2015年3月16日の参議院予算委員会で、三原じゅん子議員(自民党)が、多国籍企業への課税に関する質問中、「八紘一宇」(はっこういちう)を、世界に通ずる助け合いの理念だと述べ、弱肉強食のグローバル経済への対抗理念として日本が採用することを首相らに求めた。三原氏の非歴史的な発想と国会・メディア・世論の鈍感な反応に私は驚いている。
《近衛内閣で国家スローガンとなった「八紘一宇」》
八紘一宇は「大東亜共栄圏」と並んで「大東亜戦争」を支えた理念でありスローガンであった。参考までに本稿末尾に歴史辞典の記述を掲げておく。
その語源は『日本書紀』にあり、田中智学という日蓮宗信者が、おそらく1920年代に四文字熟語として造語したものである。戦争の正当化に利用され始めたのは1930年代である。文部省教学局は、38年に「八紘一宇の精神」として次のように述べている。■から■まで。
■今次の支那事変は(略)巳むを得ず兵を出してこれを撃ったのであって、支那の悪夢を醒まさせ、我が肇国の理想たる八紘一宇の精神を光被せしめて真に提携の実を挙げ、東洋永遠の平和を確立し、更にこれを世界に及ぼして、和気靄々たる一家の如き世界平和を樹立せんがためである。(政府発行の『週報』第76号、1938年3月30日発行)■
「八紘一宇」は、40年7月に発足した第2次近衛文麿内閣によって国家理念の基礎となった。「高度国防国家体制」、「東亜協同体制」、「国内翼賛体制」の確立が三大政策目標となった。同年9月の日独伊三国同盟締結の際に発せられた昭和天皇の「詔書」は、「大義ハ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ」と始まっている。「八紘」(四方八方の意)は、神武天「令(みことのり)」では「クニ」全体であるが、帝国政府は「クニ」を「全世界」と再解釈したのである。
《航空特攻基地の従軍文学者による報告》
「八紘隊は征く」という文章がある。
大衆作家の中野実が、従軍記者として、国内の陸軍特攻基地を取材した報告である。
『文藝春秋』の1945年2月号に載ったこの記事に私は泣いた。
数日後に特別攻撃に出る若い兵士との会話や中野の感想が意外と率直に記録されている。
特攻兵士は直前の特別休暇で帰郷した。「もう二度と会えない」と家族や友人に言えなかったと中野に語った。搭乗機を自分の「棺桶」であるとも述べている。米軍の迎撃戦闘機と対空砲火で全機が撃墜されることを中野は書いていない。しかし読者には分かっていたと思う。死にたくないと正直にいう隊員もいる。
ここで特攻兵士数名に関しての中野の記述を紹介する。
■小平兵長
郷里へかえったら、途中でパッタリ先生に会いました。小さい時から、先生は、私に無駄死するなと教えてくれました。先生にうちあけようと思いましたが、とうとうそのままお別れしてしまいました。しかし、私は、先生にお会いできて、こんなうれしいこしはありませんでした。父は、隊へ面会に来てくれました。父は、諒解をしてくれました。
小平兵長は十九歳。恩師を偲びつつ征途にたつのである。先生。安心して下さい。そして、小平兵長の最後の言葉を喜んであげてください。
■寺田兵長
自分は何もいうことはありません。ただ今度休暇をもらって、国へかえる途中で、汽車でも電車の中でも、自分が航空隊の者であることを知って、みんな親切に、席を譲ってくれたりしてくれました。それで、国民の期待を強く感じました。責任が重いことを感じました。家へかえって、岩本大尉殿の話をしながら、自分も第一線へいよいよ立つなと思っていると、万朶隊(ばんだたい、特攻隊は固有の隊名をつけられていた)の戦果が発表になりました。家でも期待しておりますから、その期待にそむかないつもりであります。
寺田兵長も十九歳。小柄であるが、怜悧な眸、子供々々した口もと。国民の期待と責任の重大――こんな言葉が、しかも、私の胸に響いたのは、皇国の神兵たる十九歳の熱血と燃えるような肉体とがよく裏うちしているからである。そしてこれは、もはや言葉ではない。肉体で書かれているのである。肉体と精神そのものなのである。
■渡辺伍長
渡辺伍長はせき込んでいう。はげしい力をこめて次のごとくいう。率直にいいます、死ぬのはいけないのだ。私は、内心寂しいと思っています。
私は、ここで渡辺伍長の言葉をありのままに記録した。そして、私はあえて、これに注釈を加えまいと思う。(略)私は伍長とほとんど丸二日一緒にいた。下士官室を訪れて、私は無言の中に、渡辺伍長を凝視しつづけた。私は後記するであろうが、この渡辺伍長こそ真先に敵艦に突入するであろうことを疑わない。それほど、不敵な渡辺伍長の面魂が私の眼底から離れないのである。
