はじめに
吉本隆明『共同幻想論』(河出書房新社、1968年)の「巫女論」に次の文章が読まれる。「シャーマンでは、自己幻想が問題であるがゆえに、(中略)かれの自己幻想が、他の人間であっても、神であっても、狐や犬神であっても、ようするに共同幻想の象徴に同化することによって部落共同体の共同利害を心的に構成しうる能力にあるのだ。」(105頁)
「村の堂祀にかざられた神仏の像は、村民の共同幻想の象徴である位相では<神仏を粗末にしてはならない>という伝承された聖な禁制にほかならない。しかし巫女の<性>的な心性からは子供と遊び、子供が面白がれば神仏の像のほうも面白がるといった<生きた>対幻想の対象としてあらわれる。ただ巫女は村の堂祀の仏像を未発達な<性>的対象としてしか措定しえないために、「子供」が未成熟の象徴をおびてこれらの<巫女>譚に登場するのである。」(98頁)
ここに「自己幻想」「対幻想」そして「共同幻想」のトリアーデが記されている。1970年に本書の第13版を購入して読んだとき、真中の「対幻想」が印象的だった。例えば夫婦であることは、個人(自己幻想)と社会(共同幻想)を連結する重要観念であると認識したからである。しかし、あれから40年以上の歳月を経て、私はこの「対幻想」はありえないものと結論し、よって上記のトリアーデ論はリセットするべきものと判断するに至っている。以下において、これまでの私の研究成果を引用するかたちで、詳細を述べることとしたい。
1 対幻想批評―その1―
吉本隆明『共同幻想論』(河出書房新社、1968年)の「巫女論」(同書、97~98頁)に次の記述がある。
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『遠野物語拾遺』にあらわれている<巫女>譚には特徴がある。それはけっして巫女が主役として登場しないことである。(中略)このような位相でしか登場しない巫女は、成熟した<性>の対象として村落の共同幻想をえらびえない水準にあるといえる。その意味で日本の民譚がもつ全体の位相を象徴している。この問題はもっとつきつめることができる。おなじく『遠野物語拾遺』に、はっきりと<巫女>と名ざされた巫女が登場する場面がある。
村の馬頭観音の像を近所の子供たちがもちだし投げたりころばしたりまたがったりして遊んでい た。それを別当がとめると、すぐにその晩から別当は病気になった。巫女に聞いてみろと、せっかく観音さまが子供たちと面白く遊んでいるのをお節介したから気に障ったのだというので詫び言をしてやっと病気がよくなった。
遠野のあるお堂の古ぼけた仏像を子供たちが馬にして遊んでいるのを、近所の者が神仏を粗末にすると叱りとばした。するとこの男はその晩から熱をだして病んだ。枕神がたってせっかく子供たちと面白くあそんでいたのに、なまじ咎めだてするのは気に食わぬというので、巫女をたのんでこれから気をつけると約束すると病気はよくなった。(『遠野物語拾遺』五一、五三)(中略)
つまり、この<巫女>譚では村の堂祀にまつられた仏像は幻想的にいえば<生きている>存在であり、子供のほうが面白く仏像と遊んでいれば、仏像のほうも面白く子供と遊んでいるにちがいないと相互規定的にかんがえるところに、巫女と村民たちの伝承との微妙にちがった位相があらわれている。村の堂祀にかざられた神仏の像は、村民の共同幻想の象徴である位相では<神仏を粗末にしてはならない>という伝承された聖な禁制にほかならない。しかし巫女の<性>的な心性からは子供と遊び、子供が面白がれば神仏の像のほうも面白がるといった<生きた>対幻想の対象としてあらわれる。ただ巫女は村の堂祀の仏像を未発達な<性>的対象としてしか措定しえないために、「子供」が未成熟の象徴をおびてこれらの<巫女>譚に登場するのである。
