「武蔵野」という名前から直ちに連想するのはやはり国木田独歩の『武蔵野』である。
独歩の『武蔵野』の一節に最初に触れた時の記憶は今でも割にはっきりしている。小学生だった頃手に取った漫画で、手塚治虫が描いた「赤猫」(?)というタイトルのものがあった。ストーリーは詳細には思い出せないが、そこに武蔵野の情景が独歩を引きながら次のように紹介されていた。
武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へゆけばかならず其処に見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由て始めて獲られる。…(岩波文庫版『武蔵野』p.18)
確か、この引用文の最後に、手塚治虫の手になる『そこに小さな祠があるのを見つけるだろう』といったような一文が付け加えられていたように記憶する。
まだ10歳ぐらいではあったが、それでもここに引用された武蔵野のイメージはこの漫画のストーリー(赤猫の運命)と重なって妙に鮮明で、物悲しく、まるで映像の世界に引き込まれるような感じがしたことを覚えている。
この手塚漫画のストーリーは、ドイツの社会主義リアリズム系の女流作家、ルイーゼ・リンザー(Luise Rinser)の“Die rote Katze“(赤猫)にヒントを得て作られたのではないだろうか、ということはかなり後になってから考えたことだ。
再び独歩に戻る。この頃の武蔵野は甲州をも含む広大な領域を指している。渋谷がまだ渋谷村だった時代で、鉄道は1895年にやっと飯田町(飯田橋近くの、今は操車場になっている場所)から八王子までが全通している。往時の武蔵野とは武蔵野台地全体をさしていると考えるほうがよさそうだ。だがここではあえて武蔵野の範囲を今の多摩地域、特に三鷹から小金井近辺の狭い地域に限定してみたい。
この地域も、今では武蔵野の原野や雑木林というイメージとは程遠くなっている。高層のビルが林立し、道路は人と車であふれている。かつての静かな武蔵野の佇まいはどこに行ったのであろうかと訝しくなる。それでも、意識して独歩などの文人の足跡を訪ねてみれば、まだあちこちに少しはそれらしい残り香をかぐことはできる。春の一日、花見がてらに少しそういう逍遥を試みた。
武蔵境駅の北口から通称「独歩通り」(境通り)をまっすぐに境浄水場の方に歩いて行くと、玉川上水と交じえる場所に行きつく。ここに掛る橋(桜橋)の脇に独歩の文学碑が建っている。また、三鷹駅北口交番横の小さな公園は「独歩公園」と名付けられているが、この桜橋や公園などは、かつて独歩が恋人信子(当時はまだ17歳だったそうだが)と連れ立って散歩していたところだという。二人はやがて徳富蘇峰の媒酌で一緒になるのだが、それも半年余りで破局を迎える。
言わずもがなのことだが、玉川上水は1948年に太宰治が入水自殺(情死)したところである。三鷹駅の南口から玉川上水に沿って井之頭公園方向に少し歩いた右手の方に、かつて太宰が住んでいた家が残っている。その近くには『路傍の石』などの作品で知られる山本有三の住居跡(今では記念館となっている)もあるし、三鷹駅から南の方向に行けば、森鴎外と太宰治が眠る禅林寺もある。鴎外(森林太郎の墓とある)と太宰の墓が互いに向かい合ってあるのも面白い。6月19日の「桜桃忌」には相変わらず若い太宰ファンが大勢集まって来ると聞く。
一方、目を小金井の方に転ずれば、小金井公園の正門を出てすぐ前の五日市街道を渡って南に歩くと「浴恩公園」というよく整備された小さな和風の公園に出会う。その中に、「浴恩館」という昔の小学校かなんかの様な木造の建物がある(今では小金井の郷土博物館になっているが)。ここで当時、大日本青年団講習所所長を務めていた下村湖人が自分の幼少期の体験を基に『次郎物語』を書いたと言われる。
『路傍の石』や『次郎物語』を今読めばどういう感想がするであろうか。素直にいじめや疎外感の超克物語として読めるであろうか?克己努力して一人前の人間に育つことが大切であるという、かつての「修身教育」の押し付けだとは感じないだろうか?この点大いに疑問が残る。私見では、これらの物語に欠けているのは、例えばフィールディングの『トム・ジョーンズ』に見られるようなユーモアや社会批判の精神だったのではないかという点だ。だから容易に体制側の広告塔に利用されてしまう。