《八紘隊万歳・八紘隊万歳・八紘隊万歳》
中野報告の最後の部分を次に掲げる。■から■まで。
■三浦中尉(隊長)は隊員を引率して、見送りの人々に挨拶して廻る。
さっと、その列の中から、日章旗をふり出した一団があった。さっき見張所に現れた少年飛行兵の一群だ。
「しっかりやれ」
「がんばれ」
「俺もあとから行くぞ」
そのすさまじい声援と気魂。たのもしいと云おうか、眼中、生も死もないのである。しんがりの方の隊員の四、五人は、その一団に、肩をたたかれ、手を握られ、戦友の間にまじって、歓呼のどよめきがしばしつづく。
「八紘隊万歳。」
私もたまらなくなって、隊員のあとから駈けだした。列のうしろを追いかける。先頭にたつ三浦隊長は挙手の敬礼のまま、莞爾として歩を運ぶ。
「万歳、八紘隊万歳。」
旗の波にともすれば隊員の顔が視界から消えてしまう。渡辺伍長が、一番あとになってしまった。あ、もう花束がおくられている。何の花か。赤、黄、紫、ぱっと一瞬私の視界を掠めた。と、次の瞬間、三浦中尉は、一散に向うへ駈けだした。
進発、十時十五分。
見よ。隊長機が滑空を始めた。万歳、万歳。つづいて、一番機、二番機、三番機。離陸だ。四番機。また五番機、ああ全機、離陸。真一文字に、大いなる空へ。
やがて、飛行場の北端に、ポツリと機影が見えた、一つ、二つ、三つ。――見事な編隊飛行。飛ぶ。飛ぶ。万歳。万歳。
「八紘隊万歳。」■
読者は気付かれたであろう。この特攻隊の隊名は「八紘隊」なのである。勿論「八紘一宇」からとったのである。
言葉は歴史的文脈を離れて勝手に使ってはならない。ここに描かれたのが「八紘一宇」の実像であった。この実像は八紘一宇」の敗北と絶望を明示している。侵略戦争の被害者であり加害者であった特攻兵士の悲惨を如実に表現している。しかしこう書いている私自身が研究者の資料で「八紘一宇」を学んでいる。「八紘一宇」は私の内面に身体化されなかった。
私は、戦後70年で「平和・民主・自由」が、我々の内面にそれなりに定着したと思っていた。
しかし、三原じゅん子議員のホームページで支援者のコメントを読んで驚愕した。彼女の発言への賛辞が津波のように押し寄せているのである。読者も三原氏のサイトを読んで欲しい。
評論家の河上徹太郎は、敗戦直後に「配給された「自由」」を書いた(『東京新聞』、1945年10月26日~27日)。
河上は、与えられた「言論の自由」のもとで戦争責任者に復讐するよりも、文化人はひとまず自分の仕事に帰り、文化自体のなかに真の自由を道を模索するべきだと主張した。河上徹太郎が顰蹙を買ったその言葉、「配給された自由」は70年間、知識人にも大衆にも配給されたままで、我々の内面に到達しなかったのではないか。「八紘一宇」も「歴史認識」として我々の内面に達しなかったのではないか。
《「八紘一宇」は悲しみと怒りへの言葉である》
三原じゅん子は「八紘隊」を知っているのか。麻生太郎は知っているのか。安倍晋三はそれを知っているのか。そして君は「八紘隊」を知っているか。
「八紘一宇」は開国以来の伝統だなどと言って礼賛すべき言葉ではない。「八紘一宇」は、我々に「深い悲しみと強い憤り」を呼び起こす言葉である。(2015/03/20)
■八紘一宇(『日本歴史大事典』、小学館・2001年)
第二次大戦期の日本の戦争目的を正当化するための標語。『日本書紀』に記された、神武天皇が橿原(かしはら)に都を定めたときの「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)ん」との詔に由来。田中智学が1903年(明治36)に「一宇」と成語、「天地一宇」ついで「八紘一宇」の語を普及させた。とくに1937年(昭和13)の日中戦争以降頻繁に使われれるようになり、40年7月第二次近衛内閣で閣議決定された「基本国策要綱」のなかで、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基づき・・・大東亜の新秩序を建設するりあり」と述べられ、以後「大東亜共栄圏」思想を正当化するための用語として用いられた。戦後、連合国軍は神道指令、プレスコードによりこの語の使用を禁止した。(北河賢三執筆)
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