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吉本は、当時、フロイトの術語「リビドー」(性衝動)に心酔していた模様である。「<性>的対幻想」の着想はその点を抜きに考えられない。上記の引用では、未発達であれ仏像を<性>的対象として措定するという構えが読みとれる。彼はクランなど先史社会における兄弟姉妹(男女関係)をも対幻想で説明する。しかし、たとえば母方オジ権を調べ上げた後期バッハオーフェンを吉本が知っているならば、<性>的対幻想には無理があることを悟ったはずである。吉本は『母権論』までの前期バッハオーフェンなら知っている。そのことについては後で述べるとして、ここでは「村の堂祀にかざられた神仏の像」「村人」「子供たち」の3者に関連する吉本の読み込みを問題にする。結論を示せば、子供たちと「古ぼけた仏像」とは対幻想なのではなく、村人をも交えた共同幻想であるということだ。その点について、私の著作『歴史知とフェティシズム』(理想社、2000年)からの転載において説明したい。
1997年8月下旬、私は富士五湖の一つ精進湖北岸の女坂峠に出かけ、幾つかの石仏たちと初対面のあいさつを交わした。精進は五湖中ではいちばん小さく、ぐるっと回っても一時間かそこいらなので、もう一つの楽しみを満喫することにした。それが石仏探訪である。
江戸時代、中でも寛政年間には各地の農民が盛んに石仏盗みを行なったが、その原因は直前の天明の大飢饉である。当時の下層生活者たちは、飢饉となれば災難除けに石仏を拝み、願いかなって生き残る者、かなわず死ぬ者にわかれ、洪水となれば石仏もろとも濁流に溺れ死ぬ者が続出した。疱瘡など流行り病におそわれると、石仏の前で手を合わせながら息絶える者が後を断たなかった。そのような農民・庶民のせつなくやるせない思いを一身に背負っているのが野や峠の仏、崩れ石仏である。私は、崩れ果てても遺り続ける石仏たちに出会うことで、実はかつてその同じ石仏に辛い思いや感謝の思いを語り尽くしたであろう無数の農民たちに出会っているのである。そんな私の心が、私のからだを女坂峠へと向かわせたのだった。
精進地域は、かつてオウム真理教事件で広く報道された、あの上九一色村に含まれる。その一帯には民間信仰上で特色のある石仏が路傍にたくさん現存している。村役場・企画観光課の小林さんのご配慮で参照できた『上九一色村誌』(村誌編纂委員会、1985年)によると、この地域には道祖神、地蔵、庚申塔、霊場巡礼供養塔が多い。そのうち幾つかは、私が日頃注目する「神仏虐待儀礼」の名残をとどめている。神体をひどく傷めてしまうこの儀礼は、石仏に対する信徒たちの測り知れなく深い親愛の証拠なのである。
まず、松原の村はずれに祀られる「こくさぎ地蔵」。かつて六地蔵であったが、昭和20年に発生した水害で5体が流された。辛うじて生き残ったこの石仏は、しかし雨乞いにおいて村人の手荒な儀礼に身を水中にさらされるのである。注連縄で巻かれて川に入れられ、その後一週間程の間に雨を降らせる仕事を果たさなければならないのだった。井野には、宝暦四年(1754年)造立の道祖神を中心に、村人が「祝神」と呼んできた石仏群がある。その一つ庚申塔は、やはり身を縛られる儀礼にさらされる。こちらは、紛失物が出てくるようにと拝まれつつ、左ないの縄で縛られるのである。本郷の芦川端に鎮座する地蔵は灰をかけられる。子供の風邪が治るようにとの願をかけられつつ、この石仏はしだいに灰に埋もれていく。生き埋めから救ってくれるのは雨降りである。入野の観音堂わきに集められた石仏群には六地蔵がある。その3体は頸欠けである。それらは、しかし、紛失物を探すようにとの村人の願いを聞き届けるべく、糸で縛られて仕事をする。
1997年の夏8月23日、精進湖北岸の女坂峠に向かうに際し、まずは湖畔の食堂で地元の婦人数人に今石仏はどうなっているか尋ねてみた。いまどき女坂は地元の者でも滅多に越えたりしないから定かではないが、との前置きのあと、石仏は確かに今でも幾つか並んでいるはず、との明快な返事を戴いた。それとともに、私のことを若いのにお地蔵さん巡りだなんて立派だね、と誉めてくださった。私のように女坂峠とか石仏とか尋ねてくる旅行者は最近全然いないのだそうだ。「これから行って、皆さんの分もお地蔵さんによろしく頼んできますから」と言い残して、一気に峠へと向かった。