更に、武蔵小金井駅の南口を出て、小金井街道をまっすぐ5分ほど歩いて、前原交差点を通り抜けたあたりの銀行の脇道を下方に進むと「はけの道」という粋な小道に出る。それを武蔵野公園の方に10分位行くと左手に「中村研一美術館」がある。そのすぐ脇に木札が立っていて、ここにかつて大岡昇平が寄寓していた富永次郎邸があったと説明している。この地で彼の有名な『武蔵野夫人』が生まれたのである。この小説は次のような書き出しで始まっている。
土地の人はなぜそこが「はけ」と呼ばれるかを知らない。・・・・・
中央線国分寺駅と小金井駅の中間、線路から平坦な畠中の道を二丁南へ行くと、道は突然下りとなる。「野川」と呼ばれる一つの小川の流域がそこに開けているが、流れの細い割に斜面の高いのは、これがかって古い地質時代に・・・古代多摩川が、次第に西南に移って行った跡で、斜面はその途中作った最も古い段丘の一つだからである。・・・
この小説はいたるところで「はけ」や野川や国分寺崖(がい)線と呼ばれる古い地層について触れている。いわばこれらがこの物語のバックボーンを成している。この独特な環境、景色がこの物語に何とも知れぬ味わいを添えている。丁度バルザックの小説が、家や家具類の説明、その家の環境の説明などをかなり執拗に叙述してから始まるのに似ている。
まあ、ここでは文学散歩ということなので、これ以上中身に立ち入ることはせず、この近くの野川の桜と「名勝小金井サクラ」(最近ではカタカナの呼び方に統一されているそうだ)を愛でながらのほろ酔い加減の散歩を楽しみたい。
まず、野川沿いの散歩をしながら愛でる桜並木は見事である。これは、国分寺駅の南口から、東京経済大学方向へ歩き、大学の横手の道を抜けたところで出会う野川の両岸の桜並木、この並木は延々と武蔵野公園、また野川公園にまでとぎれとぎれではあるが続いている。野川沿いの散歩は四季折々の様相変化を十分に楽しませてくれるが、特にこの季節の華やかさは、まるで木々に極彩色の提燈や雪洞をつるして飾り立てたようで、青い空の色と見事に調和して、いやがうえにも気分が高揚してくる。
広い武蔵野公園、野川公園には実際にまだ武蔵野の面影が残されているように思う。様々な灌木が生い茂り、勿論、梅や桜や桃や椿は見事な花をつけ、木洩れ日が暖かな春を告げて来る。身体全体が自然に伸びやかになるのを感ずる。
野川1
野川2
武蔵野公園1
武蔵野公園2
「小金井桜」という名前は、江戸時代の半ばごろにはよく知られていたようだ。歌川(安藤)広重の浮世絵(「武州小金井堤満花之図」など)にも描かれている。また、明治時代の古い写真で木造りの小金井橋を渡る大勢の花見客の様子などを見ることもできる。
玉川の流れを引ける小金井の桜の花は葉ながら咲けり 正岡子規
歌川(安藤)広重の浮世絵
小金井橋(明治期)
およそ80ヘクタールもある小金井公園には約1800本の桜の木が植わっている。また公園の脇を流れる玉川上水に沿って商大橋辺から境橋までの約6キロに亘り、かなりの数の桜が両岸に植えられている。中には相当な年月を経た古木もある。
小金井桜のそもそもの由来は、元文2年(1737)、武蔵野新田世話役であった川崎平右衛門定孝(彼の記念碑は小金井公園のすぐ近くの海岸寺にある)が幕命によって植えたことに始まる。(注:川崎平右衛門(1694~1767)は、 元禄7年生まれ、押立村(現府中市)名主、武蔵野新田世話役、代官として村々の復興、救済に尽力した。人々から 敬愛され、真蔵院(小金井市関野町)、妙法寺(国分寺市北町) などに供養塔がある。)
*資料としては次のものなどがある。「小平・玉川上水再々発見の会 小平・玉川上水再々発見の会」
http://kodairagreenroad.com/tamagawajyousuionepointguide/9koganeisakura.pdf
毎年、桜の咲く頃には見物客でにぎわい、多くの出店も立つ。「江戸東京たてもの園(旧郷土館)」前の広場には演芸場も設営される。しかし、「桜まつり」と銘打たれた3日間には、毎年決まって雨が降り、強風に祟られる。東国の独立を標榜した平将門の怨霊のなせる業か?いや、今となっては沖縄の独立を目指す人たちの恨みかもしれない、などと取りとめもないことを考えながら美酒に浸るのもまた楽しい。
小金井公園
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