが有する死に対する知識は僅かだが、われわれは死を様々な形で形容してきた。もしかしたら、それが歴史 (histoire) というものの一つの側面なのかもれない。歴史が物語であり、物語性とは生の空間の出来事の連続であるだけではなく、死の空間の物語でもあるのなら、生の世界と死の世界は連続する。それだけではなく、生と死を超える再生の世界の物語世界も開示させることが可能になるものなのではないだろうか。生は死によって終わるのではないならば、死の世界にも何らかの物語があり、死の世界にも終わりがあるならば、死の次の再生の世界があるかもしれない。

 しかしながら、『無限から』の中にも、『あらぬ年、あらぬ月』の中にも、再生された世界の描写が明確に書かれている訳ではない。再生のイマージュは暗黙裡にしか示されていない。では、何処に再生の物語空間が存在しているのか。それは、あるテクストとの他のあるテクストとの対話関係から生み出される共鳴した空間の中に存在しているのである。「時間的にも空間的にもかけ離れていて、お互いのことは何も知らない二つの発話が、意味的に対比されとき、(テーマや観点が一部分共通であるというように) 両者のあいだに何か少しでも意味的な収斂があるかぎり、その発話どうしは、対話的な関係をとりむすぶ」(佐々木寛訳) とバフチンが「テキストの問題」(in 『ことば 対話 テキスト――ミハイル・バフチン著作集⑧』) において語った言葉をもう一度思い出そう。ここで取り上げている二つのテクストの対話関係は作者同士の直接の、あるいは、間接的な対話によって作り上げられたものなのではなく、二つのテクストを読んだ読者の中で展開されるものである。二つのテクストに書かれた言葉は読者の中で蘇り、対話関係が生まれるのだ。読むという行為の中で、読者はそれぞれの作者の言葉を (それはそれぞれの作者の生の証でもあるが) 再生し、新たな響きを奏で、ポリフォニー (polyphonie) が構築されるのである。

過去から未来に語られた言葉

 バフチンの言うように対話関係が時空を超えることが可能であるならば、過去と現在と未来は、言葉を通して、交差し、時空を超えることができる。そうであるからこそ、異なる場所、異なる時間に生み出された言葉が対話関係を構築することができるのだ。では、『無限から』と『あらぬ年、あらぬ月』との対話関係はどのように展開されているだろうか。それは先程も少し触れたように、人間の生と死のドラマ、更には、そのドラマを超えた再生の物語がテーマ空間上で交差しているのである。

 『無限から』の俳句を見てみよう。「手をのばす根源の火にふれるまで」、「流れ星落ちていのちの導火線」、「こわごわとカーテン開ければ… 陽の王国!」という句には、新たな出発としての再生というテーマの隠喩が垣間見えている。また、『あらぬ年、あらぬ月』の「アナクロポリス」という短編小説の中にある「生涯にわたって祖先のために尽くせば、わたしたちの子孫たちもわたしに全身全霊を尽くしくれるだろう。命を捧げてくれるだろう。(…) 寝食を忘れひたすら修行に励むのだ。自らの身体に鞭を打ち、その苦痛その傷跡は救済にいたるための受難の道程にある試練のひとつであると感謝せよ」や、「あなたは石を生産する。歯は歯石を、唾液は唾石を、目は網膜結石を、胃は胃石を、脾臓は脾石を生産する。尿管結石、尿路結石、膀胱結石を生産する。腎結石はサンゴ状に形成される。胆石も磨けば多彩に輝く貴石のように色鮮やかだ」や、「わたしたちは地中から光と水と炎を天空へと放散し、硫黄石を溶かし、窒素化合物を生成し、天から黒い酸性霧を降らせる。(…) わたしたちは目覚め、立ち上がり、初めはぎこちなく、やがては軽やかに、あふれ出る光と水と火に酔い痴れながらダンスに明け暮れることになるだろう」といった言葉。これらの言葉の中にも、負の影を纏いながらもメタモルフォーゼ (Metamorphose) としての再生の物語の欠片が潜んでいる。