登り口に「中道往還」と題する案内板があって、こう書かれていた。「中道往還は、古代から開かれたといわれ、甲斐の国と駿河の国を結ぶ最短距離の街道です。……戦国時代には、武田信玄、織田信長、徳川家康等の名将が往来した軍用道として、本栖・古関には関所がおかれました。江戸時代には、駿河から塩、海産物の輸送路として伝馬制がしかれ、産業の道として活況を呈したのでありますが、明治以降、鉄道の開通と自動車道路の発達により忘れられた道になろうとしています。往時の証として、女坂峠にこんな句碑が立っています。生魚の二十里走る郭公鳥(ホトトギス)」(山梨県・上九一色村)。
この案内書を読んで、はやくも私は峠やそこへの途中に佇む石仏たちに話しかけずにおれなかった。梯・古関から峠を越えて精進へと抜けるこの一帯におわす石仏たちは、上に紹介したように、たぶん江戸の昔から信徒に虐待儀礼で崇敬されてきたのだ。虐待される神体は、必ずやその前後に著しく丁重に扱われる。懇ろと虐待の、その落差ははげしい。それだけに、私にはこの女坂の石仏たちはいとおしい。これらの崩れ石仏たちに会いたくてわざわざ新宿から高い交通費と貴重な時間を割いて女坂峠へと足を運ぶ人は、いまでは私を措いてほかにはいないのか。今では何の意味も価値も喪失してはいるのだけれど、この石仏たちの前で、いったいどれだけの困窮者が生命をつなぎとめ、あるいは落としていったであろうか。水に浸けられても、縛られても、蹴ったぐられても信徒の生命を救えなかったこともあったであろう。そのようなことを連想しては、傷ましい姿にやつれ果てた石仏たちのかたわらにしばらく腰をおろしてみたのであった。
上記『村誌』(1565頁)によると、精進湖側から富士山に登る道すがら、富士風穴へ向かう途中に溶岩洞穴があって、そこには富士講の行者が3人(3代)生活したという。誓行(1832年没)、賢鏡(1849年没)、善行である。この洞穴は近在の村人に信仰された。それから、本栖の北はずれにあるキンササマ(金札様、七社大明神ともいう)で毎年七月一七日夜に行なわれる祭礼では、神輿をはげしく乱暴にかつぎ回って、壊してしまうこともあるそうだ(1566頁)。その折り、「南無富士山、小御岳(こみたけ)石(せき)尊(そん)……」という唱えごとをする。その唱えごとの背後には、明らかに山岳それ自体を神体とみなす自然信仰が潜んでいる。このようにして、精進湖畔から女坂峠を越えて古関へと向かう山間一帯には、山村生活者とその村々に共同で営まれた自前の農耕儀礼が辛うじて確認されるのである。
彼らだけではない。江戸時代の農山漁村の日常生活者にとっては、神がいるから拝むのでなく、何か拝まずにおれないことがあるから神を石仏として自前でつくりだすのである。そして、自らつくった神=石仏を拝むことにより、実はもともと己れのうちに潜んでいた力を引き出すのである。かつてそのような営みが繰り返されていたことの証として、たとえば女坂峠の崩れ石仏たちが今に遺ったと言いうるのである。そのようにして「古ぼけた仏像」は村の子供たちとの対幻想を物語るのでなく、村人すべて、村落共同体の共同幻想を象徴するのである。
さて、ここで本論をさらに展開する手がかりとして、道祖神信仰における神仏虐待の事例を各地に拾ってみよう。虐待の程度にしたがって、悪口雑言、縛り上げ(引摺り)、鞭打ち、水中投棄、そして火あぶり(神殺し)の順に見ていこう。
まず悪口雑言のサンプルには、以下のものが最適である。「バーカよ バカよ 道祖神はバーカよ」(山梨県富士吉田市上吉田)「どうろく神という人は 頭にこっぱすでかした 切っても 焼いても なおらない ヨイヤアノー グワーン」(長野県上高井郡小布施町都住)「せいの神のじんじいは 火の子にむせて 湯のめ 茶のめ ヤウヤノウェー ヤイヤノウェー」(長野県茅野市)。信徒はなぜ己れの神にむかって悪口雑言を吐くのであろうか。その分析は後回しにして、さらにサンプルを引用する。「道祖神はオン馬鹿だ、蜂にマラ刺されて、痛いとも言えず、かゆいとも言えず、ただ泣くばかり」(山梨県の久那土村車田、マラとは男根のこと) 「ヤァ オーマラ オーマラ オーマラ」(新潟県中頚城郡谷浜)) 後者の囃し言葉は必ずしも悪口とはいえないが、滑稽な感じから悪ふざけの雰囲気はでている。また、道祖神を直接罵倒してはいないが、祭りで子供たちの喜捨乞いに快く応じなかった家に対しドンド焼きの場で「〇〇さの田圃は荒れちまーえ」「××さのぢんぢ(爺)ばんば(媼)早く死ーね」などと囃しながら道祖神を火中に投じたり用水に蹴落とした。ケチな村人への八つ当りのような囃し言葉で、間接的に道祖神を虐待している。
つぎは縛り上げないし引摺りである。長野県下伊那郡高森町大島山では、祭りに際して「サイノカミを注連縄で結えて火の中に入れたり、火の周りを引き廻したりした」。祭りには直接関係しないが、神奈川県の秦野市では「妻が産気づくと、道祖神の塔を倒し、安産だったら塔を戻す」。同県の中井町では「お産が近づくと、子供が道祖神をうつぶせにする」。そのほか神奈川県ではサイトバの石造物は、「しばしばサイトの儀礼の一部として荒縄でもってくくられ引き廻されたり、サイトの火に投げ込まれるなど、手荒らな取扱をうけてきた。ゴロ石を縄で縛って引き廻し、大地を突き固めるのは、地方によっては亥の子の習俗の一部として、ゴロ石は自然石ではなくて、五輪塔の風空輪である」。
次は鞭打・百叩きの類である。「各戸で病身の者がいるかどうか尋ね回り、病臥している者がいると、その悪い所を聞いて帰る。それから石神を荒縄で縛りあげて、ササラ竹で叩きながら叫ぶ『〇〇さんの病気をなおせ!』 この鞭打ちは、病人の数だけ繰り返される。また塚原日影では、病気の者が直接出向いて石神に鉢巻きをし、それから棒で叩きながら『なおしてくれ!』と哀願呪訴する」(神奈川県南足柄市三竹山)。「雨が降らないようにとの祈願に、子供が道祖神を荒縄で縛り、青竹でぶった。また、きらいな学校の先生が病気になるようにと同じことをした」(南足柄市)。「病気治しを子供に頼むと、青竹でひっぱたいて祈願する」(開成町)。以上はみな神奈川県のサンプルだが、全国的にみると神仏に対するこのような虐待・強請は、道祖神よりは地蔵に対しての方がよく知られている。
次は溺死や焼き殺しの刑である。「鰤がたくさん揚がるように、当時の子供達が道祖神の頭や肩、地面などを竹の棒で拍子をとって叩いたりしたこと、(それ以前には海に道祖神をほうり込み、豊漁だと、再び元の場所に道祖神を戻し、安置したこともあった)」(神奈川県真鶴町)。駿河や伊豆では道祖神は、海や川にはよく投げ込まれたらしく、歌人の岡野弘彦氏による以下の証言もある。戦前は「伊豆の村々の道の辻にまつられている小さな石のさいの神、道祖神を子供が縄などを掛けて引きずってきて、おん幣焼きの火中に投げ入れたり、さらに橋の上から水中に投げ入れたりしてはやしたてた」。
最後に、石仏を盗む心、盗まれる心に寄り添ってみたい。安曇野は道祖神の里だが、そこの石仏たちは、昔からよく盗まれたものである。豊作祈願や家内安全でご利益あり、と知れわたった道祖神石仏は、他村の農民たちによって持ち去られるのだった。素朴な信仰心に起因する庶民の仕業である。盗まれた村では、あえてそれを取り返さないこともしばしばだった。あるいはまた、盗まれることを予測して、石仏の裏側に、その金額を記しておくこともあった。江戸時代には、道祖神の御縁想とか嫁入りとか称していた。このような、石仏を盗む心、盗まれる心は、村々の共同幻想に深くかかわるといえよう。吉本が『遠野物語拾遺』で注目した仏像と子供たちの関係は精進湖畔ほかにみられる神仏をぞんざいに扱う共同儀礼に含まれる。けっして<性>的対幻想でありはしないのだ。(下に続く)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study553:120903〕