 メタモルフォーゼについてエマヌエーレ・コッチャは、『メタモルフォーゼの哲学』の中で、「誕生とは区別と分離の出来事であるだけではない。合流と集団における同化の運動でもある。あらゆる誕生は異質な身体への浸透である。誕生とは異質な身体の駄到であり順応である。誕生の秩序は地球の身体を再配分することしかしていない。この秩序は、自然にしたがって、すべての生まれた存在、つまり現在、過去、未来のすべての生きものは作られてきたし、いまも作られており、そしてこれからも同様の仕方で作られるであろう」(松葉類、宇佐美達朗訳) と述べ、更に、「メタモルフォーゼとは、二つの身体が同じ一つの生であるという奇跡である。わたしたちは普通、異なる形態の二つの身体はなにも共有していないと考えるが、しかしそれら身体は同じ生を持ち、同じ自我であり、わたしたちが自分の子どもの身体に対して持つのと同じ親密さを持っている」とも述べている。そうであるならば、再生はかつてあそこにもあったし、今ここにもあり、遥か未来の向こうにもあると言うことができるものである。そして、生体だけでなく、言葉も再生するのだ。

物語のエコーが共鳴する

 物語はいつも始まり、いつも終わる。この意味で物語は再生のドラマである。物語は語られるものである以上、言葉によって成り立っているが、物語るためには何らかの出来事が示されなければならない。それだけではなく、ある出来事と他のある出来事がポリフォニックな響きを奏でていなければならない。ここで取り上げている二つの創作テクストの対話性の中心は再生というテーマである。それがマクロレベルでの二つのテクストの対話性であるが、具体的な声と声との響き合いはどうなっているであろうか。この問題の検討を行う必要がある。

 『無限から』にある「魂のエンドロールが止まらない」という句や、「地球は羊水。尽きぬいのち」という句や、「明日は来る来迎の火をたしかめて」という句。『あらぬ年、あらぬ月』の「アナクロポリス」にある「天上へ続く階段の一段一段は、浄められた金で造られることになるだろう。天上の大祭壇は黄金の輝きを永遠に放つだろう。極彩色に咲き誇る花々は芳しい香りを漂わせるだろう。あなたの前に広がるのは永遠の救済につながる長い道である。自己犠牲こそが救済である。光輝く天上に、あなたの身体は無用である」という言葉。あるいは、「木の子」の中にある「踊り続けよう 暗闇に 緑の光を放つ 木の子たち / わずかは無数 無数はわずか 自然数にゼロはない」という詩句や「ポンコツ屋」の中の「水琴窟 ひたそら残響待ちわびるエコーは / もどかしさのあまりにしぐる 耳を清まして / 語りかけてくる音 声をなぞらうと首をのばす」という詩句。イマージュ世界に身を置いた二人の作者は、向こう側の世界の描写によって、ここにはないが確かに何処かにあると信じ得るもう一つの世界について語っている。それは再生されたトポスであり、時空間の乗り越えである。二人の言葉は向こう側の世界を目指し、交差する。

 言葉と言葉が交差すること。そこにもメタモルフォーゼが現出しているのではないだろうか。そうであるからこそ、われわれはただ単に語るのではなく、他者の言葉に耳を傾け、その言葉を評価したり、その言葉に反発したりする。われわれは常に対話を求めているのだ。そして、ある言説が他のある言説と対話関係を結ぶとき、そこにはある主体の言葉と他のある主体の言葉とのメタモルフォーゼとしての関係性が構築され、言葉と言葉のポリフォニーが奏でられる。こうした言葉のエコーとは過去と現在と未来の言葉が時空を超えて響き合う物語であり、ある言葉が他の言葉の影響を受けてメタモルフォーゼしていく姿である。

 上記した『無限から』の中の「流れ星落ちていのちの導火線」という句と『あらぬ年、あらぬ月』の中の「あなたは石を生産する。歯は歯石を、唾液は唾石を、目は網膜結石を、胃は胃石を、脾臓は脾石を生産する。尿管結石、尿路結石、膀胱結石を生産する。腎結石はサンゴ状に形成される。胆石も磨けば多彩に輝く貴石のように色鮮やかだ」という言葉との対話関係を見つめたとき、また、前者のテクストの「魂のエンドロールが止まらない」という句と後者の「踊り続けよう 暗闇に 緑の光を放つ 木の子たち / わずかは無数 無数はわずか 自然数にゼロはない」という詩句との対話関係を見つめたとき、更には、前者の「明日は来る来迎の火をたしかめて」という句と後者の「水琴窟 ひたそら残響待ちわびるエコーは / もどかしさのあまりにしぐる 耳を清まして / 語りかけてくる音 声をなぞらうと首をのばす」という言葉との対話関係を見つめたとき、両者の対話関係は読み手の中で築き上げられ、二つの言葉が融合し、反発し、発展されながら、新たな言葉が紡ぎ出されていく。それは再生の物語であり、メタモルフォーゼの物語である。

メタモルフォーゼと万物照応

 シャルル・ボードレールは、「万物照応 (correspondance)」という詩の中で、「遠くで溶け合う長いエコーのように / 暗く深いまとまりの中で / 夜のように光のように巨大な / 芳香と色と音が答応し合う」(拙訳) と歌った。ボードレールは万物照応が生み出す再生の物語を熟知していた。この神秘的な命あるものと物質との照応関係は動きの中に現れる。ベジャンも上述した本の中で、「生物・無生物の別なく、動くものはすべて流動系である。流動系はみな、抵抗 (たとえば摩擦) に満ちた地表を通過するこの動きを促進するために、時とともに形と構造を生み出す (…)」と語っている。だが、流れが生じるのは生命体の動きの中や、物理的な流動現象の中だけではない。言葉の動きもある形とある意味構造を生み出す。バフチンならば、言葉の動きはジャンルとテーマを生み出すと述べるかもしれない。

 言葉がより自由に、より活発に、よりリズミカルに流れるとき、そこには対話関係が生み出される。対話関係は物語である。言葉と言葉がぶつかり合い、反発し合いながらも、ある方向へと収斂していき、合流し、メタモルフォーゼとしての再生の物語が展開されていく。それは生物、無生物に係わらずに広がっていく流動体の物語でもある。語ることは生きる証しであると共に、かつてと今とこれからとを繋ぐメッセージにもなり得る。われわれが他者の言葉に耳を傾けるとき、一つ、また一つと対話関係が開示される。

 最後にもう一度、『無限から』と『あらぬ年、あらぬ月』とのポリフォニーの問題に戻ろう。二つの作品の対話性は、再生というテーマを架け橋としていることはすでに指摘したが、それがイマージュ空間内での言葉の交差である点を強調する必要性がある。それも、この流動する対話関係はガストン・バシュラールの主張に従うならば、火のイマージュに支えられたものでも、土のイマージュに支えられたものでも、空気のイマージュに支えられたものでもなく、水のイマージュに支えられたものである。バシュラールは水のイマージュについて、『水と夢』において、「(…) 水は流動的言語活動、障害のない言語活動、連続しまた連続される言語活動、リズムを柔軟にする言語活動、さまざまなリズムに均一な物質をあたえる言語活動の主人公である。したがって、われわれは流動的で生き生きしたポエジー、つまり源泉から流れ出るポエジーの質を述べる表現にその十分な意味を躊躇せずにあたえることになるのである」(及川馥訳) と語っている。この水の持つポエジーの力を、ここで話題とした二つのテクストは確かに宿している。

 それゆえ、再生の物語は流動する水の物語でもある。水は流れ、広がり、未来へと向かう。『無限から』の中の「一音は雑踏のなかのオルゴール」という句を思い出そう。子伯の世界は、林の物語世界と響き合いながら、今も続いている。それこそが再生の物語である。二つのテクストを読むとき、われわれはメタモルフォーゼした子伯の声と林の声のポリフォニーを聞くことができる。何故なら、言葉は尽きることがない命だからである。

初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
宇波彰現代哲学研究所 句集『無限から』を読む――終わりなき物語

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